中世から戦国期の歴史上の動きを理解するために大切な、「村」や「城」についての端的な解説文を二つ紹介しよう。

 

 

 

 村といえば「日本的村社会」などという言葉の印象から、日本の歴史とともに存在していたように錯覚しがちであるが、現在我々の知る村が成立してくるのは中世後期であった。その村は惣有財産、地下請、村法(そんぽう)と自検断(じけんだん)という三つの要件をそなえた自治組織である。

 

 惣有(そうゆう)財産とはむらという組織のもつ財産であり、村という、いわば「法人」に属するものである。村民の生活資源を確保する山野など入会地、また農業用水の供給を維持するための灌漑施設、さらには村の資産として蓄積され、村が必要とする資金調達の際用いられる惣有田などの土地がこれに該当する。

 

 第二の地下請(じげうけ)は、近世になると村請ともいわれ、村という組織が領主に対して年貢納入を請負うものである。これにより領主は村民を直接支配することをやめ、通常は村との契約関係において年貢を徴収するのみとなり、村民の訴えがなされるなど非常の場合以外村に介入しないようになるのである。

 

 第三に、村によって村のための法令が制定され、それに基づいて犯罪の処理,犯人の逮捕・処罰などの警察行為が村民の手による自検断により実施されるようになるのである。

 

 これらをそなえた惣村と呼ばれる運営組織を持つ村は、鎌倉末に畿内とその周辺地域に現れ、室町時代に各地にひろがっていった。戦国乱世の民衆のおおくは、この村の一員として戦乱に対処していったのである。

 (神田千里著「戦国乱世を生きる力」―70-)

 

 

 

 掻揚城と詰めの城

 

 ちなみに、日本の城と中国・西洋の城の大きな違いに、石垣の存在がある。ルイス・フロイスも「切断されていない石を積み上げた」という表現で、ヨーロッパやエジプトの切石タイプとは違う石垣に注目している。

 

 良い石が、日本ではあまり産出しないせいだろうが、それでも石垣は信長の時代に急速に普及した。それまでは、堀を掘った時に出た土をそのまま脇に積み上げた「掻揚城」つまり土塁と堀に囲まれた城が、日本における最も標準的な城だった。そして甲州武田氏のように、舘は町の中心に掻揚式で作り、いざという時の避難場所を急峻な山の上に作る(詰の城)という方法も一般的だった。

 (井沢元彦著「逆説の日本史10-戦国覇王編-」-305-)

 

 
 

 農民組織が守護を倒す一揆や「高尾での攻防」を、その時代に即してイメージするための村落や城の具体的な記述があまり見られない中、上掲の二文は格好の材料と思えます。

 

 (2011.02.24)

わが町歴史探索