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 ☆長享二年(1488)六月、加賀の守護富樫政親が国内の反政親派の国人や、真宗本願寺派の坊主・門徒らによって攻められ、石川郡富樫庄の高尾城で自害して果てた事変は、世に長享一揆とよばれ、日本歴史のうえで画期的な出来事とされている☆[注1]

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 「中学や高校の歴史の時間、石川県がクローズアップされる唯一ともいえる出来事ですよね」

 「私が、中世の日本史に強い関心を持つようになった原点もそこにある」

 

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[注2]

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 「少し長いが、『官地論』という地元の戦記物からの引用だよ」

 「分かりにくい単語もあるけど、身震いするような戦闘場面の表現ですね」

 

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 ☆戦国軍記というジャンルがある。応仁の乱以後の戦国動乱の世、諸国で戦われた大小さまざまの合戦を、地方ごと合戦ごとに記録した軍記をいいその数はおびただしい。なかでも、長享年間の加賀一向一揆と南加賀守護富樫政親の抗争を描いた「官地論」は屈指の佳編である。(中略) 作者不詳ではあるが、一向宗(真宗)の思想・教説にくわしい人物であり、少なく

 とも富樫側ではない。☆[注3]

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 「平家物語や源平盛衰記などが中央政権の争奪とすれば、官地論は地方政権の争奪を描いたもの。成立は一揆支配の終わりころとされる」

 「どうして、守護を攻めることになったのでしょう・」

 「伏線は、日本国中を騒乱に巻き込んだ応仁の乱だろうが、直接には戦費の調達に伴う賦課、今で言えば増税が原因とされる」

 

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 ☆一揆勢と富樫の対立が爆発したのが、長享元年(1487)の九代将軍義尚による六角征伐であった。この戦いには全国の大名が動員された。政親も参陣した。つまり自分の軍団を率いて国を留守にしたのである。

 そして、新しい軍役のために、地元加賀には臨時の税や労役が課せられることになった。当然、不満は広がる。しかも、政親は国にいない。

 一揆勢にとっては、絶好のタイミングであった。彼等は政親に不満を持つ大叔父の富樫泰高をかついで、一斉に兵を挙げた。驚いた政親は帰国し一揆勢と戦ったが、結局翌年城に追い込まれ自刃した。☆[注4]

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 「この時、諏訪の森(矢作の藤岡諏訪神社周辺)も一揆勢の集結地の一つだった。[注5]また、主戦場高尾については、次のような後世の民間伝承もある」

 

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 ☆富樫政親死するの際より、燐火此の高尾山間より出づ。世俗今是を高尾の亡主火といふ。政親の亡魂怨結して化する者耶・・(文化2(1805)成立の「越登賀三州志」)☆

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 「坊主ではなく、亡主火ですか。幼い頃聞いた『火の玉』のことですね」

 「三百年もたてば、言葉遊び的な面も出るだろうが、政権中枢はもとより地元の庶民のあいだでも、衝撃的な事件として長く語り継がれていた証拠だろうな」

 「勝った負けたは、その時だけのこと・」

 「やはり、主君とあおいでいた人を攻め亡ぼしたことは、多くの人の胸の痛みとして残ったのかも・・。それを窺わせるものとして、室生犀星の文章が挙げられよう」[注6]

 「ここでは、富樫と敵対したのが、一向宗ではなく佐々成政になっていますね・」

 「加賀藩の始祖前田利家と佐々成政が一時敵対関係になったが、そんな後世の出来事といつか混同されていったのだろうな」

 

 (2011.02.25)

 [注1]郷土史事典 石川県 -79-

 [注2]『官地論』「ふるさと石川の文学」より

 [注3]ふるさと石川の文学 -61-

 [注4]井沢元彦著「逆説の日本史8」-332-

 [注5]図説野々市町の歴史 -52-

 [注6]『鞍ケ岳の池』 室生犀星著「幼年時代」より

 [参照]「虫送り」のDVD解説書

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