「一向一揆というと覚えやすいのですが、一揆という言葉の意味が、私たちには分かりにくい・」
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☆一揆とは、揆を一にする(道を同じくする)との原義を持つ、団結した集団のことである。この集団が、多くの場合武力行使に及ぶので、集団的武力行使のことと考えられやすいが、本来は団結した団体を指す言葉であった。☆[注1]
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「揆を一にするといっても、具体的には何を指すのか、時代の壁に阻まれて理解しにくいのだろうね」
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☆長享一揆のスローガンというか、結集軸は史料的には、三つでている。一つは寺社本所領還付。二つは、限りある年貢公事以外の課役(臨時軍費)の賦課を拒否。三つ目が、仏法を守る護法である。☆[注2]
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「政治的な要求を掲げた結社でしょうか、現代に置き換えれば・。仏法を守るというものがあるから、土一揆や国一揆ではなく、一向という文字が加わった?」
「蓮如が北陸に布教を広めた時期と重なり、信仰を同じくする者が多数を占めれば、より団結が強まったと考えられる。幾つかの念仏宗派が、当時は一向宗と総称されていたようだ。」
「それにしても、守護を倒すほどの武力が農民にあったのでしょうか」
「私も、その疑問が出発点となって、中世の歴史書を漁って来たんだが・」
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☆一揆の時に鐘を鳴らすとみんなが武装して集まったという。これは日常的にそのような条件反射があるということになる。(中略)日本の中世の農村では、村が武力を用意して村の縄張りを自力で守っていた。☆[注3」
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「その頃は、今の警察制度みたいなものは行き渡っていませんよね」
「支配層が権力争いに明け暮れた乱世では、村法(掟)と自検断という治安維持上の自治権があった[注4]ことが、歴史研究が進むにつれ、かなり明確になってきたようだ」
「身近な問題は、自分たちで調べ裁くということですか」
「そう理解するのが正しいようだ。例えば、村うちでの犯罪の検挙や処罰は合議で行っている。また、徒党を組んだならず者の侵略から村を守るにも、相応の武力は欠かせないだろう」
「スローガンのうち戦費増税に反対することは誰でも解かりますが、寺社本所領というのは何のことか・・」
「歴史学者の間でも難問だったようで、郷土史の講演では、どなたもそこの説明になると口ごもり気味だった」
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☆寺社本所領すなわち摂関家領は、守護不入権をもち、本所領は当時の村民のなかでも、守護領などと違って、明白に差別化された、いわば憧れの領主の土地だったと考えられる。☆[注5]
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「守護に支配されるよりは、ましというわけ・・」
「長い期間の疑問の一つだったが、端的に言えばそんなところかも・」
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☆一向宗の門徒たちは、富樫泰高を守護として奉りながらも、実質的に加賀の国を支配し、「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。ただし、しばしば誤解されているように、守護がいなくなったのではない。泰高の曾孫である晴貞が一揆勢と対立して敗死したのは、もはや戦国も終わりに近づいた1570年のことであった。☆[注6]
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「中央政権が指名した守護を討ったのだから、現代の感覚からすれば、民衆による反逆と捕らえられやすいが、事件当時はそういう見方はされていなかったようだ。つまり、都の権力者や守護とは曲りなりに折り合いがついていたのだろうね」
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☆長享の事件から三年後の延徳三年(1491)に、細川政元が慶覚の館に一泊した。この時政元一行は、越前・加賀・越中から越後まで足を延ばしている。その途次である。☆[注7]
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「慶覚とは・・」
「一向一揆は郡ごとに組織されたが、石川郡一揆のリーダー格の一人、州崎慶覚のことだよ」
「細川家といえば、確か室町将軍の管領を勤める家柄でしたね・」
「私も最初は、不可解な印象だったが、その頃の政治状況が分かるにつれて、その辺りは少しずつ納得できるようになってきた。ただ、簡単に説明しろと言われても難しいが・」
【富樫晴貞が描いたとされる「牽馬図」】[注8]
(2011.3.15)
[注1]神田千里著「戦国乱世を生きる力」-58-
[注2]金龍 静著「加賀の一向一揆500年」-119-
[注3]藤木久志著 同上 -195-
[注4][注1]に同じ -75-
[注5][注1]に同じ ―76-
[注6]八幡和郎著「戦国大名県別国盗り物語」-239-
[注7]中橋大道著「中世加賀『希有事也』の光景」-200-
[注8]中央公民館に展示されている富樫史料の一つ(複製)。所蔵は金沢工業大学。
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