「伯父さんと問答を重ねていると、ふるさとの歴史というより、それを包みこむ日本とは何なのだろうか、そんな疑問がわいてくるのですが・」

 「ほう、史さんでもそうなのか」

 「たとえば、神社シリーズでは日吉社と比叡山のつながり、力石にからまる弁慶伝説など、この地方だけの話ではない・・」

 「神社名では、春日・八幡・白山・諏訪社など全国いたるところにある」

 「地方史というのは、全国的なうねりの中の一つの波というのかしら」

 「そう、まさにそれなんだ。また、史さんにポイントを稼がれた」(笑)

 「虫送りなど、地域独特の伝統行事と思っていたものが、その実全国的な広がりをもっていて、根底には民族の自然観みたいなものがひそんでいる」

 「そこをもっと詰めると、そのような日本を形づくる日本人とは何なのかという処へゆくと思う」

 「ふつうは、日本という国土に生まれ育ったから日本人・・、くらいの解釈で分かったつもりになっていますね」

 「むろん、その中には言葉(国語)も含まれるが、それに関して次の抜粋文を読んでほしい」

 

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 ☆現在日本の呉音として定着している漢字音は、おもにこの六朝期の音系(南朝の劉音)を反映していると言われている。六朝時代に使われていた音は、その時代使われていた漢文体、漢字そのものとともに日本に流れこんだ。

 「宋書」(488年)の倭国伝には、倭の五王が南朝宋と接触をかさねた記事が数多く残されている。またそのころ倭は百済との交流が最もさかんであり、その百済も南朝宋と接触をかさねていた(略) そのころ、我が国には独自の文字すらなく、自国語表記は「漢字」に頼るしかなかった。☆(注1)

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 「話し言葉はあったが、文字は無かった・。『漢字』は文字通り、漢の国の文字(外国語)だったのですね」

 「歴史の授業では、太安万侶(古事記)などの人名と一緒に習っているだろうが、ふだんはそんな意識はないよね」

 「万葉仮名から平安期の女流文学を生んだひらかなと、その使い勝手を一歩ずつ向上させて、現在の漢字かな交じり文へと連なっている」

 「あいうえおの音韻体系とサンスクリット語の関連については、12世紀ころ大聖寺に住んでいた明覚(みょうがく)師の功績が特記される。百済との交流については、次の文も興味深いよ」

 

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 ☆例の飛鳥の石造物、亀石や猿石やらいろいろありますね。あれがどこから来たかということが、いろいろ問題になりますけど、なんのことはない百済の故地を歩きますと、ああいうものは続々出てくる。たとえば扶余に近い益山には百済時代の弥勒寺の大きな石塔がありますが、そこに猿石がある。それがまさしく飛鳥の石造物そっくりです。☆(注2)

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 「国内だけで考えていると謎でも、視野を広めると簡単に解けるのですね」

 「玄海灘の沖ノ島や竹原古墳と新羅とのつながりなども、同書で指摘されている。もっと時代をさかのぼって、弥生時代後期の銅鐸についてのヒントが次の例だ」

 

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 ☆前漢の初め、遊牧民の匈奴は西北から漢を攻め漢を悩ましていたが、やがて攻勢に出た漢に追われ、分裂して東西に散った。その中に南下する匈奴もあった。南下した匈奴は雲南から東南アジアにかけて定着していった。しかし紀元前111年から漢の武帝の南方への出兵により、東南アジアを追い出された匈奴勢力は黒潮に乗って沖縄や奄美大島・九州南部にたどりついた。

  九州にたどりついた南匈奴は、すでに朝鮮半島から渡来して九州北部に存在した国々を避けて出雲地方に入り、さらに大和地方に進出した。そして東南アジア銅鼓系の特異な銅鐸文化を形成した。☆(注3)

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 「雲南というと中国でも奥地・。昆明でしたか世界遺産で有名な処は?」

 「そう、民族も風俗も、揚子江下流の中原(ちゅうげん)とは大きく異なる。その昆明での印象記がある」

 

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 ☆私は中国の昆明で、伊勢神宮の建物とまったく同じ様式の建物を見たことがある。漢時代の青銅の彫刻であった。まったく同じ高床式の建物が造られているのである。それは穀物倉であった。その周りに人びとが集まってお祭りをしている。豊穣を祈って、神にお供えもしている。それを見た時、私は農耕文明のはるかな流れを思って心を打たれた。☆(注4)

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 「昆明と伊勢神宮ですか、何とも想像を超える広がりですね。匈奴系の民族がリレー役を担ったということでしょうか」

 「誰も明言はできないだろうが、南方から日本への強い影響は、次の文章からも推測できる」

 

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 ☆1929年洋行のさい、シンガポールで船を降りたところ、砂浜が長くのび、ごくわずかな本数の先だけに葉のあるヤシの木があった。また日本の神社の原型のような民家が少し並んでおり、この景色を見ているうちにひどくなつかしい気がした。

  それはただのなつかしさではなく、異常な程度の強いなつかしさであった。その時以来私は、日本民族が南方から来たものであることを疑わない。☆(注5)

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 「なんだか、推理小説の謎解きみたいでわくわくしますね」

 「そう。今回引用した文は、いずれも歴史書とは違うのだが、日本人や日本文化の原型を構成している要素が何処からきているのかという点で、示唆するものが多い例証ではないだろうか・・」

 

 

【伊勢神宮外宮の御正殿(注6)】

 (2011.12.2)

 注1:藤村由加著「人麻呂の暗号」―83―

 注2:上原和ら著「美の秘密」―121―

 注3:小林惠子著「本当は恐ろしい万葉集」―252―

 注4:平山郁夫著「玄奘三蔵祈りの旅」―259―

 注5:岡 潔全集(1) -177-

 注6:神宮司庁「神宮」より

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