「御経塚の縄文遺跡と並んで末松廃寺跡も国指定レベルの文化的な価値を持っているのでしょう」

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  ☆昭和41年、文化財保護委員会(現文化庁)は、末松廃寺跡を史跡公園として整備することとし、発掘調査及び史跡環境整備を行った。これは、百済寺跡(大阪府)、多賀城跡(宮城県)につぐ全国3番目の国庫補助事業だった☆(注1)

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 「この報告書の発刊を機に、09年11月のシンポジュームが催され、いくつかの新知見が発表されたが、市民に広く周知するまでには時間がかかるだろうね」(注2)

 「末松廃寺というと和銅開珎がセットのように言われますが、その意味がよく分らない」

 「昭和36年、高村誠孝氏(末松)が用水路で発見した和銅開珎が学会の注目するところとなり、地元有志の運動もあって国指定の伏線となった」(注3)

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  ☆708年正月、武蔵国の秩父郡で発見された自然銅が献上され、それにちなんで、年号が和銅と改められた。ついで五月に銀銭、八月に銅銭が発行された。この銀銭と銅銭こそが和銅開珎だ。☆(注4)

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 「御経塚は市村さん、そして末松では高村さんですか」

 「おっ、うまい。そんな見方もあるか(笑)」

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  ☆また支払手段、流通手段としての貨幣というだけでなくて、和銅開珎は、一種の呪術的な使われ方もしている。たとえば、寺院を建てる時の基壇に和銅開珎を必ず置く。あるいは美濃の不破の関の発掘によって知られたことだが、和銅開珎が何枚か建物の隅に置かれている。そのような呪術的な意味をもって用いられることがあった。☆(注5)

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 「単なる貨幣としてではなく、おまじない的な使い方ですか」

 「物々交換的な交易の中で、何とでも交換できる便利さが、一種魔的な力を持つ物として受け取られたようだ。そのような時代背景はともあれ、最初に伽藍が建てられたのは660年代と推定されているが、銀銭が鋳造された年とのギャップが気になる」

 「40年以上の隔たりは、工事の遅れなどといった理由とは別でしょうね」

 「さらに、60mの高さになるとされる塔が、未完のままだったようだ」

 「それが、壬申の乱(672年)とからめられている理由ですか・・」

 「地方のことだから、文字としての記録はまず望めない。越前の深草廃寺や越中の御亭角廃寺ら周辺の史跡を含めての考古学(発掘)史料による推測なんだろうね」

 「高さが60mとは、1300年も前のものとは思えないわ」

 「他の発掘調査(注6)などが推定の根拠にあるのだろう。出土するはずの瓦がみつからないなど、塔が未完だったのは政治状況よりむしろ北陸特有の雷に因るのでは・・。これは素人だから言えるのだが、いまでもここら辺の高い建造物への落雷が珍しくないからね」

 「専門家の盲点ですか・・」

 「先の報告書にもどるが、図表を除くと280ページあまり。その半分以上が吉岡康暢氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)により記述されているが、実は私が高校一年時の学級担任の先生だったという縁がある」

 「えっ、まじで?」

 「史さんでも、そんな表現をするのか。(笑)その頃の私は野球部に属し、まさに体育会系だったから、地歴クラブとかいう変わった名前の顧問をされている吉岡先生には、あまり関心はなかった」

 「それが、今では一番(?)の理解者・・」

 「それはオーバー。(笑)そんな縁もあって、シンポジュームには参加したよ」

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  ☆塔心礎は戸室石ではなく手取川の安山岩と分かった。さらに瓦は旧辰口町湯屋で焼かれ、単弁六葉蓮華文は末松廃寺独特。これらから、財部造・道君・江沼臣など地方豪族の協力下に建築されたらしい(要点 のみ)☆(注7)

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 「僅かな手掛かりをもとに復元を試みる・・。推論の過程を理解するには、ある程度の基礎的な知識がいるようですね」

 「未知のことが多いから、様々な分野の研究者の協力が必要なのだろうね」

 

 

 

 【末松廃寺のイメージ映像】

 

 

  (2012.01.31)

 注1: 文化庁刊行「史跡 末松廃寺跡」 序より

 注2: ふるさと歴史シンポジウム「いまよみがえる末松廃寺」

 注3: 富奥農協刊行「TOMIOKU」-48-

 注4: 栄原永遠男著 「日本の歴史4『天平の時代』」-80-

 注5: 網野善彦著 「日本の歴史をよみなおす」-44-

 注6: 小学館刊 「日本の美をめぐる4」-17-

 注7: のっティ新聞15号(‘10-1) 4~5ページ

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