「こんにちは、今年は寒い冬でしたね」
「年をとると余計こたえるよ」(笑)
「先日の末松廃寺(第33話)は、和銅開珎や塔の高さの話でした」
「発掘された考古学的な資料から推測されている事柄だ。今回はその続編」
「ふつうだと、何故高い塔を建てようとしたのか、その目的は何なんだろうかと考えますね」
「そこなんだ。早くから、私は郷用水とその近辺に「寺」のつく地名が多いことが気になっていたが、その疑問を裏づける文を目にしている」
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☆扇状地の遺跡は、この郷用水系に集中している。そして、この水系には「寺」のつく地名が多い。上流部の知気寺、中流部の蓮花寺、西川・中川筋には安養寺、福正(聖)寺、専福寺等がある。その他古代・中世の廃寺跡や寺に関する小字地名が多い。これらはみな郷用水の地域が早く開かれたことを証明するものである。☆(注1)
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「旧松任市では、源平島など島のつく地名が目立ちますけど、こちらは寺ですか」
「先の報告書でも、次の文節がある」
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☆末松A遺跡を貫流する大溝は、7世紀末の公権力による組織的な労働力の徴発と、労働用具の提供による扇央部の開発を具現する遺構と評価できよう☆(注2)
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「開墾は農繁期を避けると冬期が中心。厳しい寒さの中で過酷な労役に駆り出されると、犠牲者の数も少なからずあっただろう。」
「そう言えば、蓮花や安養など死者への供養を想像させる名前みたい」
「なかなか鋭いな。知気や福聖は功績のあった指導者の名前に由来するのかも・。そのころは、土木の先進的な知識は、僧侶たちが担っていたからね」
「近くには、富光寺や道法寺という地名も。聞きなれた集落名にも、先人の営みの姿が秘められているんですね」
「開拓集団についてだが・」
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☆清金アガトウ地区を含め、集落が成立した7世紀末の竪穴建物の同時存在数は20棟前後、200人ほどの住民が想定される。これは、移民集団を中核とした計画的な開拓村・・☆(注3)
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「そこまで分かっているのですか・」
「さらに、用具など製鉄遺跡も近くにあった」
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☆礫床の掘削に不可欠な大量の農工具は南東1.8Kmばかりの上林新庄遺跡で、3小群ほどの工人集団が専業的に鍛鉄生産に参加し、集約生産が行われていたことは確実で、扇央部の開拓集落群を主たる供給対象とした拠点的な長期継続型の鍛治集落である☆(注4)
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「へー、末松だけでなく、清金や新庄にもその頃の遺跡が見つかっているのですか」
「用水の整備とそれに必要な工具や人々の生活物資の生産について、報告書では、
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☆7世紀後半の手取扇状地の開拓は、浅香年木氏以来強調されて来た公権力の発動による灌漑網の整備をテコとする面的開発と、考古学的成果が明らかにした計画村の編成、領域的編戸をめざす動きに、製鉄・陶(須恵器)・塩業など生産遺跡が本格的に稼働することと相即する☆(注5)
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と結論づける。」
「すごく組織的ですね。とても1300年も前のことと思えないわ」
「そして、周辺の広坂廃寺や三小牛ハバ遺跡なども考慮しながら、吉岡氏は次のように推論している」
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☆遠来の移民主体で推進された公的開発のランドマークとすると、巨大な塔が石川平野の全域から遠望されるモニュメントとして、視覚的効果が強く期待されたものか。☆(注6)
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「古代史につらなるロマンとでも言うのかしら・」
「末松の遺跡は、当市にとって歴史的な連想の働く数少ない場所だろうね」
【金沢平野の開拓(8・9世紀頃)】
(2012.3.30)
注1:手取川七ケ用水誌(上) -572-
注2:文化庁刊「史跡 末松廃寺跡」 -103-
注3: 〃 -101-
注4: 〃 -102,108-
注5: 〃 -122-
注6: 〃 -86-
わが町歴史探索