前回のスタディ編で、シャーロック・ホームズの名がでたが、足利政権における富樫氏の位置づけというか、室町幕府と富樫一族の関わりあいについて、歴史マニアを自認する熟年探偵団に委ねてみよう。

 

 「室町時代といえば、まずは六代将軍足利義教の勘気に触れて守護職を解任された教家の件が挙げられる」

 

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 - 嘉吉元(1441)年6月にも、加賀の守護富樫教家(のりいえ)が将軍義教の勘気に触れて出奔し、弟の康高が家督を嗣いだ。-(注1)

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 「山名や斯波(しば)など各地の守護家の家督相続に介入し、諸大名を恐怖させた義教の専制政治の下での一件だよね」

 「教家の守護職解任が6月18日。週日も経たない6月24日に赤松邸で将軍が犬死したという嘉吉(かきつ)の乱が勃発。富樫家では教家・康高の反目が始まった」

 「その後、1447年に加賀を南北に分け、北は教家の子成春、南は康高という形で一旦は教家・康高が和睦している」

 「とは申せ、一度分派抗争がはじまると、在地の家臣団を巻き込んでの火種が残ってしまうから、のちの幸千代・政親兄弟軋轢の伏線ともなっているんだろうな・」

 「最近知ったことだが、富樫と中央政権の関わりでは、満成(みつしげ)が四代将軍の側近として力をふるったという」

 

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 - 足利義持は(略)側近を重用して、諸大名の力を削ごうとした。最初に取り立てた側近は、富樫満成だった。義持政権初期に権勢をふるった(略)斯波義将(よしゆき)が応永17年に没すると、満成が将軍と諸大名間の取り次ぎ役として頭角をあらわす。応永21(1414)年には斯波満種が義持の怒りを買って加賀の守護職を解任され、富樫満成・満春兄弟が加賀国を半分ずつ与えられた。-(注2)

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 年表を見ると、1387年に斯波義将の弟義種が加賀の守護に任ぜられて以降、27年間の失地をようやく回復した・・」

 「その満成も、応永25(1418)年11月に失脚し、後に畠山満家によって暗殺され、富樫満春に満成の領地が加えられた」

 

 

 「そもそも、富樫家と足利政権のつながりはどこにあったのだろうか?」

 「郷土史に少し深入りすると、そこが先ず疑問点になる。遠く関東に根拠を持つ足利氏と北陸の小さな領主富樫との接点は何だったのか」

 「マゴ引きになるが、当地で行われた東四柳氏の講演録によると」

 

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 - (鎌倉幕府の崩壊から建武の新政へと政治の一大転換期に)富樫氏はこの転換期を六波羅探題の任務について都で迎え、以後南北朝時代になってからもずうっと富樫氏は国元の加賀にはかえらないで、足利尊氏について(従って)全国各地に転戦して武功を重ねる。-(注3)

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 「九州での菊池攻めなどで、手柄をたてたとかというのも、その一つだね」

 「中央政権とのつながりは出来たものの略年表を通覧すると、足利政権では三管領や四職の顔色を窺いながら守護職を務めはしても、しょせんは外様扱いで時々の権力争いに翻弄されているようだね」

 「日本史的には、大きな出来事とされる一向一揆に亡ぼされるのが長享2(1488)年。その二年まえに、富樫政親は九代将軍義尚に従って近江の六角氏攻めに加わり、戦費調達などで地元の反発をまねいたのがトリガーとなったようだ・」

 「戦国乱世への序章的な、加賀の政情。手取川流域の豊かな土地ではなく、高橋川という水利条件の悪い土地に根拠を置いた一族としては、戦国大名に成長するだけの力を蓄えられなかったというのが実態なのだろうね」

 「これまでのモヤモヤが、今回の論談でかなりすっきりして来た感じだね」

 「14・5世紀での富樫の一時的な盛期を、無理やり500年間に引き伸ばそうとするからこんがらかってしまう・」

 

 熟年探偵団の謎解きは、一応の筋道をつけられた模様なので、「本日はこれにて一件落着・」と致しましょう。

 

 (2014.6.18)

 注1;村井章介著「分裂する王権と社会」-266-

 注2;呉座勇一著「戦争の日本中世史」-275-

   この書では、満成・満春兄弟となっているが、富樫家系図では16代家明から四代目に満成の名が記され、一方満春は17代高家から三代目となっている。

 注3;東四柳史明講演録「加賀一向一揆と富樫」より

わが町歴史探索 スタディ編