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 ― どこまでも続くまっすぐな道。路面は平らで、その巾は12メートルほどであろうか。両側に広がる水田は、道に沿って整然と並ぶ・・-(注1)

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 「これは、考古学的な見地から想定された古代道路の姿を述べた文章だよ」

 「先日、北国街道ツアーと銘うったバス旅行で、米原・木ノ本などに残る旧北国街道を巡って来たが、江戸期の主要街道は3、6メートルくらいの道幅で、宿場町を出ると道筋も曲がりくねっていた」

 「それより遥かに古い時代だから、三・四百年前の道と比べれば、もっと細く簡単なものでは・と考えるのが普通だよね」

 「ところが予想外で、当地・三日市の土地区画整理事業に先だっての発掘調査でも、幅員8mの広い古代道路跡が見つかっている」

 

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 ― 平成15年(2003)土地区画整理事業の進む三日市A遺跡で、北東から南西方向に向けて直線的に伸びる二条の溝跡が発掘された。一定の間隔を保って平行していることから道路状の遺構であることは疑いなく、路面幅8mという規模の大きさより古代の官道である北陸道と判断された。-(注2)

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 「この道の延長線を西南の方向に望むと、石立集落の石柱に突き当たるらしい・・」

 

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 - 官道は東北東の方向で一直線に町域を横断し、犀川中流域を目指していた。またこの遺跡の西南西に位置する白山市石立町には、官道が大きく曲がるところに建てられたとされる立石状遺構が現存する。-(注3)

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 「1300年も前だと、物流といっても年貢など限られた物資しか無かったと思えるが、どうしてそんな大仰とも言える道を造ったのだろうか?」

 

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 - 駅路は、それまでの道路を拡幅・整備したものではなく、ほとんどの区間、それまで道路が通っていなかった場所に、新たに造ったものである。ある時は谷を埋め、ある時は丘を削って、ひたすらまっすぐに造った。その総延長は6300Kmにも及ぶ。- (注4)

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 「これは、最初に引用した文章の後ろに続く文だよ。そして『延喜式』に見られる駅路図も同書に載っている」(注5)

 

 「昭和30年代から始まった現代の高速道路の総延長に、ほぼ肩を並べるというから驚きだよな」

 「古代道路の築造は、その当時の条理制とも関連があったようだ・」

 

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 - 条理の地割方向と駅路とがぴったりと合致、駅路に面して郡衙(ぐんが)や国府が立地することが多いー(注6)

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 「そう言えば、近辺の津幡加茂遺跡でも古代道の遺構が見つかり、何か付属施設のようなものが出ていたっけ・・」

 「この近江氏の著作にも、それに触れているよ」

 

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 - 河北郡津幡町の加茂遺跡で発掘された北陸道駅路の側溝は、日本海につながる河北潟へ流れる水路と合流しており、合流部分の側溝が部分的に広がっている。付近には杭が打たれていることから、日本海から河北潟に運び込まれた荷物を小舟に積み替え、水路を通って駅路まで運び込んだと想定される。―(注7)

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 「条理制といえば、当地でも誰だったか調べている人がいなかった?」

 「郷土史に詳しかった二日市の松原さんのことかな・」

 

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 - 上林にその痕跡を探ると、中林から上林に入る直線の道路と東上林に入る道を条理の坪境とみることが出来る(略)-(注8)

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 「先達というのか、班田収受などという一般人には関心のもてないようなことを研究する町民がいたんだネ・」

 

 (2015.3.17)

 注1; 近江俊秀著「古代道路の謎」 -3-

 注2; 「図説野々市町の歴史」 -22-

 注3;     〃       -28-

 注4; 注1に同じ    -4-

 注5;     〃    -18・19-  

 注6;     〃    -72-

 注7;     〃    -125-

 注8; 松原敏夫「野々市の文化」6号 -6-

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