「浅野さん、いまから五千年まえの日本の人口はどれくらいだったと思いますか」

 「いきなり、そんな質問をされても答えようがないよ」

 「まったくだ。けど、少子化が社会問題となっている昨今、人口の歴史的な変遷を振り返ってみるのも、おもしろいのでは・・」

 「そこなんだよ。ここ4~5年来のことだが、歴史人口学という学問分野があって、一般向けの文庫本なども刊行されていることに気づいた」

 「近代的な人口統計のなかった古代や中世、ましてや縄文時代の人口など、どういう方法で調べるのかな」

 「学問分野として成り立つのだから、それなりに根拠となるものがあるのだろうね」

 「その通りなんだ。答えを先に言うと、五千年続いたとされる縄文時代だが、初期の2万人から、ピーク時26万人余、紀元前二千九百年ころの縄文晩期では7万5千人。この7万5千人が、約五千年まえの日本列島(北海道と沖縄は除く)の人口と推定されている」(注1)

 「御経塚遺跡も、たしか縄文晩期だったね」

 「この7万5千人の90%くらいが北陸を含む東日本にすんでいたらしい」

 「そういう知識を持って遺跡の出土品をながめると、また違う印象になる」

 「それから五千年で、一億三千万人まで増えてきたということですか」

 「何倍になったか、電卓でも持ってこないと・」(笑)

 「訪古さんの話だと、縄文時代でも一旦26万人まで増加しながら、三分の一弱の七万人余りにまで減少したのは、どうしてかな?」

 「地球が氷河期に入って、採取狩猟に食物をたよっていたため、人口維持が困難になった」

 「自然史の分野になるのか」

 「いろいろな学問の成果から、未知の事柄が解明されていくのだね」

 「引用の鬼頭氏によれば、過去一万年の間に四つの波が観察されるという」

 

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 -第一は縄文時代の人口循環、第二は弥生時代に始まる波、第三は十四・五世紀に始まる波、そして最後は十九世紀に始まり現代まで続く循環である。-(注2)

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 「先般、H紙で同氏の対談が、大きく扱われていましたね」

 「あなたも、読まれましたか・」

 「あれは分かりやすく読めたよね。画期的な技術革新などで、人口増加が起きてもどこかで停滞し、減少に転じるということが、学問的にわかってきたというわけ」

 「これらの書を手にした動機は、一向一揆という中世この地で起きた歴史的な事件での?マークが根っこにある。たとえば・」

 

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 -長享2年(1488)といえば応仁ノ乱から二十年後、足利将軍義尚のときである。立ち上がった一揆は十万または二十万といわれ、富樫政親の高尾城を包囲し、攻防一ケ月のすえその城をおとし(後略)-(注3)

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 「有名な蔭涼軒日録(注4)の孫引きだね」

 「こういう文章を読むと、いかにも十万単位の軍勢が繰り出されたかのごとく印象づけられるが、そこに私は疑問を持った」

 「なにか手掛かりでも・」

 「ええ、表の中の数字にヒントが見つかったと言えば言えるかも・(注5)少し独演になるが、話してもいいかな?」

 「おもしろそうだな」

 「戦国期はこの表でも空白なのだが、平安末期(1150)の人口680万人強が日本の総人口。徳川期に入り安定しだした1600年で1230万人だから、450年間でほぼ倍増している。ロジステック曲線の重ね合わせによって人口は増加したと考えられているが、仮にこの期間を一次曲線的に単純化して類推すると、1500年ころの人口は一千万人前後となる。現今だと、日本の総人口の百分の一が石川県の人口となるが、都市への人口集中の無かった戦国期だと比率は五十分の一くらいが妥当だろう」

 「そんなものかな」

 「とすれば、一向一揆の起きたころは、加賀能登あわせて、せいぜい二十万人くらいの人口が推定される。一世帯平均8人とすれば、25,000世帯。そこから戦闘に参加できる者は一世帯一人とすれば、25,000人。奥能登の遠隔地や体制順応派や曹洞宗など宗派の違いなど考慮すると、70%17,500人くらいが、戦闘への最大動員数。女性や老年者の後方支援をふくめても二万人くらいが高尾城を取り巻ける人数ではなかったろうか」

 「そこまで試算したのですか、説得されそう・(笑)。生計の中心が農業であった時代とすれば、貴重な労働力を死傷の危険がある戦闘員として、何人も送り出せるワケがない」

 「二十万人という表現は、住民がこぞって富樫の支配に反発したという意味なんだろうね」

 「そう。私も土居原さんの読み方と同じで、当時としては破天荒な事件であったが故に、記録が誇張気味になったのだと思う」

 「いつの世でもそうだが、ありふれたことは誰も書き止めはしない。日常と少しハズレたことが記録に残っていく。その辺りを、絶えず考慮しないと見当違いの解釈になってしまうのだよね」

 「歴史人口学が、冷静な視点を提示してくれたワケ・ですか?」(笑)

 

 

 

 *** 自分を育んでくれたこの野々市という場所に、どんな歴史が織りなされていたのだろうか。50歳くらいをさかいに、そういう視点での読書に、ある程度時間を割くようになった。そして、メモや抜き書きなどが厚みを増すにつれ、後に続く同好の人たちへも伝えておきたいと考えるようになる。

  そんな思いを、他の四人の方々の協力を得てシリーズとしてWeb上で公開できるという縁をいただいて七年余。スタディ編に入ってからは、身辺の問題などで極端にペースが落ちてしまったが、どうにか予定の課題はこなすことができた。

  この間、様々な話題を取り上げてきたが、TVのドキュメント・シリーズの主題曲にあった、~ヘッドライト・テールライト旅はまだおわらない~の一節が、そのまま今の私の心境と申せよう。***

 

 (2017.6.23)

 注1: 鬼頭宏著 「人口から読む日本の歴史」-28-

 注2:    “              -18-

 注3: 司馬遼太郎著 「歴史を紀行する」 -109-

 注4: 1435~66、1484~93年の公家日記。長享一揆に触れ、幕府の禅僧や京都の人が「二十万人集まった」と噂していると記述。

 注5: 注1同書 表1「日本列島の地域人口」より -16-

わが町歴史探索 スタディ編