[part1]
==第一章 とみおくの姿==
わが村「とみおく」は、加賀百万石の城下町金沢市の南西約三・五?、松任市より東南約一?鶴来町より北に約二・五?の地点に位置し、現在の石川郡平担地の中で最も東よりにある。南東の空に霊峰白山の雄姿、その東方に舟岡山から獅子吼高原のなだらかな山なみ、丸い盆を伏せたような倉ヶ嶽、高尾山、大乗寺の小高い山を望み、その真ん中にひときわ高い医王山の麗姿を見る静かなたたずまいの純農村地帯である。
部落は十四の字からなり、面積は南北約四・一八?、東西約一・五?の約六・三平方?で、石川平野で最も大きいとされている。
東の方は金沢市馬替町、額新保町、大額町、乙丸町、三十苅町、四十万町(いづれも旧額村)に隣接する。
西の方は松任市橋爪新町、福正寺町、橋爪新田町、越中屋町(旧中奥村)に接する。
南の方は鶴来町熱野町、部入道町(旧林村)と、更に柴木町、安養寺町(旧館畑村)に境し、松任市木津町(旧林中村)とも隣接する。
北の方は野々市本町と国道八号線をはさんで押越町(旧押野村)、稲荷町、堀内町・蓮花寺町、(旧郷村)とに境している。
東経 一三六度三六分四八秒
北緯三六度三〇分四〇秒
海抜約三十五?(富奥農協玄関附近)に位置し、見渡す限りの田園穀倉地帯(昭和四十三年頃から様相は変貌したが)として常に融和を図り、和と団結とによって一致協力して「富奥村」を築きあげて来たのである。
穀倉地帯石川平野は、ほとんど同じ条件にあって、手取扇状地帯を形成する第四沖積層からなる。
わが「富奥」は南から北にかけてゆるやかな傾斜をなしている。すなわち上新庄では海抜約四十八?、太平寺では約二十?と、その高低差は二十七?となっている。また東西の高低は粟田で海抜約三十六?、末松では三十五?でその差僅かに一?となっている。
土質は主として砂質壌土、腐植土からなり、わずかに弱酸性をおびて排水はみわめて良好。大雨や長雨が降っても翌日晴れると、田圃の水がすぐなくなり、地味肥沃である。
耕地整理は上林が明治四十年、末松、清金が明治四十一年にそれぞれ着工され、石川平野では安原村についで早く行われた。親達や先輩達の苦心によって整理された美田が、幾何学的模様を描いて恵まれた乾田地帯となっている。
明治から大正初期にかけて整理を完了した本村の面積は、石川郡でもその広さと比率においてトップであり、一戸平均の耕作面積は当時は約二?とされ、石川県下でも有数の経営規模を誇っていた。
村の構成
中央 学校、役場、公民館、農協、村の家、忠魂碑、消防ポンプ、診療所、保育所、駐在所
東 粟田(旧粟田新保)、矢作、三納
西 中林、末松、清金
南 上林、上新庄、下新庄
北 藤平田、藤平(旧藤平田新)、下林、位川、太平寺
以上十四字に区画され、末松には轟、清金は上と下に別れ、下林に出村、太平寺には出戸が国道すじにそれぞれあって構成されている。旧藩政末期には太平寺、位川、三納、矢作の四ヵ村は富樫組に、上林、上新庄の二ヵ村は林組に、未松、清金、中林、粟田、藤平、藤平田の六ヵ村は中奥組に属し、明治維新後、郡区制施行までは第十一大区小五区の一部であった。その後明治十七年上新庄は安養寺外六ヵ村と連合し、その他の十三ヵ村は額新保外九ヵ村と連合し、各別に戸長役が置かれ、更に改正後太平寺は野々市外二ヵ村戸長役場へ、上新庄は木津外二十一ヵ村戸長役場の所轄となり、あとの十二ヵ村は藤平田戸長役場の所轄となった。
明治二十二年五月の町村制施行とともに、本村の大部分は富樫組に、他は中奥組に属したため一字ずつを取ってここに富奥村が誕生した。
富奥村は全体のほぼ其ん中に重要機関を集めて、ここで村の重要事項すべてが決まっていったのである。そして構成される十四の字までは放射状に道路が中央に向かって伸び、十四の字が車輪のようにがっちりとつながれている。当時の村の形態としては理想的であったという。
戸数 村時代 昭和四十九年現在
中 林 三二 一一七(団地を含む)
上 林 四四 二一一(百々鶴荘を含む)
上新庄 一九 五一(新住宅を含む)
下新庄 一三 七五(花ノ木台を含む)
粟 田 四六 一八八(団地を含む)
矢 作 一八 八六(団地を含む)
三納 一三 一一〇(雇用者住宅等を含む)
藤平田 七 八一(団地を含む)
藤平 八 一一
下林 三六 九八(新住宅を含む)
太平寺 一六 四四二(新住宅を含む)
清金 一五 一二六(団地を含む)
末松 三二 三七
合計 三〇四 一、六八六
比較対象して実に今昔の感に堪えない。
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