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==第二章 村の四季==
白山を源とする手取川はやがて七ヶ用水となって、水流の枯れることなく水田を潅漑し、その地下水は命をつなぐ。川の流れはやはり汗と血の歴史を秘めて今日に至っている。
村を貫流する川は
富樫用水(現在第一分区) 四線
郷 用水(現在第二分区) 二線
が流れている。各字はこの用水から取水して各小川に注ぎ、村の五一七?の水田を潅漑している。現在はすべて改修護岸され、曲折を出来るだけ少なくし、ブロック積み三方張りコソクリートとなった。このため昔の面影はまったくなくなって、四季の移り変わりなど、堤防の柳やススキなどの風情が見られなくなった。
春になると用水が停水となり、その期間中に、用水取り入れ口の大堰(ぜき)の修理を、部落総人夫で行うのである。大堰の下は一年中水がさかまく様に流れるので、大きな広いくぼみとなって、どこの部落でも深さ一?位の溜り水となっていた。そこにはその頃の川にいた魚類が停水のためほとんど集まって来た。大堰人夫はまず若い者がその溜り水をバケツで排水するのである。(たまりの水をかえるといった)中年以上の人達はその間、堰の準備をしている。水が少なくなる頃はもう、目の色をかえて魚取りに中年以上の人達も加わってひときわにぎやかになる。
ウグイ、フナ、コイ、ナマズ、グズ、川エビ、川ガニ、ウナギ、ゴリ、ドジョウ、アユ(その頃はめったにいない)などが、大ていバケツに二、三パイとれるのだから、たまらないだいご味である。水の冷たさも忘れるのである。夕方修理人夫が引きあげる頃はまだ春も早いので寒い。部落の倶楽部のいろり火を燃やし、とれた魚を料理して焼きながら飲むあつ欄(かん)の人夫酒の味は、酒の飲めない者までがつられて飲むほどの、たまらないおいしさである。まさに農耕前の春の前奏曲である。
田んぼの小川にはドジョウ、フナなどがたくさんいた。夏の土用になるとシャデをもってドジョウを取るのである。子供達の夏の遊びの一つでもあった。時に大人までがドジョウを取るのである。土用のドジョウは実においしく、かば焼き、柳川、ドジョウそうめんなどは、夏の食卓を楽しませてくれた味覚でもあった。
稲刈りが始まる頃、必ず用水の停水がある。どんなに収穫で忙しくても必ず、夕方から大人も子供も川に魚を取りにいくのである。三十?以上もあるウグイなどが面白いほどとれた。ときにはマスも取れることがあった。
秋の労働で汗を流す時、その頃の川魚を焼いたにおいが夕暮れのどこの家からもにおってくるのである。それで晩酌をくむのは栄養の補給でもあった。大半の各家庭の流し(台所)には用水が引かれて、飲料水や洗い物に便利だった。雪が降る頃になると、夕方その流しの水の音が変わる。川ガニが出て来るのである。それも大ていはでっかい奴ばかり。家中で灯をもっていくと、動かなくなり、他愛もなくとれるのである。親指に毛がたくさん生えた古ガニもいた。
これがまた、なんともいえぬ味覚である。川ガニで思い出したが停水の時、川のウグイやナマズなどの大きなやつは、すぐウロ(穴)の中へ逃げこんでしまう。それを手を入れて取ろうとすると、シカッとウロの中にいる川ガニに指をはさまれて悲鳴をあげたものである。はさむ力はまことに強く、その間にでっかいウグイを逃がしてしまうのである。またその他、小川にはシジミ貝がたくさんいた。田んぼにはタニシが繁殖して、田植前後にこれを取って食べたものである。
なつかしい川の魚も、農薬が出はじめ、川の護岸と水洗トイレの出現ですっかり見られなくなった。最近では家が新築され、庭に池などを掘り、錦鯉(コイ)などを放して楽しんでいるようである。
魚のうちに入らないが、カエルなどもぜんぜんいなくなった。四月下旬から五月上旬にかけて暖い夜などは、カエルの鳴き声が大コーラスのようで、かえがたい初夏の夜の風物詩だった。
わが村で農地が開かれ、作物が栽培されたのはいつの頃かさだかでないが、かなり以前からだろうと思われる。末松廃寺の頃はすでに農耕文化が進んでいたからである。
耕地整理以前は、曲折した道や水路などが多く、小動物が住みつきやすい状態であったのだろう。キツネ、タヌキ、オオカミ、イタチ、テン、野ウサギ、川ウソ、ムジナなどが数多くいたといわれている。古老などの話ではキツネが一ばん多くいたようである。町などへ出て用を足し、帰りに夕ごはんのおかずに油揚げを買って、つとに入れて道を急ぐと、必ずキツネにつきまとわれて、余程しっかりしないと油揚げはとられてつとだけとなることがほとんどだったという。
タヌキやムジナにだまされたという話もよく聞かされた。夕方か夜おそく町からの帰り、村端の川の橋の上あたりにさしかかると、何んだかゾーッとするものが背すじを走り、足がすくんでしまう。そんな時あわてずに腰のドウランから煙草を出して、キセルにつめ一服のんで、橋のたもとでポンとホットを落とすと、タヌキやムジナも逃げてしまうという。
明治の初め頃にはオオカミや山犬などが出て危害を加えたそうである。そんな時は野火をたくか、たいまつをかざすと恐れて近づかなかったという。野にいた獣たちを退散させるには、野火とか火が一番効果があったという。
テンはよく鶏などを夜中に襲う。朝起きると無残にも鶏は全部首の血を吸われて死んでいる。
野ウサギもよくいたという。終戦直後のひとさかり、大変野ウサギが繁殖したことがあった。これらの獣たちは危害を与えたりしなければ野ネズミ退治に一方では役立つのである。
蛇、マムシ、蛙、イナゴ、バッタ、カマキリ(イモチャキ)、ヤモリ、イモリ、チョウ、トンボなども数多くいたが、マムシは全然いなくなった。マムシに噛まれて病院にかつぎ込んだ話はよくその頃あったけれど、シマ蛇などもほとんどいなくなった。最近少しまた見られるようになったが、ひと頃は蛇取りの人が来て、袋の中に結構あの長い奴を持っていたこともあった。
青大将はほとんどいなくなった。青大将を殺すとたたりがあるといわれた。小さなトカゲなどはすっかりいなくなった。たもと蛇といって黒い小さな蛇も家の周囲などによくいたものである。体長十五?ほどの細い、かわいい蛇だった。手の平にのせると、チョロチョロと小さな舌を出す姿は、蛇ながら愛きょうがあった。
イナゴは稲作の大敵であった。春の田植え前に代かきが終わって水をたたえた水田に風が吹くと、片すみにイナゴ玉が見事なほど吹きよせられる。それを拾って区長の家に集めて、協定値段でその頃一升いくらと換算するのである。多く拾う家では三斗から四斗と拾う人もいた。それでも稲が穂を出す夏の土用ごろになると、成虫となったイナゴが農道の草むらにいて、人が通ると一せいに両側の稲に飛び散る。それもまったくすごい音までたてるのである。大東亜戦争の頃はイナゴの成虫を佃煮にして栄養食ともした。
部落の中を流れる小川の石のふちや、木の枝などに列をなして羽根の色の黒いのや、茶かっ色のトンボが、水の流れとともにスイスイとやわらかく飛んでいた。子供の頃はよくそのトンボを取ったりすると「コラッ、オコリになるぞ」といってしかられたものだ。
「ニンゴトンボ」と俗にいわれた小さな体長の細い薄緑色のトンボが、庭先の木の葉蔭などにとまっていたのも記憶される。
蛍もよくいた。取って来て蚊帳の中に放っていつの間にか寝てしまった。秋になると真っ白に咲いたソバの花に赤トンボが群れをなして飛んでいたものである。チョウや蜂など様々な虫類がいた。カメ蜂などは屋根の下に丸い大きな巣をつくって、人が近づいたりすると必ず眼とか頭をさされてひどくはれあがったものだ。
鳥類は現在とさして変わっていない。渡り鳥でもツグミは閉ざされた農村が冬から春への農繁期になったことを感じさせる。塗りたての畦(あぜ)に馬の毛でつくったわなでツグミを取るのである。春の夕食前の晩酌のおかずに時折、農家の人達は禁断を犯してスタミナ補給にあてていたようだ。
田植えが近づくとヨシキリ(俗にバンジョ鳥ともいった)が来て、ススキの中とか竹薮などに巣をつくり、早朝から一種独特な声で「ギヤス、ギヤス、ギヤギヤス」と繰り返し鳴いてやかましくて寝られなかった。田植えの終わった初夏の晴れた昼さがりに、カッコーカッコーとなく声は、なんとなくロマンの思いにつながるのである。えんどう豆がよくつくられた畦の間を(私達は黒とりと呼んでいた)いつも二羽ずつ遊んでいた。人の足音に気づくと実に早い逃げ足で畦から畦をくぐりぬけていった。
最近ではセキレイ、カワセミなどもまた見られるようになった。
田草取りで蒸しあつい夜など、実に哀れな鳴き声でホーツ、ホーツと数少なく鳴く鳥がいた。俗に火くい鳥ともいっていたが、弱々しい感じの鳥で、その鳴き声を聞くと一種の無気味な不安を感じたものである。
冬になるとミミズク、フクロウなどもよく鳴いた。「ノリツケホーホ」と鳴く月夜など、いっそう冬の寒気を覚え明日は天気かなあといっていた。その他、村人達とともに記憶に残る鳥は数多いが、空にさえずる鳥の声にも悠久の歴史がいとも悲しく綾なされて来たのであろう。
手取川は洪水などによって幾度となくその流域を変えて来たが、現在の尾添川に合する目付谷川付近は、今から三億年ほど前の、中生代植物の貴重な宝庫とされている。化石や珪化木など、その頃の植物と思われるものが「化石壁」として残っている。
こうして手取川扇状地帯が形づくられた頃には、本村にも既に植物や樹木類があったのだろう。
上林の神社の椎木
林郷八幡神社の椎の古木はいまから千二、三百年以上を経た木だといわれている。幾度もの台風などで折れたりしているが、根の回りだけでも十二?六○?もあって、その年輪の深さを思わしめ、神木とされて本村の歴史を物語る貴重な代表的樹木である。
その他アヤメや田の畦のくずれを防ぐため植えられた菖蒲(しょうぶ)などが、色とりどりに五月下旬頃咲き競って、のどかな初夏の風景を描いてくれたが、いまは黄色菖蒲だけとなった。また、野生の雑草も生え繁っていたが、オバコなどはずい分と減少してしまった。さらに河川の改修によって、猫柳やススキなども堤防からほとんど姿を消してしまった。かつてそこは小鳥たちの楽園でもあった。
各部落を見ても欅(けやき)の大木も少なくなり、竹やぶなどはほとんどなくなってしまった。神社の大杉などもおおかた枯死してしまい、清金と三納の神社に銀杏の大木が残っているくらいである。
農業を営む者にとってその年々の気候ほど関心の深いものはない。朝晩、田んぼでかわされるあいさつの言葉も
「今日はいい天気ヤノー」とか「風が冷たいノー」「今日は何風かいノー」「あした日なみやァいけれやいいがノー」「雨やァ降らにやいいノー」などすべて「日なみ」(天気のこと)のことである。それがまた愛想のいいあいさつの仕方とされているほど、農業と天気は百姓の心にいつも気にかかっていたのである。
春になって苗代に種子をまいたあと(その頃は全部水苗代であった)「下り風」といって南西のボウボウ風が風速二〇?位もの強さで吹いたりしようものなら、チョボンと芽を吹き出した種モミが水のあて加減で全部吹きとばされところどころに寄ってしまったりして、とても用をなさなくなるのである。そんな時は、つくづく百姓がいやになるのである。
雨が降れば「バンドリ」という、いわゆる「みの」と「かさ」を着用して田仕事と取り組んだ。このため夕方、西の空の雲の状態とか、南西の空の状態などから、明日の天気を予測して仕事を気づかったものである。
梅雨期に入ると何日となく雨が続く。その後には必ず河がはんらんして、青々とした水田がすっかり冠水することもしばしばあった。
その頃たいていの農家は大麦や草種(紫雲英のこと)を田んぼ二、三枚以上は作っていた。大麦などは天気の良い朝、早くから総出で刈り取って、夕方西の空が雨雲だったりすると、日が暮れてからでも運んで置いて、夜中にかけて脱穀したものである。
草種子は梅雨の頃の天気の良い日を見はからって刈り、二日ほど乾燥した。そして田の真ん中にむしろを二十枚ほど敷いた所へ、乾いてバリバリする草種子を集めて「ソリバイ」などでぐるぐるまわりながらたたいた。そんなときは隣り近所の人々がお互いに手伝ってくれたものである。
秋になって稲刈りが終わったあとは台風が一番心配である。南西の空が明るく、薄気味の悪いような空もようだと必ず大風になる。だから、積んである「によ」に、夜中から起きて一つ一つなわをかけて歩いた。それでもあくる日は大風でほとんど稲は吹き飛ばされた。
また、刈り取った稲がその年によって一週間以上も降り続く長雨にあうと、刈り取った稲と雨空を眺めて、村の百姓達はため息をつくより手のほどこしようがなかった。やっと雨があがった頃は、モミが発芽して、稲束を持ちあげると田の土にくっついて、ぼろぼろモミがこぼれるようになるのである。
百姓としてこんな時ほどあわれでなさけないみじめさを感ずることはない。ただただ天を仰いで長嘆息するのである。
冬になると本格的に雪が降り出す。時には豪雪になったりする。村の農家はひっそりと冬ごもりに入って、仕事場では俵作りなどのわら仕事が始まる。時には若い衆がひと所に兵まって俵編みをするのである。雑談に花を咲かせて俵を編むのだが、手の方は間断なく動くので、夕方家へ帰る頃は俵が十枚以上になる。
四、五日も続くと、夕方は早めに俵編みを切りあげ、「各せつ」といって、さかなを持ち寄って(時には牛肉など買ったりするが)酒を飲むのである。そんな時ほど若衆の顔は生き生きとして話がはずむのである。
また、吹雪いたりすると、子供達の安全のため登校中の道路に一ヵ所から二ヵ所、大きな避難小屋を部落総出でわらでつくった。雪が晴れると、翌朝は学校へいく児童達のために、若衆達は卒先して雪の上に道をつくってやった。「深ぐつ」といってわらで編んだくつに「すべ」を入れると実に温いのである。それをはくと雪が一?以上あってももぐらないのである。晴れた朝の雪道の子供達の登校風景は、どこの村でも長く一列に行列をつくって先頭には若衆達がいた。そんな美しい冬の風景もすっかりなくなってしまった。
次に昭和七年頃の金沢測候所による本村の気象状況を参考までに記す。
さらに農業先進地である名古屋地方の気候と比較してみると次のようである。
右に示すようにわが村の気温、降水ともに北陸地方特有の気象条件となっている。
次に記すのは昭和四十六年の記録である。比較するのも何かの参考となるだろう。