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第九章 農業協同組合のあゆみ
(第二節 富奥農協青壮年連盟)
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==第二節 富奥農協青壮年連盟==

 

第二節 富奥農協青壮年連盟

  敗戦後の日本は食糧難と虚脱感から一時は混乱状態に陥った。そんな中にあっても農村だけはある程度健全であったので、次第に混乱状態も落ちつきを取りもどし、食糧事情もわずかながら好転のきざしを見せてきた。

  わが村でも稲作の増産や麦、馬鈴薯の増産などで、きびしい農業労働が続いた。さらに野菜園芸などにも取り組んで、研究熱も盛んとなっていった。稲作を中心に裏作、野菜園芸を取り入れる講習会なども活発に行われ、グループ研究によってその成果が上がっていった。

 動力耕耘機導入  わが村に始めて耕耘機が導入されたのは、昭和二十三年ごろである。上林の村井正信、小林信好、村井幸次郎、西本敏雄らによって広瀬式耕耘機でキャタピラ式クランク型であった。その後昭和二十八年に、農協が始めて農業機械を取扱いクボタ式耕耘機が組合員の高納友春、北岸文雄、西野武、佐久間由孝、西尾忠、上野由雄らによって導入されたのが普及のきっかけとなった。当時は鉄車輪でバックギヤがなかったので田の中へスリップしてめり込むとどうすることも出来なかった。それでも牛馬耕にたよったことから比べてその威力に眼をみはったのである。

  こうして画期的な新しい近代的農業への一頁が始まったのである。この耕耘機導入が契機となって、当時としては高価な産業投資を、単に荒起こし期間だけで遊ばすのはもったいないとして、もっと裏作や園芸に利用したらどうかとの意見が出た。即ち、耕耘機の高度多角利用によって、農業収入の増大を図り、農家生活の安定に役立てようというわけで、ここに「機械化農業研究会」といういかめしい名称のグループが結成された。そして昭和二十八年十月、練床白菜が初めて導入された。石川郡下でもトップであった。これはアメリカ農業研修制度が出来た時に、第一回遣米青年として一ヵ年間研修して帰国した本村の西尾忠君が中心となって白菜の練床移植栽培法を取り入れたのである。この白菜栽培は石川郡下に広まり、関西・京浜・東京・福岡などの市場で好評を博し、加賀白菜の基礎をつくったのである。こうして次第に研究同志も増加し、農協との関係も事業面や経済面を通じて深まってきたので、わが村ではいくつかあった研究会、即ち青産研、畜産グループなど一つにまとめてお互いに研究したらどうかと相談がまとまり、「富奥農栄会」と改称してその成果をさらにあげるよう努力することになった。

  当時、村の青壮年達は実に熱心で、会合を開いても会場にあふれるほどの盛況であった。生産と収入を高めて村の発展につなごうという意欲がついに富奥農協青壮年連盟の結成へと発展していったのである。

 農協青壮年連盟結成新発足  昭和二十九年十一月、同志が相図って富奥農協青壮年連盟なる名称を決定、それまでの農栄会を発展的に解消してここに結集した。

  公民館の広間に当時の石川県農協連中央会長田谷充実氏を来賓に迎えて、結成総会を開いたのである。石川郡はもとより石川県下でもその結成はトップであり、最初であった。集まった青壮年は一五〇名。はじめは農協の御用機関になるのではないかと激しい質問が出たり、事業資金を最初から農協に依存することは好ましくないとの意見も出た。そこで当時としてはその存在すら知られていなかった農協共済事業の推進によって自主財源を確保すべく予算に計上したところ、青年達から「共済事業とは何んのことか説明されたい」と質問が出た。そこで「共済事業とは農家組合員の生命財産を保証する保険事業のことだ」と説明すると、「そんなことは民間の保険会社のすることだ。われわれは保険事業まで出来ない」とか「この会が花火線香に終わるのではないか」とかなど、会の前途を心配するきびしい質問が出て総会は有意義であった。結成後ただちに役員会と専門部会を開き、村民の期待にこたえるべく活動を開始した。

  昭和三十年六月には富奥農協青壮年連盟にならって、石川郡下でも一木・旭・山島・石川・出城・大神・館畑など次々と農協青壮年部が結成され、松任町の石川郡農協支部において石川郡農協青壮年部協議会が結成された。翌昭和三十一年八月三日には金沢市油車の県農業共済会館二階大広間で、石川県農協青壮年部協議会が結成された。このことは石川郡はもとより、石川県下の各農協青壮年達の先駆的な努力結晶のたまものであることはもちろんだが、わが富奥農協青壮年連盟が、常に富奥という恵まれたバックを得てイニシアティブを取って推進して来たことも事実である。やがてこの農協青壮年部組織が村の原動力となり、郡、県を動かす力に成長していったのである。結成後二十年、その果たして来た役割は大きいが、今日のわが村は当時と比較してあまりにも激変してしまった。このような中にあって唯一つ残された最大の機関である農協青壮年連盟の今後これからのなすべき課題も、当然時代の求めに応じなくてはならない。二十年前よりも退歩する活動状況であってはならない。歴代役員は次のようである。

 富奥農協青壮年連盟歴代役員名

 順代 就任期間         委員長名  県、郡、役員名     副委員長名

 初代 昭和二九年〜三一年 上野 由雄 初代県、郡、委員長  西尾 忠

 二代   三一年〜三二年  平野 正  県、委員          新森 晃

 三代   三二年〜三三年  新森  晃                中村朝雄、河村好一郎

 四代   三三年〜三五年  河村好一郎 県、三代委員長    小林孝次、佃 栄吉  

 五代   三五年〜三六年  小林 孝次                中野久男

 六代   三六年〜三八年  中野 久男 県、監 事        西村信一、松村功、小林巌、中村安栄

 七代   三八年〜三九年  田中 勝治                畠頼道、西村康賢

 八代   三九年〜四一年  西村 康賢 県、副委員長      中村憲造、森昌昭

 九代   四一年〜四二年  竹内 恍一 県委員          中野茂信、村井義美

 十代   四二年〜四三年  宮川多喜蔵               宮岸隆

 十一代  四三年〜四四年  宮岸  隆                北村信夫、長保

 十二代  四四年〜四六年  山本 茂喜 県委員          小林武夫、村一夫

 十三代  四六年〜四七年  北岡 良爾 県委員          吉本昭信、加藤寿

 十四代  四七年〜四八年  杉内  保                山岸治雄、北川実

 十五代  四八年〜四九年  本  正行                安田光男、仏田孝治

 

 

 

第三節 富奥農協婦人部

  青壮年連盟の活動が活発になると同時に、婦人部も各単協で組織され、表裏一体の活動体制がつくられていった。富奥村では昭和三十一年頃から村の婦人会と兼任で昭和四十年まで続いた。当時の婦人部長は宮岸文子、土田文子であり、昭和四十年頃から婦人部の単独組織が結成された。

  富奥農協婦人部歴代役員(部長)名

 昭和四〇年 中島澄枝  四一年〜四二年 西尾道子  四三年西村浪子  四四年 山本正子  四五年 中島澄枝 四六年 宮崎信子 四七年 竹内花枝  四八年 西村洋子 四九年 平野摂子、村上美知江




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