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==第二節 駐在所==
各村に駐在所が設置されたのは明治になってからである。警察のはじまりは次のようである。
明治七年五月、松任に屯所として発足する。
明治十年一月、分所となる。
明治十五年三月二十二日、松任警察署と初めて改称する。
昭和二十三年二月十日国家地方警察、石川地区警察署となり、各々自治警察署となる。
昭和二十九年七月一日石川県松任警察署となる。
こうして警察制度がしっかりした形となり、地方自治と治安の取り締まりを強化し、犯罪の防止と民生安定は次第に定着して来た。
富奥村に初めて駐在所が出来たのはだいぶん遅かったようで、明治三十五年八月に粟田新保の鶴来街道に面して設匠されたのが最初である。
ところで、粟田駐在所の建物が老化したのと、村の中心から離れているということで、現在地に移転した。
駐在所と村は切っても切れない親しい関係にあった。駐在の巡査を村の人達は”おまわりさん” ”だんなさん”と呼んでいた。村役場や農協などで行事や宴会があると、必ず駐在さんが来て村人達と酒などを汲み交わして親しんでいた。その頃の人と人の心のつながりなどは実になつかしいものである。駐在さんもまた心得たもので、酒を飲んだからなんでもかんでも甘くなるのではなく、すいもあまいもかみわけて、村人の中に入り、得がたい相談相手になってくれた。春秋の祭りや、時には各家庭のめでたい時なども駐在さんに出席してもらうことがしばしはあった。村の行事では村長さんの横には必ず駐在さんがすわっていた。村人達はすべて純朴だったのである。
駐在所と村は、こうして長い年月をさまざまな歴史を秘めてともに続けて来たが、昭和四十年頃から松任警察署の官舎のような形となり、昭和四十七年頃から空家となり、いつの間にか駐在所が姿を消してしまった。電話、自動車などの発達によるためなのであろうか、それとも人員の不足によるものなのか、村人達は警官の駐在を期待している。
契約書
富奥村勤倹会規則第九条ニ依り契約スル左ノ如シ
一、大祭日例祭日及慣例ニヨル休日ノ外臨時休業ヲナサズ各自其業務
ヲ勤メ怠惰ノ挙ナキ事
一、新ニ建築ヲ起スモノハ衛生ヲ旨トシ奢侈贅沢ノ風ヲ避ケ其分ニ応
シ可成質素ナル事
一、家具什器モ必日常用品ノ外可成購入ヲ避ケ贅沢ナラザル事
一、衣服ハ外出ノ時ト錐モ可成質素ナルモノヲ用ヒ華奢ノ物ヲ用ヒザル事
但シ結婚葬式ノ節ニ用ユルモノハ其身分ニ応シ着用スルモ妨ゲナシ
一、防寒避暑ノ為メニ用スル傘外套ノ類ハ可成質素ナルモノヲ用スル事
但シ履物類モ質素ノ物ヲ用ユル事
一、子女ノ婚姻ハ特二贅沢奢侈ノ需用ヲ節シ換フルニ地所又ハ国債証券及現金ノ類ヲ以テ永久貯蓄利殖ノ法ヲ講セシムル事
一、婚姻ヲ賀スルトキハ親族関係者ノ外招待又ハ祝儀ノ取遺ヲ為サザル事
一、建築ノトキハ相互ノ祝儀ヲ為サザル事
一、祭礼祝賀ニハ相互ニ交際ヲ為サザル事
一、徴兵検査ノ際ハ当事者及其親子ノ外附添又ハ送迎ヲ為サザル事
一、軍人又ハ行旅人等ノ送迎ヲナスモ贅沢品(旗等)ヲ節シ冗費ヲ省キ当人ニ迷惑セシメザル事
一、参詣旅行贈物見舞物且香典返シ祝儀返シ年期祝餅等ハヤムヲエザル事情アルモノニ限り其他一切省略スル事
一、年末年始ノ贈物及知己朋友ノ年賀状ハ可成省略スル事
但シャムヲエザル事情アルモノハ此限ニアラズ
一、法会若クハ祝儀等宴会ハ奢侈贅沢を避ケ質素ヲ旨トスル事
一、資産家ニシテ法会葬儀ヲ行フ場合ハ村内ノ赤貧者ニ多少米穀金銭ノ救恤ヲ為ス事
一、平素ニ於テハ交際等ノ名ヲ藉リテ飲酒セザルコト又祭礼ノ場合等芸妓等ヲ招カザル事
一、会員ハヤムヲエズ事情アル者ノ外必ズ相当ノ貯金ヲ為シ利殖ヲ図ルべキ事
但シ貯蓄ハ別ニ設置ノ会則ニヨルベシ
一、会員ハ本会役員ノ調査ニ対シ異議ヲ申立且ツ拒マザル事
一、会員ニシテ本会ノ目的ニ反シ体面ヲ汚ス行為アルモノハ左ノ各項ニヨリ処分ス
一、謝罪状
二、除名
三、土地金穀ノ貸借ヲ絶ツ
右本会ノ趣旨ヲ賛シ規則契約ヲ承認シ其違ハサル為メ記名調印候也
石川県石川郡富奥村何々区
明治三十七年 月 日
A区規約書綴
今般A区村民一統協議ノ上該区内公益ヲ図ル為メ規約ヲ結ビタル条件左ノ如シ
第一条 A区内ニ於テ該区地所ヲ所有セル老若シ地所ヲ売り払ハソト申出ル時ハ同村ニ於テ該地所ヲ受作為シ居ル者ノ承諾ヲ得ルニ非ザレバ買受スル事ヲ得ズ
第二条 該村ニ於テ同区内地所ヲ従来受作為シ居ル者ノ地所ヲヒソカニカソサクヲメグラシ他ヨリ受作ヲ為スナドノ義ハ決シテ為ス事ヲ得ス
第三条 同区内ニ於テ従来受作ヲ為シ居ルモノ家事ノ都合ニヨリ他町村へ移住スルこ際シ受作ヲ区内ノ者へ譲ラント欲シ其旨ヲ区内へ申出ル時ハ必ズ競争ヲ以テ受作ヲ譲り受ケル事ヲ得ズ区内一統ノ協議ニヨルべシ
第四条 同区内ノ地所ヲ将来若シ地主カワリテ隣村ノ者ノ地主トナリ該地所ヲ自カラ農作ヲ為サソトスル時ハ臨時ニ同区内二於テ一統ノ協議ヲ謀リ之ヲ処置スルモノトス
第五条 同区内ノ者ニシテ同区内地所ヲ所有セル者ヨリヒソカニ買受同村内ニ故障ヲ起ス様ノ聞ヘアル時ハ直二区内一統協議ノ上其煽動者ヲ絶交スルモノトス
第六条 前条規約ヲ確ムル為並ニ署名捺印ス
右ノ通熟議ノ上規約候者也
明治二十六年十一月二十四日
宮岸市郎右ェ門 印
金田理右ェ門 印
宮崎 吉兵衛 印
中野 与三郎 印
五香 与三郎 印
東大三右ェ門 印
五香 政吉 印
本井次郎兵衛 印
西村 さよ 印
北岸 安三郎 印
徳野徳右ェ門 印
新本嘉右ェ門 印
上野 義明 印
宮岸孫右ェ門 印
西井加之次郎 印
東野 長太郎 印
上田長右ェ門 印
沢村 清助 印
福井久左ェ門 印
山本伝右ェ門 印
藤田 仁三郎 印
本井次郎右ェ門 印
昔の取り決めはほとんど農地の耕作などや境界のことなどが多い。むしろ地主と小作の項で記すべきことだが、このようなことが真剣に徹底されていたことをなつかしく思う。さらに次のような請(うけ)書がある。
御請書
何々某(特ニ名ヲ秘ス)
私義今般A区ノ規約ニ違反シ区内ノ平和ヲ害シ不利益ノ所為ヲ成シタルハ実ニ後悔ニ堪エズ自後ハ誓ツテ斯カル所為ハ敢テ致シ間敷並ニ謝罪改心ヲ證スル為メ左ノ御訓戒ノ条項ヲ御請致シ候也
一、地所売買ヲ勝手ニナサザル事
一、謝罪金トシテ金十円ヲ神社ノ方へ納入スル事
一、区内ノ不利益ナル所為ハ以後断然致サザル事
一、其他何事ニ依ラズ区内多数ノ与論ニ服従シ毛頭疑ハシキ所為ハ屹度致サザル事
右ノ条項ヲ遵守スルハ勿論万一ニシテ疑ハシキ行動ヲ敢テ為シタルト認メラレタトキハ区ノ総会ニ於テ私ニ対シ御決定相成候絶交処分又ハ違約金徴収ヲ履行サルルモ些カモ異議之レナク並ニ署名捺印候也
明治 年 月 日
何々某
○○区御一同御中
追テ謝罪金ハ何月何日マデ神社ノ方へ納入仕可慎也
今から考えると驚くようなことを取り決めて村の秩序を保ったらしい。現在では右のような取り決めなど協議しても一笑にふされてしまうだろう。が、村を守り、村を愛する心はいつまでも続けたいものと思う。
村内定約書 (藤平田新区)
積立金取扱規則
第一条 総テ積立金ハ寄附金並ニ寄附物品ヲ以テ是レニ充テル
第二条 積立金取扱方並ニ寄附物品取揚方ハ村惣代収入之帳ノ備ヒ取扱フモノトス
但シ村惣代ハ無給トス
第三条 寄附物品ハ米、麦、菜種、瓜、茄子、大根等スベテ村内ヨリ収穫スル初穂物品ヲ村惣代各戸ニ付取揚ゲルモノトス
第四条 他ヨリ本村へ縁付キクルモノ出生児アル時ハ各一人ニ付玄米二升宛納ムルモノトス。但シ出生児ハ戸籍簿ニ登記シタル後ノ事
右ハ明治二十七年七月十九日集議ノ上確定候也
官井戸並ニ金沢道ニ関スル定約書
第一条 宮井戸並ニ金沢道ニ要スル費用ノ徴収方ハ旧石高割八分、戸数割二分ノ歩合ヲ以テ割当スルモノトス
但シ他町村へ売却地所ハ其ノ半額ヲ算入スル事
第二条 官井戸ニ要スル人夫ハ各自同一ニ出役シ其人夫賃ハ一切支給セザルモノトス
但シ金沢道ハ此限リニアラズ
右ノ通り今回協議ヲ遂ゲ決定仕候就テハ今後違背仕不申仍テ為其証是ニ各自記名捺印スルモノトス(記名省略)
規約 第一章
第一条 架場(ハサバ)ハ旧高十石ニ付十問ノ割合ヲ以テ設置スル事
但シハサ木ノ長サ九尺ヲ超過スルコトヲ禁ス
第二条 宅地ノ樹木ニシテ田地ノ境介二係ルモノハ下ヨリ竿ヲ立テ木ノ先ヲ伐切スル事
但シ畑作ノ周囲二係ルモノハ村民協議ノ上適宜目積リ伐切スル事
第三条 ハサ木ノ外飛木ハ残ラズ伐切スル事
第四条 農作物並ニ果物ヲ盗用スル事ヲ禁ズ
第五条 道路ニ障害スル樹木ハ残ラズ伐切スルモノトス
第六条 建物ハ道路並二他人ノ地へ雨落シテハナラズ
第七条 本区内ニハ鈴木一株タリトモ残ラズ滅除スル事
但シ他区地所トノ境界ニシテ本地保持二要スルモノニ限り是ヲ許ス、尤モ通路方二差閊ナキ様敢行フ事
第二章 罰則
第十条 若シ第四条、第五条、第七条ヲ犯スモノアリタル時ハ正米五斗ヲ取立テ是ヲ神社ノ維持金トナスモノトス
右本日協議ノ上相定メ候ニ就テハ以後確ニ相守リ可申候仍テ為後日各自是ニ捺印致スモノ也
明治二十五年二月二十八日 進村長左ェ門 印 藤堂 安太郎 印
藤井善右ェ門 印 藤多 三太郎 印
宮岸与三右ェ門 印 藤垣 仁三郎 印
藤田 又次郎 印 千田 登次郎 印
三納利右ェ門 印 林 与三郎 印
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