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第十六章 寺社・寺院
(第六節 村のお講について)
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==第六節 村のお講について==

 

第六節 村のお講について

 お講

  宗教の存在するところには必ず法話などの集いが行われる。浄土真宗が盛んになってきた北陸地方では、これらの行事が各村でしきりと行われてきた。そして蓮如上人が北陸の地に布教を始めてからは、とくに法聞などが盛んになった。

  農閑期になると、農村では毎夜のように交替で聴聞会を開く。これらをお座お詣りごとと称し、僧侶を招いて法談を聞き、信仰心を深めていったのである。

  また、正月の七日とか、一月、二月のちょうはい休み、せんだく休み、あるいは毎月の一日、十一日、二十一日など、日を決めて回り順番でお講を開いた。そのうち青年講なども行われ、精神修養なども兼ねて大勢の村の青年男女が参加した。

  報恩講は各村とも親鸞上人の命日を中心にして、十一月二十三日頃から下旬まで一斉に日を決めて行われている。お手つぎ寺の住職が来て、門徒の家を一軒ずつ参詣し、終わると宿の家で住職をかこんでおしょうばん酒を汲みかわすのである。

  また、十一月下旬頃から十二月中旬頃にかけて尼御講、若衆御講、御書様御講などが催される。お講のある日は大てい半日を休みとし、大だいこを鳴らしてお講の始まるのを村に知らせる。若い衆やお嫁さんなどは半日のお講休みが待ち遠しく、楽しみでもあった。

  しかし、敗戦後いつしか村のお講行事もすたれてしまった。高度経済成長や所得倍増が叫ばれ、米の生産が合理化され、サラリーマンの兼業農家がふえて、お講を開いても詣る人数も少なくなり、形式的になってしまった。月御講などは各字とも滞りがちとなっている。

  なお、若衆報恩講は各字で多少の差異はあるがモチ、生菓子、片パン、みかん、キャラメルなどを参詣者に配る。僧侶に御伝書など「親鸞」の一代記を読んでもらい、眠いのをがまんして聞いた。報恩講のあとは大てい酒が出され、これが楽しみだった。

 

 青年講 (元、村講)

  大正十年頃から村講というのがあった。年に三回ほど、農閑期を利用して老若男女が中央の集会場に集まって読経し、終わって有名人の講話を開くのである。信仰心もさることながら、主として心の修養と村民の和に役立つようにとのはからいであった。

  昭和三年に当時の富奥青年団が初めて自治団として発足した時、団長宮川隆盛氏が提唱し、村講の主催を青年団に移管し、男女青年団の修養の一助にしようと交渉したが、時期的に間にあわず、翌年から青年団の主催となり、名称を青年講とした。三月十五日、七月十五日、十一月十五日の年三回とし、準備から世話まで、すべてを青年団の自主活動とした。参詣者も激増し、文字どおり老若男女の集いとなり、暁烏敏師、高光大船師をはじめ、当時の有名な人達の講話も、いまはなつかしい思い出である。この講は戦争末期まで続いたようである。

  なお、当時使用された高さ六〇?ほどの阿弥陀如来木像と、その後につい立てとした金びょうぶがそれぞれ堀中家の所蔵となっている。

 菜種御講

  明治の初め頃から各部落が東本願寺に灯明料として志納するため、自家でとれた菜種を持ち寄って行われたのが菜種御講の始まりといわれる。参加部落は三十五字にまたがっていた。終戦後は一時途絶え、現在では旧富奥地区十四部落と旧額村全部の参加となって各部落のお寺で御講があげられている。

  このほかに六十二ヶ御講がある。これは石川郡平地の六十二部落が参加して、毎年夏頃持ち回りで御講が開かれている。わが村でこの御講に参加しているのは中林・上林・末松・清金の四部落である。蓮如上人が浄土真宗を布教された時から、部落の熱心な同行達の呼びかけでつくられた御講だといわれている。御講としては規模の大きい集いであるが、数年前から滞りがちとなっている。

 修徳会

  昭和二十七年頃に藤田敬治(故人、新庄)さんらによって、村内の物故者の追善供養などをかねて始められ、現在も続いている。村の三ヵ寺が持ち回りで年二回御講を行っている。追善供養は毎年十一月に行われている。

 初代世話人 藤田敬治(新庄)、二代世話人 山本茂雄(中林)、三代世話人  中村惣一(上林、現在)

 

 

 再建消息 (藤平区蔵)

  そもそもわが大谷の本廟はいにしえ、亀山天皇勅願の宣旨を賜りしよりこのかた、世々の先徳血脈相承してもっぱら祖師聖人の一流を弘通せられし霊場なり。しかるに物かわり星移りて第十二世教如上人のとき、この地に移住し給い、そののち累代の丹誠によりて大堂の経営諸宇の結構周傭満足せしところ、天明年度よりしばしば焼失の災にあい、なかんずく文政年間再建のみぎりは前任上人の辛労ひとかたならず。さかんに法義を弘通し給いしにより緇素老少おのおの報謝のまことをつくし、宏牡の造営滞りなく成就せり。しかるところ安政五年の夏、また類焼にかかり、さしも巍々たる壮観一宇も残らず灰燼となり、なかなかあわれというべき言の葉もなかりけり。ことにそのころ聖人六百年の遠忌も間ぢかくして、しばらくもさしおきがたく、さりとて再建のいとまもあらざれば、假の両堂をしつらい、かの遠忌を執行せしに、元治元年の秋、兵火のためにたちまち焼失せり。ここにおいて諸国の門下崇敬のかくるることを歎き、聴法の縁にもるることをかなしみ、再建をいそぐともがらすくなからじといえども、たやすからざる造営なれば、とやかくとおもいわずらうおりしも、慶応元年の冬、かたじけなくも先帝より門下をはげまし、堂字を構えよとの綸旨を賜り、柳常よりも良材を寄附せられしかば、とりあえず再建の義を発示せしところ、世上の形勢おだやかならず、かれこれ苦慮するのみにして、空しく十有余年を送れり。しかるに、聖人の遺徳ますますさかんにして、法流あまねく国内にみち、遠く海外におよび、弘願真宗の教法よく時機にかなうことはるかに天聴に達せしにや、去る明治九年の冬、あたかも御正忌の結願にあたり、今上陛下聖人へ大師の諡号を宜下し給い、なおまたことし十二年の秋、見真二大字の勅額をたまう。しかれば特別の叡旨に対し奉り、かつは前任上人の遺慮へ対し、このときいよいよ再建を企てずんば、予の当職もたちがたきをや。しかのみならず焼失よりこのかた門下有志の輩再建を待ちわびてむなしく過ぎきりしものも多からんか。予も年齢六十三歳にいたれり、あわれ存命の内に此再建を大因縁として、いよいよ法義を興隆し、未安心の族も他力金剛の信心をとりて、自他一味の領解に基り、もろともに往生極楽の本意を達せんにおいては、予が老境の本懐なに事かこれにしかん。しかれば、諸国門薬の面々名利勝地のこころをさし置き、ひたすら報謝のまことを抽んでて、ひとえに仏祖の加祐をあおぎ、懇志をはげまし、土木をたすけてすみやかに再建成就あれかしとたのみおもうことにそうろう。夫れ祖師聖人の一義というに、出家発心のかたちを本とせず捨家棄欲のすがたを標せず、弥陀の本願真実の信心をもて肝要とおしえたまへり。そのゆえはもろもろの雑行雑修自力のこころをさしおき、わが身は無有出離之縁の凡夫なりと信知して、一心に弥陀に帰命し奉れば、万善万行恒抄の功徳をあたえましまして、たちどころに正定聚のくらいに住せしめたまい、さて裟婆の縁尽きぬれば、すみやかに報土往生の素懐をとげきしめたまうなり。されば無始よりこのかた三界に流転して、生死の苦海をとりなす身なれども、幸いにこのたび弥陀超世の悲願にまにあい奉り、浄土無為の妙果を期することは、偏えに祖師聖人比類なき勧化のいたすところなれば、まことに報じても報ずべきは大悲の仏恩謝しても謝すべきは師長の遺徳なり。これによりていよいよ仏恩師恩の深重なることをたっとびよろこび奉りて、常に称名念仏すべきものなり。あなかしこあなかしこ。

   明治十二年十一月廿六日

 右示すごとく、両堂再建を企てしところ、かたじけなくも朝廷においてこの挙を開しめされ、去る四月十四日今般堂宇再建のために金そこばく御寄附なし下されし事、誠に重ね重ね特別の叡旨を蒙り、いかばかりか畏み奉ることなれば、門葉の輩いよいよ限りなき皇恩を仰ぎて、おのおの法義相続の実意より報謝の懇念を尽くし、すみやかに再建成就あれかしと希望するところなり。よってこのかたじけなき趣を秋津洲の門薬にひろく告きかしめん為に書きしるすものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 明治十三年五月十二日追加畢

 右如前任上人文可有信心決定事肝要也

  三月十九日  釈現如 (印)

 加賀国石川郡富奥村字藤平田新 本山十五日講中

 

 御消息(世々の先徳)下林定林寺蔵

  抑世々の先徳相承血脈せる本廟相続の本義というは、あながちに栄華栄耀をこのみ、一生を心安くすごす所の名利勝他の義にはあらず。只諸国門薬をして、あまねく信心決定の行者となさしめ、一人たりとも他力本願にもとづき、信心のとりて、念仏申さん輩も繁昌せしむる様にもあれかしと、思ふばかりよりは、更にあるべからず候。しかれば門下の輩一同に念仏得堅固の思いより、報謝の経営油断ある不可候。殊に内には王法ありて、一流の法義しばらくも滞りなく、弘通せしむることは全ていにしえより稀なる昇平の時にあい、多年の治世によるが故と、国恩のかたじけなきことを、いよいよ仰ぐべきこと也。是によりて先王法をもって本とし、仁義を先として、国にあらは守護方、所にあらは地頭方にむきて、限りある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、いよいよ公事をもっぱらにして、疎略の義ゆめゆめ有不非、しかれば一所の坊主分たる人は、あえかまえて堅くこの成敗を加へ、また宗意の教示においては猶更非議の次第是なき様よくよく心うべし。

 さて、このうえには、在々所々にありて毎月の会合をいたすというとも、念仏修行の本意をたがうべからず。相互に信心不信を沙汰し、もしくは僻案の輩も是あらば、あいともにさとし、或いはよからざるふるまいも候はば、すみやかに改悔懺悔をいたすべし。しかる時は来集の人々のなかにも、まことに心あらむ輩は、これ回心懺悔をききて、げにもと思いて、同じく日頃の悪心のひるがえし、善心におもむき、又は不法懈怠の人も、先非を悔いて信心決定し、ひとしく一味の安心に住すべきなり。されば会合の座中においては、必ず必ず信心沙汰をいたすべきこと肝要なり。

 これ即ち真宗繁昌の根元、且つは自信教入信の義にも相応し、自行化他の道理にもかなうべきものなり。さればかように心得ての上には、極悪最下の我人を深くあわれみまします弥陀弘誓の広大なることを喜び奉って、ますます知恩報徳のこころざしをはげまし、当流真実の安心の次第をすみやかに決定すべきものなり。

 それ開山聖人のおしえ給う正義というは余の義にはあらず、弥陀弘願の他力の信心をもって、肝要となろうところに候。しかれば智恵才覚もいらず、男女貴賤を論ぜず、我身は諸仏の悲願にもれたるところの、あさましき造悪不善の凡夫なれば、天有出離之縁と、ながく成仏すべき、たよりは尽きはてたる衆生なれども、かかる機を本とすくいましますは、願力の不思議なりとしりて、露塵ばかりも誓願をうたがう心をまじえず、一念帰命したてまつれば、如来はすなわち見そなわしましまして、遍照の光明中にその行者を摂取して捨てたまわず、元始曠劫よりこのかた、つくりとつくる悪業煩悩を一時に消滅して、天上涅槃を証すべき身とはなしたまえり。このゆえに我往生は仏の方より治定せしめたまうなりとしるべし。されば宿善開発にもようされて、常没常流転の凡夫なれども今さいわいに超世の悲願にあい、万劫にも得がたき信心のとりて、やすく浄土に往生すべきことおぼろげの縁とは思うベからず。ひとえに多生の強縁のしからしむるところとよろこび思いて、いささかもおのがほからえをまじえず、いよいよ願力の不可思議なることを信じ、唯何の中よりも如来大悲の恩徳の深恩なることを常にかたじけなく存じ奉って、行住座臥をえらばず。仏恩報謝の称名念仏せしむべきばかりなり。しかればかくのごとく心得たらん人においては、如来聖人の冥慮にも相かない、当流他力の大信心を獲得したる平生業成の念仏の行者とはなづくべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 文政九年二月四日 釈達如花押

 加洲石川郡下林村本山十一日講中

 これと同種のものは清金村・中林村・矢作村・三納村にもある。

 紫衣鈍色の御消息 (定林寺蔵)

  わざと筆をそめて申示し候。然れば昨年仲冬二十日従禁中召によりて参内候処に、宮中において仰書を以て仰せださるる趣は、予多年の寺務宗徒の教導整い、よわひ八旬に及ぶのあいだ、各別の配慮を以って紫衣鈍色の着を聴さる可き旨仰せくだされ、仰書をもって受け給わることは、一宗の名望にして同派の内にも是迄比類なきことを予が不肖の身にしてかかる重任の義を蒙むることは、世代へ対し深々かしこまり存ずることのうえ、殊更聖人の御遠忌間近きころ、かかる仰を蒙ることもまったく祖恩の深きが然らしむるが故と深く感戴する処也。依って之の趣きを諸国の門下僧俗をいわず、聴聞し候いて愈以って祖師聖人の厚恩なることを造次顛沛にも忘却なく、ますます仏恩師恩の深きことを存じ奉って油断なく法義相続専要たる可きもの也。

 それ弥陀の本願と申すは、先十悪五逆五障三従のものをも助け給いて、末法濁世の有情の成仏すべきたよりのつきはてたるものを、弥陀如来ひとり諸仏にこえすぐれましまして、無上殊勝の大願を発起し、我助けずは正覚ならじと誓い給いてついにその願い空しからず、弥陀如来となりましましたることのかたじけなさよと思いとって、昼夜朝碁におこたらず常に念仏申す可きばかりなり。然れば弥陀はそのたのむ衆生をみそなわしましまして、大光明のうちに摂取して捨て給わず、命のあらん限りは光明の中にすむ身なりと定めしめ給いて、さて娑婆の命尽きぬればあやまたず蓮華蔵界に送り給いて無上大涅槃を証せしめ給う也。然れば此の心を聖人の御言葉にほ惑染凡夫信心発証知生死而涅槃とはのたまえり。さてか様に心得ての後には己が計い露塵ばかりも有る可からず、ただ我が往生は弥陀にまかせ奉りて命のあらん限りは其御恩を常に存奉りて何の中よりも南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申して如来大悲の御恩を報尽し奉るべき許りなり。是を以って当流他力の信心をよくよく心得たる念仏の人とはなづくべきものなり。あなかしこあなかしこ。

 右前文は天恩国恩のかたじけなき趣きを秋津洲の門下へひろく告げきかしめんが為に老眼をのごいて殊更ひろくあらわすところなり。

 万延元年五月二十日

 右如達如上人文可有信心決定事肝要也

 十一月朔日釈厳如(印)

  上宮寺加洲石川郡下林村本山朔日講中

 粟田御消息

  その地はいまに巡化の便もなく、うつくしく当流相流相承の教義聴聞あって、世々出世ともにめでたく過ごされ候やいかがと且暮懸念のところ、こたび有志の面々よりふみ出でよとまで求めらるまま、よろこびのあまりあらあら申しのべ侯。まず一国の治は一家より始まり、他人への交わりは親族の間より起こる理なれば、家族の近きをただしくするにあらずば、門徒の遠き至ることなく、一門の親しみを厚くするにあらずば、何をもってか他人疎きにおよぶことを得んや。しかれば、各自に無常迅速の境界に心をとどめ、他力往生の信心を決得し、裟婆存生の間は愛国の誠意をつくし、職業をはげみ、品行をただしくせらるべきことに候。もし、この趣をなおざりになしおかれなば、何をもってか有志の門葉といわん。よく注意あるべく候。その他力往生の信心をとるというも、さらにむずかしきことにあらず。その身の罪障に心をかけず、雑行自力の心をやめ、一心一向に後生たすけ給えとたのみ奉るはかり也。この一念に弥陀は光明をもって摂取し給いぬれば、往生一定御たすけ治定ぞと領解し、憶念相続して命のあらんかぎりは南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とその広天の恩徳を報尽申すべきことに候。いよいよ凡俗を美とし、ただ、人生必用のことに至るまで仏祖の冥鬼をかえりみ、軽薄浮美に流れず、権利自由をわきまえ、その身その身の修身斉家を第一とし、皇上奉戴の心中に任して朝旨にしたがい、国律にもとらず、現世には良民となり、来世には西土の行人となられば、その身の幸福このうえはあるまじく候。かえすがえすも先にも申しのべし如く、一国の治は一家より始まることに候へば、端身正行の事実をもって、一家より近溝におよぶこと掌を見るが如し。よって平生とてももとより集会の節には、難話をやめ、信心沙汰有るべきよう希う所に候也。あなかしこ、あなかしこ。

  明治八年六月十二日

  大教区  大谷光尊 御判

  石川県下有志  門葉中

 清金区青年講御消息

  それ宗教まちまちなりといえども、いずれも如説に修行せん人はそのやく空しからず。なかんずく真宗の一流は教を真俗の間にたて、門を半満の外に開きて、弘通し給うところなれば、あながちに出家発心の形を本とせず、捨家棄欲の姿を標せず、天倫の守り人道をふみて、しかも来世の得脱を期す二諦相依の宗教なり。今幸いに文明の盛時に値遇し、滞りなく教導せしむることは、ひとえに朝廷の御仁恵なれば、仏法につけ世法につけ、その洪恩を報ぜずんばあるべからず。深く感戴し奉るところなれば、布教に従事する面々、朝旨の所在を開暁して、すみやかにその実効を奏するの務なくんば何をもってか一身の責を塞がんや。これによって心得べき旨あり。

 一、神威を畏み皇恩を重んずべき事

 一、国律政憲を犯すべからず

 一、家業を勉励し仁義を本とすべき事

 一、諸宗諸法を誹誘すべからず

 一、他力信心を深くたくあえて、報土の往生を決得すべき事

  右この篇目の旨を体認して、自行他化その分を尽くすにおいては、端身正行独作諸善の遺誠に相応して、天下和順の真説むなしからざれば、自から報国の一端にもそなありつべきものなり。しかればその信心を獲得するというは、まず我が身の罪業の課重には心をかけず、雑行雑修もなげすてて、一心一向に弥陀如来の悲願にすがりて助け給えと思う心の一念の信まことなれば、如来はよくその機をしろしめして大悲の光明の内に摂取して捨て給わず、願力の不思議として仏のかたより往生は治定せしめ給う也と知るべし。さて、この上は心うべき様は十方三世の諸仏に捨てられ参らせて、助かるべき頼りはつき果てたるわれら如きものを、弥陀如来なればこそ無上の大願を起こしましまして、もらさず助け給うことのありがたさよと深く喜び奉りて、行住座臥をえらばず、仏恩報尽の為には常に称名念仏して畢命を期とすべし。これすなわち当流他力真実の信心を得たる人とも、また、如来回向の金剛心を決定したる平生業成の念仏の行者とはなるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  明治八年六月二十一日

 右、厳如上人文可有信心決定事肝要也

 九月廿日 釈 現如 印

 加賀国石川郡富奥村字清金 十四日青年講中

 以上この御文と同種のもの下林・位川・藤平田・三納・末松・上新庄にもある。

 各村の御講

 中林 月御講十日、二十日 総報恩講十一月二十七日 若衆御講三月九日

 若衆報恩溝十一月二十八日 御書様講十二月十七日 尼報恩講十二月十二日

 御消息(その一)文政六年九月二十一日釈達如 花押

 加州石川郡中林村 本山中

 御消息(その二)明治二十二年三月二十九日釈厳如 御印

 加賀国石川郡中林村 本山廿八日講中

 上林 月御講二十七日 総報恩講十一月二十五日

 御書様講十二月十日 尼報恩講十二月十三日 若衆報恩講十二月五日

 追善法要(村で死なれた方現在六六八名)毎年八月十一日

 追悼法要(戦死者四名)毎年八月十一日

 御消息(その一)文政八年三月十五日釈達如 花押

 御消息(その二)明治八年六月二十一日釈光勝 花押

 御消息(その三)明治二十九年十一月二十日釈現如 花押

 御消息(その四)明治四十年八月十一日釈現如 花押

 御消息(その五)昭和三十八年七月八日釈闡如 御印

 清金 月御講一日、十一日、十四日、二十一日 総報恩請十一月二十六日(上)十一月二十五日(下)

  御書様講十二月八日 尼報恩講十一月二十八日 若衆報恩請十二月三日 御年頭講一月十八日

 御消息(その二)天保十五年二月廿三日 釈現如 花押

                          加州石川郡清金村 本山十日講中

 三納 月御講六日、二十一日 総報恩講十二月四日 若衆報恩講十一月二十五日

  御逮夜講十一月二十七日 御書様講十二月七日 尼報恩講十二月十二日

 御消息(その一)明治八年六月二十一日 釈現如 印

  右御消息御下附願連名

  加賀国石川郡富奥村字粟田新保 浄福寺住職香城教哲、同国同郡舘畑村字七原 栄林寺住職藤恵淳、三納住人山田与三六、同石川小三郎、久田小兵衛、佃庄兵衛、正念専任職第三組副長四十万大尓

  御消息(その二)文政六年五月五日 釈達如 花押

  粟田 月御講十四日、二十八日 総報恩講十一月二十三日

  御書様講十一月二十四日  尼報恩講十二月二日  若衆報恩溝十二月九日

  矢作  月御講八日 総報恩講十二月三日

  御書様講十二月二十四日  尼報恩講十二月四日  若衆報恩講十一月二十四日

  御消息  天保三年二月四日  釈連如 花押

                         加州石川郡矢作村 本山十一講中

 位川  月御講十五日  総報恩講十二月三十日  若衆報恩講十二月三日  終(しまい)御講十一月二十二日

 末松 月御講十一日  総報恩講十一月二十四日  尼報恩講十一月二十六日  若衆報恩講十一月二十五日

 御消息(その一)明治三十八年六月二十一日 釈現如 実印

                          加賀国石川郡末松村 本山十五日講中

 御消息(その二)昭和三十二年三月二十五日 釈闡如 実印

                          加賀国真隆寺 末松村御講中

 太平寺  月御講一日、二十五日  総報恩講十一月二十九日

  御書様講十一月二十九日  尼報恩講十二月五日  若衆報恩講十二月一日

 御消息(その一) 明治八年六月二十一日 釈現如 実印

                         加州石川郡太平寺村定林寺一日尼講中

 御消息(その二)大正七年五月二十一日 釈彰如 花押

                         定林寺二十一日尼訪中

 藤平  月御許二日  若衆御講十二月十日

  尼報恩溝十二月十五日 御書様講十一月二十五日  総報恩講十一月二十七日

 下新庄  初御講二月二十八日  総報恩講十一月二十六日

  御書様講十一月三十日  若衆報恩講十一月二十七日  尼報恩講十一月三十日

 上新庄  月御講五日、十二日  総報恩講十一月二十六日

  御書様講 尼報恩講 若衆報恩講十一月二十八日 戦没者追悼会八月十二日

  御消息 文政九年五月四日

                         加州石川郡上新庄村 本山十一日講中

  御消息 明治八年六月二日 釈彰如 御印

                          加州石川郡上新庄村 本山五日講中




 ▲ 1:第一節 神社について 2:第二節 神社調査で発見されたもの 3:第三節 お寺について 4:第四節 仏像 5:第五節 村の御地蔵さん 6:第六節 村のお講について