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==第二節 部落のくらし==
一、概要
一戸を構えるいろいろな形態の農家が、集団的に社会生活を営んでいるのが部落である。この部落の集団社会は、都会の町内会や行政区画概念と全く異なった性格を持っている。
一、十四部落とも戸数に大小の差異はあるが、すべて稲作を本位とする農家の集団である。
二、農業の本質に基き自然なかたちでだれもが平等に苦楽をともにしている。
三、先祖代々、古くから部落に土着した農家ばかりで、住居の転出入はほとんどない。
四、長い藩政時代、支配権の行使はその末端においてすべて一村(部落)が単位であり、被支配者である農民はその重圧に対して、一心同体の協調で耐えてきた。
五、昔はとくに部落内の結縁関係が多く、その素姓をただせばほとんど同族同士である。
六、部落内の秩序は国の法律にも劣らない部落内規の誓約によって保たれ、これを無視した生活は考えられなかった。
七、古くから形成された封建性は、個々の農家を序列格付けし、それが部落生活を律し、全面的に融合していた。
以上のような性格の部落生活は、自然と人情的で誠実な相互扶助の気風を生み、戦時のような国家の至上指令に対しても一様に忠実であった。が、半面慣行的、非革新的であり、排他的な傾向も強かった。戦後は自由民主思想が急激に普及、一方、農家の経済形態も千差万別となったため、旧来の部落集団意識が次第に失われる傾向にある。
二、区長と寄り合い
藩政時代の肝煎は藩の村支配執行権の全責任を負う義務があり、部落民に対しては特殊な権限を有する村役であった。区長は明治二十二年に町村制がしかれた際、その地方自治体である村政の末端浸透のための補佐機関として設けられた。が、一面では部落という共同体の円滑な運営に当たる役職で、区内の幅広い事業活動面では生産、土木、水道、神社、仏事など各係が分掌して補佐している。とくに戦時中は国策遂行のため銃後の守りの重責を負い、生産面の拡張、米の供出、生産資材や生活物資の配給など、その任務は非常な負担であった。区長の選出は最初、村会の議決を経て任命されたが、その後各部落ごとに初寄り合いで選出するようになった。区長報酬は村費予算でわずかな額しかないが、各部落により区費で多少出費されている。
寄り合いは必要に応じ、区長が招集してたびたび開かれる。まずあらかじめ小走(あるきともいう)を経て各戸に通知され、寄り合い太鼓を打ち鳴らして招集した。小戸数の部落では区長宅を会場とするが、大戸数の部落では区内のクラブ(戦後公民館と称す)である。
戦前の寄り合い場の協議形態は、昔の封建性がまだ抜け切らず、家柄、持ち高、年齢などによって座席序列が決められ、発言力にも影響していたが、戦後は民主的自由平等の思想によってこれらの観念が打ち破られ、自由な発言による協議、討論が進められるようになった。したがって下意上達のケースも多くなり、区長は議長としてそのとりまとめ役が主となった。さらに各部落間の連絡協調のために、富奥村区長協議会(区長会ともいう)が組織され、合併後は富奥地区区長協議会と改称されている。
三、部落の神事、仏事
本村は一部落に一社の神社があり、その祭祀や管理運営は宮司(戦前は社掌と称す)宮総代(部落内から数名選出)、宮番(宮当番)が当たり、区長は神社の維持管理費、宮司の報酬、祭礼に関する経費など総括的任務を負っている。
仏事に関しては檀那寺はその門徒関係者同士で配慮するが、村(部落)御講、村報恩講(御書様講、青年講、尼講の三種)の執行、御講場寺(本村に三寺あり)の寄進や奉加などは、部落内の年寄同行が世話をしており、基本的協議を要する面は区長がまとめ役である。また、部落内に死者がある場合、その葬儀に関する世話なども区長がその統制に当たる部落が多い。
四、部落民の交流
日常の挨拶 成人に達しなくても学校(高校)を終え、社会人として就職する年頃になると、男女とも村人に出会ったときはあいさつをかわすのがふつうである。若者は「おはよう」「おやすみ」など簡単な声かけあいさつだが、子持ち以上の大人間ではねんごろなあいさつがかわされる。それも男同士は案外簡単だが、女は口数多いあいさつになり勝ちである。女間のあいさつの一例を示すと
甲「エライ寒いこっちゃにん」
乙「オイニ、急に寒なってニン。アリャ岳ゃ(鞍ヶ嶽)雪ァ降って白うなったがいニ」
甲「アリャほんまやー…ほいて(そうして)昨夜(よんベ)もとうちゃんナ長いことお邪魔して、あんやとう」
乙「なーンデニ、いついらしてもおかまいもせんとニン」
農作業の結い 農繋期はどの家も忙しい。だが、農作業の種類によっては天候のため一時的に、または一日切りで、あるいは適期に一斉に集中的に終えねばならない作業がある。これらの作業については、昔から各農家間で互いに協力して助け合う結いが行われてきた。この結いの相手は部落内で日頃懇意にしている家や、向こう三軒両隣り、親類関係などで結ばれ、それが例年の慣例として長らく続いているものが多い。近年は農作業も機械化され、各農家の経営状態が一様でなくなった関係上、結いの作業形態がだんだん消滅してきた。
祝事
一、出産 先ず臨月が近づくとコロコロだんごが部落内(戸数の多い部落は隣保班内)へ配られ、そのだんごをもらった家では、出産の知らせで男か女かを確めて適当な祝い品を贈る。この祝い品の程度は、親戚関係や日常の交際関係などで一様ではないが、昔は和服時代であったので、もっぱら主に一ッ身柄の反物やよだれ掛けなどが選ばれた。が、昭和の頃から洋服の流行にともないベビー服や毛糸などが贈られるようになった。この出産祝いは初産の場合、婚家から里へ帰り嫁の生家で産む関係で、生家の部落と婚家の部落の両方から祝い品をもらうわけである。
二、結婚、結納が出来て嫁ぐ日も近づくと、その部落(戸数の多い部落は隣保班内に限るのもある)内からはなむけと称する祝い品や金一封が贈られる。また、嫁を迎えた家では部落の青年会へ祝い酒をふるまったり、部落の人々を自宅や部落のクラブ(集会場)に招待して披露の酒宴を催す場合もある。これらは部落の娘が嫁いだり、部落の青年が嫁を迎える場合だが、反対に部落の青年が他へ婿養子に行ったり、娘が他から婿を迎える場合も同様に祝い事が行われる。
三、入営 徴兵険査に合格し入営期日が近づくと、各家々から餞別が贈られ、部落の青年会などで歓送と激励の催しが行われる部落もあった。一方、入営青年の家では部落の青年達を招待して祝いの酒宴を催し、入営の当日は神社に部落民一同が集合、区長が主催者として歓送式を行い、万歳の声に送られて入隊した。満期除隊の時は部落民が出迎え、入営と同様その家では除隊祝いの祝宴を催すのが慣例とされていた。とくに戦時中は入営ばかりでなく、赤紙動員で召集出征する者が軒なみに多く、時には数名合同でこの祝い事が催される事もあった。
四、厄年祓い 男子二十五歳、四十二歳(ともに数え年)は厄年と称し、その前年の十二月末日、神社で神事による厄祓いが行われた。その際神前に大鏡餅を供え、そのお下がりを切って親類や各戸へ配り、さらに吉日を選んで部落内各戸を招待して厄祓い祝いの酒宴が行われた。しかし、戸数の多い部落などではクラブ(集会所)を会場にしたり、招待せずに祝い酒を部落へ贈る場合もあった。また、神社へ絵馬や祭具、調度品など奉納する者もあった。しかし、これらの祝い事も戦時中は消費節約で中断し、戦後再び豪華に復活した部落もある。
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