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資料集(七〜九)
(郷土に育まれた人物)
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==郷土に育まれた人物==

 

八、郷土に育まれた人物

 

庄田 和作

  明治三十一年八月十日、新庄の庄田市三郎の二男として生まれ、十三歳で京都へ就職したが先の見通しがないため帰郷し、能美郡の遊泉寺銅山に勤めた。ここで会社経営の補習学校にはいり、機枕工学、製図、英語など技術者としての基礎を習得する機会を得た。この会社が閉山となったので、鉄道院金沢工場に入ったが、この工場の浜松移転とともに浜松に移った。鉄道院在職中、早くも二つ三つの特許を得た。二十五歳で早くも独立、今日の庄田鉄工株式会社の創業時代を築いた。とはいっても決して順調なものではなかったが、氏の誠実と努力と研究心はこれらを克服した。とくに一連の木工機械の設計・製作に没顔、次々と新しい木工機械を発明開発し、特許件数三十数件にも及んでいる。国内はもちろん海外にまで木工機械を輸出している。

  事業に専念のかたわら、浜松商工会議所監事、静岡県公安委員など数え切れないほどの役職を兼任し、また、郷土のため昭和四十一年、野々市中学創立十周年に当たっては学校の教材として、木工幾棟一式(当時の金額で百五十万円相当)を寄付されるなど、郷土に対して数々の特志を寄せられた。

  昭和三十年には紫綬褒章、三十五年には紺綬褒章を、四十三年には勲四等に叙せられ、旭日小綬章、従五位を賜わっていられるが、昭和四十七年六月三十日、七十三歳で没せられた。富奥出身者としては特筆すべき人物である。

 

 

志村 三次

  下林の志村弥三郎の三男に生まれ、小学校五年まで富奥小学校で教育を受けた。その後、大阪市に働きに出て洋がさ関係の問屋に勤めた。そして幾多の困難を乗り切りついに東洋洋傘株式会社を経営するまでに成功、大阪の実業界に重きをなす存在とまで認められた。

  その志村三次が小学校当時の恩師二羽校長の教訓が今日の自分をあらしめたと感謝され、その恩師の御恩に報いる意味において昭和十六年、中島栄治氏が富奥村長であった時に、現在の公民館(当時の健民館)を中島村長の要請に応じて快く寄付された。このほか学校へはピアノを寄付された。

  後日、富奥公民館が公民館活動で全国表彰を受けるまでになったのも、もとはといえは氏の功績のしからしめるところである。

  また、日本の洋がさ界の長老として長年、日本洋傘組合の理事長をつとめ、昭和十八年に紺綬褒章、昭和三十九年には大阪府知事産業功労章、昭和四十一年には黄綬褒章、昭和四十五年には勲五等双光旭日章をさずかった。昭和四十六年八月、満七十歳で他界された。

 

 

中島 栄治

  明治三十六年十月二十六日、野々市町二日市に生まれ、太平寺の旧家中島家に婿養子として入籍した。二十五歳で富奥村学務委員を振り出しに助役、村長となり、村の公職はもちろん、この間農業関係の多くの団体役員として活躍された。昭和十四年からの富奥村長時代は時あたかも日本の大不況時代で、農家にとっても大恐慌時代であった。氏は経済更生をスローガンとして村政を打ち出し、村経済の建て直しに活躍された事は有名である。

  また、氏は常に政治家、学者、経済界の有名人、県庁はもちろん中央官庁の高官と接触を保たれ、世界の情勢や時代の動き、今後のあるべき姿など適確にとらえて、村民との対話、青年を集めての錬成の場などで語られ、またそれらの人を講師として招かれるなど、村民に印象深いものを残された。大東亜戦争中は石川県翼賛壮年団副団長、石川県農業会副会長として活躍されたため、終戦とともに戦争協力者として追放の身となり、一時野に下ったが、昭和二十六年追放解除とともにカムバックし、富奥村教育委員、野々市町教育委員を経て、昭和三十四年二月野々市町長に当選、昭和五十年まで町長を四期間勤めた。

  今や野々市町は金沢の衛星都市として人口二万を数えるほどに発展しているが、これは単に野々市町の位置する地理的条件だけでなく、氏の政治的手腕によるものが多々ある。そんな関係でいろいろな団体、官庁から表彰されているが、昭和三十七年には農林大臣から、また昭和四十六年には農業振興の尽力により黄綬褒章を授与されている。

 

 

西村 清太郎

  明治二年中林に生まれた。家は代々農業であったが、生まれつき何かやり出したら熱中する方で、正義感の強い人でもあった。十七歳位から農業の暇をみては金沢市地黄煎寺町の勘田半兵衛について撃剣、体術棒、薙刀(なぎなた)、鎌鉄尺(くきりがま)の技を学び、寒さ暑さをいとわず十七、八年もその道に励み、一つとしてこの道の奥儀をきわめないものはないほどになった。段々と名声が高まるにつれて剣道を教えてくれという者がふえてきたので、明治三十六年、中林に演武場を建て、久我侯爵から武道館の三字を賜わったので「武道館」と名づけた。

  氏の武道振興と当時の体育重視の時代的背景によって、ついに門人は二百人余りにも達した。その武道振興は大日本武徳会もこれを認め、表彰している。また富奥剱親遺会員は氏の顕彰碑を邸前に建ててその功を後世に残している。

 

 

竹内 信吾

  明治四十三年三月三日、粟田の竹田松三郎の二男として出生。富奥尋常高等小学校卒業と同時に上阪、毛布卸商小林政治商店に入社、同社において二十三年間、大阪商人の土根性と商法を身につけて独立した。誠実と信用が買われて段々と大きくなり、竹内信毛織株式会仕を泉大津市に設立するまでになり、従業員約五十名、年商二十億円の会社に発展成長せしめ、今なおかくしゃくとして活躍中である。

  大阪にあっても郷土のことを忘れず、昭和二十九年十月、旧富奥小学校に放送設備一式、またピアノ一台、昭和四十一年野々市中学校創立十周年に際しては家庭科教材一式を寄付されるなど、奇特な人柄に対して昭和三十年五月二十一日、紺綬褒章が授与され、昭和四十七年には大阪府知事から産業功労章が授与された。

  また、日本毛布商業組合の常任理事、泉洲毛布卸商同業会の理事長、泉大津商工会議所常議員などを兼任、毛布業界の元老格として今なお業界のために活躍されている。当年六十五歳。

 

 

石川 憲章

  末松の中村与四右衛門の三男として生まれ、清金小学校、松任高等小学校を卒業後大阪市の石川貿易商に入社、社長にその才能を見込まれ石川貿易商の婿養子となり、第一次大戦当時は貿易商として大いに活躍した。

  また、氏は日頃教育に関心をもち、大正十二年頃、出身校である富奥高等小学校へ校旗を寄贈された。

 

 

中村 安太郎

  中村与四右ェ門の長男として慶応二年末松に生まれ、幼少の頃から相撲に強く、大阪相撲に見込まれて角界入りし、しこ名相見潟勘吉として関脇まで昇進した。

 

 

西野 定吉

  粟田の西野九郎氏の三男として生まれ、高等小学校を卒業した時は農業が大変な不況な時で、大阪の呉服店に丁稚奉公に出た。昭和十二年、ようやく独立して子供服縫製業を始め、事業も軌道に乗って拡張計画の折柄、大東亜戦争となり、一時は大阪の消防署に勤務せざるを得ない状態となったが、戦後の二十一年再度西野縫工所を設立して現在の繁栄に至っている。

  この間、同郷の同窓生竹内信吉さんと「信ちゃん」「定ちゃん」の間柄で互いに励まし、助け合いながら今日に至っているのは美しい「友情」である。

  氏はまた、富奥の視聴覚教室へ引き幕や幻灯機などを寄付され、常に郷土のことを忘れない方である。先年、東大阪縫工会を設立、初代会長として縫工業界のリーダーをつとめられ、その後大阪洋服北陸栄人会会長を歴任されるなど、公私ともに活躍中である。

 

 

高村 誠孝

  明治二十七年末松に生まれた。もの心がついた頃から末松の昔話の中に出るお寺や在所の田圃のあちこちにある塚を見て、強い疑問を持ち続けていた。明治四十一年、村で耕地整理が始まるや、あちこちから出る石器、土器を見て、遠い祖先の歴史に一層の関心を持ち、これを解明しようと研究心をふるいたたせた。

  氏が十五歳の時である。出土品が何処から出たか、またどの辺から多く出たかなど精密に記録するとともに、県の図書館に通って勉強し、末松の歴史的遺産の重要性に驚き、県の専門な人々の協力的を得て末松廃寺跡の発掘調査を願い出て昭和十二年三月、これを実現した。塔礎石、唐戸石、軒丸瓦、平瓦、丸瓦、須恵器などいずれも一、二〇〇年前の白鳳時代のものとして昭和十四年九月、史跡名勝天然記念物の指定を受けることとなった。その後も氏の廃寺跡の究明と出土品捜しは続き、村の種々な公職などの話しを持ちかけられても、この廃寺跡の究明のために断わるはとの熱心さであった。

  昭和三十六年三月、折からの雪解けでかねてから目をつけていた廃寺跡周辺を見廻りに行ったところ、一枚の銀貨を発見した。当時の帝室博物館兵石田茂作氏の鑑定を受けたところ、和同開珎であることが判明した。和同開珎とは七〇八年頃鋳造されたもので銅貨は珍しくないが、銀貨は奈良県山辺郡小治田安万侶の墳墓から十数枚出ただけという考古学上重要な発見であった。これを契機として昭和四十一年、四十二年にわたり、本格的な調査発掘がなされるとともに史跡公園となった。学会の権威者から加賀国分寺勝興寺の跡がここではなかったかとの推測もあったようであるが、確かな文献もなく、永遠の謎となりかかっていたところ、氏の一枚の銀貨の発見でこの謎を解くカギがつかまれた。

  昭和四十三年十一月十六日、多年にわたる史跡の調査保存と地方文化財保護の尽力により黄綬褒章を賜り、また昭和四十七年十一月三日には野々市町条例による第一回第一号の文化賞を授賞された。末松廃寺跡とともに生きる高村氏である。

 

 

松尾 宝作

  明治三十四年七月十二日、富奥村字清金甲六十五番地(旧地籍)戸主東野長太郎の実子として生まれた。明治四十一年、富奥尋常小学校に入学、四年修了後一家と金沢に移住、新竪町尋常小学校に転入、旧制金沢一中を経て大正十三年三月金沢大学医学部専門部卒業。当時朝鮮で銅山王といわれた旧林中村出身者松尾家の養子となり、以後現住所で松尾産婦人科病院を開設され、公職などを歴任、いまなお活躍されている。略歴は次のようごある。

  大正一三年四月〜昭和四年三月金沢大学医学部産婦人科研究室勤務、同四年六月〜五年九月ベルリン大学付属癌研究所エルドマン教室に留学、同五年九月帰朝、聖霊病院産婦人科主任、同七年七月病院開設、同二一年四月金沢市公職適杏審査委員会委員、同二二年四月〜二六年四月金沢市中央公民館運営委員長(翌年第一回都市公民館全国表彰受領)、同二三年四月〜二六年四月石川県日本印度学仏教学会会長、同二八年四月石川県母性保護医会長、同三〇年二月金沢大学社会教育研究室設立委員、同三〇年一二月石川県選挙管理委員会委員、同三七年一〇月仏教東漸七十周年記念使節団員としてアメリカ・ヨーロッパ・ローマ法皇朝等を訪問、同三八年四月〜四一年四月石川県教育委員、同四四年五月より金沢大学社会教育研究室比較思想講座担当(社会教育原理の研究に専念)、同四八年一○月日本比較思想学会設立委員、同四九年六月第一回円本比較思想学会を大正大学にて開催(会員現在約五五〇名)

  付記 発表論文「日本印度学仏教学会誌」及び「比較思想研究」に数篇、昭和四年二月「レントゲン方向測定器」の特許許可

 

 

西崎 順太郎

  金沢市生まれ。幼少のこら、中林の西崎家の養子となる。長じて家業にはげみつつあったが、のち金沢に出て新聞記者となり活躍した。一時政界入りを志したが成功しなかった。大正初年に台湾に渡り、新聞社主筆となり、大正十一年に故郷中林の神社へ大鳥居を寄進した。また。富奥村及び中林区へそれぞれ西崎文庫を寄贈、その徳行は高かった。

  八十四歳の長寿で台湾の地で死去された。戦後家族は内地へ引き揚げされ、関東方面で住んでおられる。

 

  

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