祭りに寄せて

 獅子舞(ししまい)の由来には諸説があります。日本の諸芸能には神に深くかかわる獅子舞は強く霊獣(れいじゅう)である獅子が農耕生活をおびやかす害獣(がいじゅう)を神に服従させるという物語りを芸能化したものといえます。

 一説には加賀藩が万一に備えて武士のほか村民の戦力養成にも努め、武芸を奨励したものと思われます。獅子舞には加賀の殺子獅子と能登の舞獅子(まいしし)とに分けられます。

 流派には半兵衛(はんべい)流、土方(ひじかた)流の武術があり、我が野々市町は殺子獅子で金沢市地黄煎町の町田半兵衛流派を継承しています。獅子頭やカヤ(胴体)とも巨大さを以って知られています。カヤ(胴体)の中から芸者の黄色い声と荘重な太鼓の響き三味線や笛の囃子方が入った獅子舞道中の音色が流れます。

 豊年みこしの野菜つくり若連中のかけ声もいさましく町中賑やかになります。

 祖先が残した郷土伝統芸能は人々の「心のふるさと」となって受継がれています。

 

  野々市町本町四丁目十二‐二 嶋田良三

=============

 

 

お祭りの準備

 お祭りにかかせないのは〆縄(しめなわ)である。〆縄を若連中と子供達の手によって町内毎に全域に張られます。

 本町二丁目に鎮守の布市神社と白山神社の秋季例大祭は毎年十月十三日~十五日まで三日間行われます。

 各町内の若連中は十日頃から松葉の付いた枝木を台車に満載して各家に配ります。この松葉の枝に取り付ける色紙七枚と金銀紙各二枚宛一組にして配ります。黒塗りの角棒の本数により割振りする。

 この色紙を子どもと親が共同して「折鶴」にして糸を通し松の枝に取り付ける。金銀紙も同じく糸を通して飾り付ける。黒塗りの角棒は約五センチ角、長さは約三米二十三センチのものを使用する。

 棒の先端から七センチ下がったところに穴をあけ、巾二センチの長方形の穴に松枝を差込む。この穴から七十五センチ下がったところに行灯を掛ける釘を打ちます。

 各家庭の前幅によって棒の数が違いますが行灯の絵も棒の数と同様に配布されます。この絵には「ゑびす大黒」「豊年万作」「五穀豊穣」等豊作を祝う絵と「大漁」を祈る絵を見る楽しみがあります。

 この黒塗りの行灯枠に絵を貼り付けて行灯に納め、松葉の枝の下に行灯を掛けて飾ります。

 白山神社と布市神社を中心に本町一丁目(旧荒町、新町、一日市町、中町、六日町、西町)本町四丁目まで行灯の並ぶ列は見事であります。これは加賀国守護職富樫忠頼郷を祭る布市神社と白山神社の諸神をお迎えする向ひ火であると思ひます。旧北国街道に奉灯される夜景は古い歴史と伝統が今も受継がれ、その名残りが諸神をお迎えする町人の感謝の真心の現われでないだろうか と思います。

 旧家には家紋入りの紺色の幕が張られる家、すだれを掛ける家、玄関に家紋入りの提灯に奉燈されます。城下町の風習は今も継承されています。

 子供の頃から大人になっても行灯の絵を見ながら神社にお参りする楽しみは城下町野々市の祭りの名物かも知れません。神社に入ると両側には夜店が並び子供達や大人で賑わい、神社の太鼓と笛の音が鎮守の境内に響きわたります。

 

 

お祭りの〆縄

 〆縄はお宮に、お祭りに張られます。神話によると〆縄は神代から伝えられるもので天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸から出られたところを布玉命がすばやく入口に「〆縄」を張りめぐらせ「ここから内には入れません」といった。これが起源とされています。

 〆縄は神聖な場所を界隔し、出入り禁止の「しるし」に引きわたす縄である。特に神前又ハ神事の場や門戸に張って悪霊が入らぬようにとの意味を示すことと思ひます。

 

 

獅子舞の準備

 八月下旬になると加賀平野に早場米の黄金色の稲穂が頭を下げ、風と共にゆれ動く穂、澄みきった秋空に赤トンボが飛んでいる。稲穂を手の平にのせて丹念に米の出来具合を調べる農家の若連中の顔が今年は被害もなく豊年万作だと喜ぶ笑顔が見られる。稲の収穫を祝い、今年は獅子をだそうではないかと若連中の仲間から話が出はじめ熱気が溢れる。若連中頭は町内会長宅や町の有志宅を訪づれお願にかけ廻る。そのうちに町内会長、有志らに獅子を出してもよいと承諾を得て集会を開き、祭りの行事について話を進め、それぞれの担当役を決め若連中の總動員となる。

 祭りの行事には先輩の年寄り連中の指導と成年会の相協力なくして出来ない行事であり、町内の方々からの寄附と人力があってこそ伝統芸能の獅子舞奉納が行われるのであります。

 九月に入ると若連中は小学校生徒から中学校生徒の男子の棒振り子を募る。昔は長男に限られていて衣裳の新調出来る家柄でないと出られない。これは他町に流派の武芸を他へ流さないための厳しい掟があった。そのため町内外の者には練習場は見せない風習が残っている。

 棒振り子が決まると学年別にそれぞれ棒、薙刀(なぎなた)、太刀、と二人の合せ棒等の厳しい練習が毎夜はじまる。若連中の棒振り薙刀、太刀等の練習と獅子頭を持つ練習野々市の獅子の流派は町田半兵衛流であり、金沢市泉町から習ったものである。

 頭の舞は佐々木流派である約一ヶ月の練習である。若連中から笛三人~五人の練習芸奴の太鼓二人三味線三人との合せの練習これを中囃子といいます。

 

 

獅子の由来

 この獅子についていろゝと説がありますが日本の諸芸能には神に深くかかわる獅子舞は強い霊獣である獅子が農耕生活をおびやかす害獣、悪霊を神に服従させるという物語りを芸能化したものといえる。天正十一年(一、五八三)六月前田利家が金沢へ入城したのを祝って舞を出したと言われる。

 また加賀の獅子舞は加賀藩の領氏に対する美術・工芸と芸能の奨励に尽くした。一方万一の戦ひに備えて武士のほか領氏の戦力養成にも努め武芸を練るため刀剣・棒を持った遊戯として加賀獅子舞を奨励したものと思われます。

 石川県内の獅子舞を大別すると「加賀の殺し獅子」と「能登の舞ひ獅子」とに分けられます。

 加賀の獅子舞を代表する金沢の獅子舞は、その規模の雄大さを以って知られ、その流れを我が野々市町に受継がれております。

 加賀の棒振りの武芸には流派があり、最大の流は昔の冨樫庄であった金沢市地黄煎町の住人町田半兵衛流であり、長い間に亘り新な武芸を取り入れた教師の枝を流派として今日に受継がれております。

 

 

獅子頭

 

 我が町内の獅子頭は北陸の風土に耐えて育った年輪の多い加賀桐材を使用した巨大なものが多い。獅子頭は鎮守の神社に奉納したのが始まりと思われる。町内に保存されて獅子頭は重さ十二キロから十九キロのものであり大きさがわかると思います。

 制作年代は江戸時代の作が多い。獅子舞奉納が盛んになったのは明治に入ってからであり、特に明治二十八年の日清戦役と明治三十八年(一、九〇五)の日露戦役の戦勝記念に盛大に行われたと伝えられています。

 

 

町内の獅子頭

  旧冨樫郷住吉神社 現布市神社 一頭 野々市町本町二丁目

  旧荒町 二頭 野々市町本町一丁目

  旧中町 二頭 野々市町本町三丁目

  旧西町 二頭 野々市町本町四丁目

  粟田町 一頭 野々市町粟田町

  中林町 一頭 野々市町中林町

 

 

蚊帳(カヤ)胴体

 獅子の蚊帳の頭に牡丹に獣毛模様を彩色に染めた巨大な麻布で袋状に出来ている。人が三十人が入れるほどの大きさがあります。この牡丹は縦横二米四十センチあり、胴体の長さ十米三十三センチその袋状の巾がなんと六米五十センチあります。

 蚊帳を張るのに割竹数本合せたものを胴竹といい、この胴竹を白布で巻いて弓の様にします。胴竹三本を蚊帳に入れて張ります。弓の様に張った胴竹の両端に一人宛持ち、三本の胴竹を持つ人が六人となります。

 胴の後尾に「尾」を付けます。竹竿の長さは四米の先に朱色に麻を染めて垂らします。尾の竹竿に一人が持ちます。

 合計蚊帳に七人で蚊帳を動かす蚊帳の胴の両側に二ヶ所に二十センチの穴が開けてあり、今年の芸奴のきれいどころを見る「のぞき窓」であり「ちらり」と見る楽しみがあります。

 

 

ヤヒコババ

 獅子舞の先導役となる「ヤヒコババ」は桐材の鬼面に異様な風体をした着物を着てウロコ模様の「モンペ」を履いて二米もある錫枝を持って「ガチャン・ガチャン」と音を立てて歩く、腰から縄で鈴や空缶をつないで引きづる、一本歯の高い足駄を履いて歩く姿は悪魔のようである。

 家の前で悪魔払いをして獅子が来ることを知らせる。獅子舞の先導役を務める役である。

 この一本歯の高い足駄の技法はむづかしく「履きやすく、歩きやすく、疲れない」三ツの條件を満して製作した故嶋田仕納作である(現本町四丁目住人)

 

 

懸帯前(けんたいまい)

 本町一丁目(旧荒町)、本町三丁目(旧中町)、本町四丁目(旧西町)、三町の懸帯前の衣裳は他町に劣らない豪華な衣裳である。生地は太チリメンという絹糸で織った懸帯前は朱色のもの江戸・明治・大正時代のものを使用していたが、昭和に入ってから白色に改められて新調した。

 

  ハッピの絆襟は黒朱子に前掛は白地に旧町の頭文字の一字を黒色太チリメンで表わしてあります。

  本町一丁目  旧荒町の「荒」の文字

  本町三丁目  旧中町の「中」の文字

  本町四丁目  旧西町の「西」の文字

 

 懸帯ハッピと前掛には裏地に獅子が舞ひ上がる雄壮な絵が書いてあります。腰にはモス生地の黒の帯を巻き前に縄のようにして前飾りをする。黒字の朱子のパッチ(袴下)を履き白足袋を履く。花緒の付いた八ツ折草履を履いたものですが、時代の移り変りと共に花緒はセッターを履くようになった。

 頭には日本手拭に赤と黒の豆しぼりに染めた手拭を鉢巻する。若連中十二名が懸帯前を着て獅子頭を持ち左右に並びます。棒振りと共に演じる主役である。

 

 

中囃子

 蚊帳の中に入って囃子を歌う芸奴の太鼓打ち二人と三味線三人、芸奴頭一人、若連中の笛四人が、着物姿で太鼓・三味線・笛の音と共に芸奴の長唄に合せて道中を練り歩く。

 芸奴は、野々市本町三丁目(旧六日町)、本町四丁目(旧西町)の茶屋街くるわの芸奴、或は金沢の西茶街くるわの芸奴を呼んだ。若連中と芸奴の練習が一ヵ月続いた。獅子舞には中囃子がかかせない味力があり、芸奴を呼ぶ習わしとなっていた。

 時代と共にこうした形式を中実に守ることの困難さがあり、昭和五十年(一、九七五)頃から、普及した録音テープによって吹込みました。この録音テープ一式をリヤカーの台車に乗せて道中流すようになった。

 芸奴のきれいどころが見られなくなったのが残念である。

 獅子舞が全町を廻る頃になると、提灯にローソクを入れて火を付ける棒振りの子供を四人ずつ並べる。獅子の上で子供達は大きな声で歌を唄いながらゆっくりと町の中を進む。

 

  オツピキ ダイサン・ノーエ・ 獅子が さいさい・ととちち・オツピキ ダイサン・ノーエ

 

 町に着くと再び獅子頭を降ろし、演武を始める。表通り一軒一軒の前で行う 最後は宴会場の前で今まで負けていた獅子が勝って、棒振りを追い掛けて会場に入る。

 

 

長唄

 町内によって長唄の違いはあるものの祭りの囃子に変りはない。長唄の保存に務めなければならない。

 

  野々市町本町一丁目(旧荒町) 梅が枝

  野々市町本町三丁目(旧中町) 安宅

  野々市町四丁目(旧西町) 安宅

  野々市町粟田町 宮参り 宮帰りバカ囃子 安宅

  野々市町中林町 ノーエ節 バカ囃子

 

  くるわ

  野々市町本町三丁目(旧六日町) 永見や らん菊 時月

  野々市町本町四丁目(旧西町) 中乃戸 ゑびす桜 やすしや

 

  くるわ 金沢 西茶屋街

  金沢市 西泉屋 長田 長ハル 月の家

  金沢市 まつ染 吉照 中春 寿櫻

  金沢市 松染 中乃芦

 

 

棒振り子

 棒振り子は獅子に対して戦ひをいどむ。その勇壮な演技を展開し、獅子は左右に舞い大きな口を開けて棒振りを片目で睨み暴れる。

 棒振り子は男子で小学校生徒から中学校生徒と若連中などから募り、武芸を一ヶ月習います。学年によって演技が違います。一人で棒を振る薙刀も同じ。棒と棒二人合せ、棒と薙刀の二人合せとあります。

 二人の合せ棒は打ち合ひ、からみ合って先を爭ひ、互に激しくわたり合って、最後は一緒になって獅子を襲い「ヨイヤー」とかけ声と共に獅子を殺します。

 薙刀も亦同じく先が刀の形をしているから刀の動かし方が棒よりむづかしい。若連中の棒と太刀の二人合せは最大の見どころであるから超一級の演武の出来る者が選ばれます。

 

 

衣裳

 衣裳については、低学年の子は可愛い柄模様のハッピを着て、袴も柄模様に裾に鈴を付けます。胸当て(前垂)は、赤羅紗地に金糸に家紋を刺繍したもの、又は鏡を付けて金糸で刺繍する家もある。

 高学年の子は白又は黒色柔道着に似たものを着る。袴は濃紺又は黒色木綿地に、金沢市地黄煎町住人町田半兵衛の流派の「渡りトンボ」を配した袴を着けます。

 手甲と脚絆は黒朱子地を使用し、白足袋を履いてスベリ止に足に縄を巻く。タスキと帯は黄色モス地と白色のタスキを使用する。帯は腰に巻き前の部分は縄のように組んで前飾りとする。

 袴には「玉田流の玉」を付ける町もある。町田半兵衛流であるが、諸師によって新しい武芸を取り入れたものである。

 若連中は白色の柔道着を着る町内もあれば、白シャツに白パンツの町内もある。頭にシヤンガンを付けて獅子にいどむ姿は勇壮である。シヤンガンは馬の尾で出来たものを冠る。獅子にいどむ時は扇子を身に付ける。棒又は薙刀を落した時には素早く扇子を手に持ち獅子に降参する時の扇子である。

 

 

口上(花の御礼)

 町内の方から若連中一同に御祝儀として金壱封又は清酒が届けられたお礼として「口上」が読み上げる。例へば相撲の甚句のように伸びのある美声を張り上げて口上が読みます。

 年輩の方が和服姿で、腰には角帯をして豆絞りの手拭を襟元に留めて黒足袋に下駄を履いたものです。

  例 「東西ィ・・・東・・・西ィ・・・右は御贔屓トイタシマシテ○○様ヨリ金貨萬両、銀貨千両○○町若連中ニ下サ・・・ル」と口上を披露します。引きつづいて清酒が届けられた時には素早く

 「オオナジク、オンサケ、サカナ、サ・・・ワヤマ右ハゴヒイ・・・キトイタシマシテ○○様ヨリ清酒台車に満載○○町若連中一同ニ下サ・・・ル」申し上げる。

 懸帯前の十二名は声高らかに「アリガトウ」のお礼を申し上げ、祭り気分を盛り上げる。

 この口上を読むことも近年少なくなりつつあるが、時代が変っても贈られた者に対するお礼は、礼儀であり伝承は後世に残したいと思ひます。

 

 

頭持ち

 頭持ちは懸帯前十二名の中から交代で持ちます。頭持ちは棒振りのかけ声と動きに応じて、頭を上、中、下段に、或は左右に動かす。

 棒振りが獅子に近づき一揆打ちとなり、獅子は二、三歩後退して大きな口を開いて、左上に舞い上がります。獅子は棒振りを片目で睨みつける。棒振りが獅子から遠ざかると獅子は二、三歩前進して棒振りを追うと共に、獅子を右下に下げて正常な姿に戻り、左右に動きます。

 棒振りは勇気を以って獅子に向ひ打つ気合と、懸帯前の気合と共に最後に獅子を殺します。獅子はダラリと頭を下げて獅子退治となります。

 若連中から棒振りに対して「オドレ・・・ウマイゾ」とほめ言葉を送る。こうして舞には若連中、子供連中、観衆の見物人が一体となって演技を見守り、一気に観衆から拍手が響き爆発します。

 

 

囃子言葉

 お祭りに獅子舞の囃子長唄の前に「オツピキ ダイサン ノーエ 獅子がさいさい ととちち オツピキ ダイサン ノーエ」と歌い継がれているが、どういう意味か判らない。古来中国から渡ったものか、加賀国藩政期のものか何語の転訛でなかろうか。

 

 

■町ごとの獅子の紹介

 

本町二丁目(旧一日市町)

 

 富樫郷住吉神社は、旧荒町の外守八幡神社と旧西町照日八幡神社が、大正三年(一、九一四)十一月二十日合祀し、布市神社に改められた。

 

 獅子頭

 

  一頭 神社所有

  制作年代 不詳 製作者 不詳 約二〇〇年前と思われる。

  本体の高さ四十センチ 角七センチ 前幅六十五センチ 奥行三十七センチ

 

 

本町一丁目(旧荒町)

 

 この町の棒振りは、一人棒(棒薙刀)と二人棒(棒と薙刀と剱と薙刀)があり、往時は継棒(くさり鎌と剱尺八)もした。

 他に「スイートウ」といったものもあった。樫木製で通常は一本で太刀のように使い、場合には二本にして両手で使用した。(直径四センチ、長さ六十センチ)

 明治三十一年(一、八九八)九月、旧荒町住人高橋誠吉氏ら八名が金沢市地黄煎町の町田半兵衛のところに入門しています。その後高弟である旧三馬町横川(現金沢市横川町)に住む村上氏の指導を受けた。源野武雄氏等は押野村太郎田(現金沢市西金沢二丁目)へ棒振を習い、入門にあたり誓約書に血判を捺して習った。

 この様に町田半兵衛流派であり、ワタリトンボの袴を着用しています。

 旧荒町の鎮守は外守の地に外守八幡神社があったが、大正三年(一、九一四)十一月二十日、富樫郷住吉神社と合祀して布市神社と改めた。

 

 獅子頭 一頭

 

 製作年代は江戸時代と伝える。獅子頭一式を納めてある長持には、新製明治三十一歳荒町所有

 製作者は不詳 材質は桐

 本体の高さ四十七センチ。 角二十三センチ。 總高さ七十センチ。前幅五十八センチ。後幅七十三センチ。奥行五十五センチ。耳の長さ三十五センチ。耳の廻り五十二センチ。本体に耳を取り付けると幅一メートル 眼横二十センチ縦七センチ。鼻の幅二十五センチ。高さ十三センチ。鼻の穴四,五センチ。重さ十二キロ

 

 獅子頭 一頭

 

  桐材により前の獅子頭と同じものを製作。平成14年9月16日入魂式。

  製作者 白山市鶴来町八幡木彫師 知田清雲

 

 蚊帳(カヤ)

 長さ十米三十三センチ

 蚊帳は麻布地で中央前に牡丹が描かれている。横幅二米四十五センチ縦二米五センチ「尾」の長さ二米五センチ朱色に麻を染めた。蚊帳は昭和三十年頃(一、九五五)新調した。古い蚊帳は頭の飾付けに使用している。

 

 

本町三丁目(旧中町)

 

 この旧中町は布市神社である。棒振りは一人棒、薙刀、二人合せ(太刀と薙刀と小刀)が演じられ獅子を退治します。旧中町住人山口正治氏は、金沢市有松町の橋爪与一郎氏(昭和二十八年歿)八十三才に習った。橋爪与一郎氏は、町田半兵衛流派を学び戦後は棒振りの名人として知られた。

 

 赤獅子頭

 

 製作年代は江戸末期と伝えられる。材質は桐、赤に染めた革張りである。

 製作者 不詳

 本体の高さは二十九センチ 角は十七センチ金鍍金 總高さ四十六センチ 本体の幅四十二センチ 奥行四十八センチ 耳の長さ二十一センチ 耳の直径十一センチ 眼横十七センチ 縦七,五センチ 鼻の横二十四センチ 縦十二センチ 鼻の穴八センチと大きい。

 

 蚊帳

 麻布地で牡丹模様が描がかれている長さ十米三十三センチ横幅二米四十五センチ旧荒町と同じ

 

 獅子頭

 

 製作年代は慶応二年頃(一、八六六)材質は桐、口の中は朱塗り、金歯である。

 製作者は金沢市材木町住人宮大工伝吉作と伝える。

 明治三十年(一、八九七)の秋祭りの件で町内が爭ひ二派に分かれた。そのため獅子頭が破損した。その後獅子頭が古物商の手に渡ったが、当時の中町区長瀬尾永次郎氏が町役と相談して再度購入した。

 当町の鹿島、釜両氏の大工に復修を依頼し復元した。翌年の明治三十一年(一、八九八)秋祭りに獅子舞奉納を挙行した。

 本体の高さ四十七センチ 角二十センチ 總高さ六十七センチ 前幅六十一センチ 後幅七十四センチ 奥行五十四センチ 耳の長さ三十センチ 耳の直径十八センチ 本体に耳を取り付けると七十四センチ 眼横二十センチ 縦八センチ 鼻の幅二十七センチ 高さ十三センチ 鼻の穴四,五センチ 重さ十二キロ

 

 蚊帳

 麻生地で十米三十三センチあり、胴体の中央頭に牡丹模様が描かれて巨大なものである。横幅二米四十五センチ縦二米五センチ「尾」の長さ二米五センチ朱色に麻を染めたものである。

 

 

本町四丁目(旧西町)

 

 この町の棒振りは一人棒、二人棒薙刀と棒、棒と太刀とが演じ獅子を退治します。

 現金沢市泉町泉八幡神社に伝わる町田半兵衛流のワタリトンボを金沢市泉町住人海道嘉一氏から習ったものである。この流派の伝承を戦後当町の前田憲十郎・徳野米章両氏の指導を伝承している。獅子頭の舞いは佐々木流と西野正一氏から指導を受けた。

 旧西町の氏神は、第十三代富樫家春が建久の頃(一、一九一)西表田圃八幡田の地に創建された。

 「照日八幡神社」祭神の天照大御神・春日大明神・応神天皇の三柱なり。神社名は天照の「照」と春日の「日」応神天皇の「八幡宮」を撰いて照日八幡神社と稱せり給う。

 天正八年(一、五八〇)一向一揆と区域大改正の際に、鶴来街道西側の地、現本町四丁目十六‐三の地に遷座し給ふ。

 大正三年(一、九一四)十一月二十日、照日八幡神社が富樫郷住吉神社と合祀した。建久の頃(一、一九一)から大正三年(一、九一四)まで、およそ七二三年の長き亘り西町の氏神として敬神給ふ。

 今この跡地の石標柱は、舘八平が後世に残すため建てた。

 

 獅子頭

 

【本町4丁目獅子頭(夫婦獅子・雌)】

 獅子頭の材質は桐。この雌獅子、目は八方を睨み、口の中は朱塗り、歯は金箔を貼ってある。

 製作年代 明治二十四年頃(一、八九一)

 製作者 金沢市大樋町の住人荒木八郎乗寛

 

 本体の高さ四十二センチ 角の高さ二十一センチ直径二十センチ 總高さ六十三センチ 本体の横幅四十八センチ五 奥行六十二センチ耳の長さ四十五セン直径二十五センチ 本体に耳を付けると一米十センチ 眼の横幅二十一センチ縦七センチ 鼻の幅十八センチ 鼻の穴四センチ 重さ十九キロ

 

 蚊帳

 蚊帳は麻布地で中央前に牡丹が描かれている。横幅二米四十五センチ縦二米五センチ「尾」の長さ二米五センチ朱色に麻を染めたものである。

 

 この獅子頭の由来について確かな記録は残っておりませんが、伝えによると明治二十三年(一、八九〇)頃、犀川の大洪水のときに現金沢市千日町かいわいは竹薮であり、そこに大きな桐の根っこが流れついた。その根っこで現金沢市大樋の住人木彫師に獅子頭を造ったと伝えられ、現在百年の歴史があります。

 大樋の木彫師を多年に亘り調査していたところ、加賀藩に召し使いの木彫師荒木八郎乗寛であることが玉川図書で判明した。

 明治二十八年(一、八九五)日清戦役、明治三十八年(一、九〇五)日露戦役の戦勝記念に獅子舞を神社に奉納したと伝えている。

 伝えによると雄獅子が金沢市米泉町にいると聞いていた矢先平成六年(一、九九四)四月二日北国新聞に米泉の獅子舞復活と記事が出たので米泉町浦信雄公民館長へ連絡して平成七年九月五日雄獅子と対面出来た。夫婦獅子である。

 

【金沢市米泉町 獅子頭(夫婦獅子・雄)】

 

 獅子頭

 

 材質は桐 目は真鍮 口の中は朱塗りで歯は金箔張り

 製作年代 平成四年九月

 製作者 木彫師 知田清雲 石川郡鶴来町八幡町

 本体の高さ六十三センチ 前幅四十九センチ 角二十二センチ 奥行六十六センチ

 

 

粟田町

 

 この町の神社は豊田日吉神社である。九月二十三日の秋季例大祭である。

 若連中の獅子頭を持つ者は十五人交代で頭を舞ひ、いづれも蚊帳の外に位置し、頭持ちは豆絞りの手拭を鉢巻して赤色の法被(懸帯)を着用し、黄色の帯に黒色の懸帯前を付け白地の股引に白足袋を履く。

 棒振り子は小学校生徒から中学校生徒青年団と四十人で構成している。

 太鼓、三味線、笛各十名づつ子供が一ヶ月の練習をして祭りに披露する。

 粟田町の若連中十数名が金沢市地黄煎町に住む無拍子流一伝流師範の町田半兵衛に師事修行ののち門弟となる。水野一伝流を伝授し今日まで継承されている。

 

 獅子頭

 

  材質は桐 白革張りである。口の中は朱塗り 歯は金張り

  製作年代 江戸時代末期と伝える

  製作者 不詳

  本体の高さに角を付けると六十七センチ 前幅に耳を付けると六十七センチ 奥行三十七センチ

 

 蚊帳

 麻布地に牡丹と巻毛模様で本町の蚊帳より小型のようである蚊帳に円型の管を十本入れて車の四輪本台にのせて動く様に簡素化している。「尾」は麻に朱色に染め三米の直竹の先に取り付ける。

 

 

中林町

 

 この町の神社は中林春日神社である。毎年九月二十三日秋季例大祭が行われています。

 獅子の頭持ち十人が交代で頭を舞ひ、いづれも蚊帳の外に位置し、頭に豆しぼりの手拭を鉢巻をして、赤色の法被(懸帯)を着用し白股引に白足袋を履く。

 棒振りは一人棒・二人棒・薙刀・太刀・尺八無手鎖釜で演じ獅子を退治します。棒振りは頭に「シヤンガン」(馬の毛で出来たもの)を被る。刺子に袴に白足袋・袴は水玉模様とワタリトンボのものを着用する。手にはコテ、足には襷はん白足袋を履く。

 明治初期に金沢市地黄煎町住人町田半兵衛に師事し、水野一伝流を学んだ西村清太郎氏が中林に道場を開いて村人を集め教授した。更に山本紋兵衛が新たに四武川流(無手)戸田流(棒)を組合せて今日の剣踊の形にしたと伝える。

 

 獅子頭

 

  黒漆塗り 材質は桐

  製作年代 明治二十三年頃(一、八九〇)

  製作者 金沢の住人 山本喜六作と伝える

  本体の高さ三十七センチ 角十三,五センチ 本体の前幅に耳を付けると八十二センチ 奥行五十三センチ

 

 蚊帳

  蚊帳は麻布地に牡丹と巻毛模様で粟田町に順じる。蚊帳に胴張りの丸銅といって鉄の輪を五本入れて胴を張る。

 

 獅子頭一式の保管

 各町内の有志宅の土蔵に獅子頭一式を保管されている。毎年七月の土曜の日に虫干が行ない。次回に備えて点検する。

 獅子の出ない年は町内の有志宅を借りて獅子頭一式を飾り正面に清酒と紅白の鐘餅をお供えする。祭りが終ると紅白の鐘餅を切り町内全戸に配りごあいさつとお礼をする風習が残っております。

 

 

■豊年みこし

 

本町二丁目(旧一日市町)

 

 豊年みこしは、別名「豊年野菜みこし」と呼ばれています。十月十四日布市神社の秋季例大祭で、本町一丁目・三丁目・四丁目の獅子舞の出る年には、この「豊年野菜みこし」が繰りだします。

 豊年野菜みこしは明治の初め頃、天災と病虫害のために、豊作物に大被害があり、農民が非常に困った年が続いた。そこで有志が相談して農作物で「みこし」を造り、氏神様に献上して五穀豊穣をお願いすることになった。色々工夫して出来たのが、現在の「豊年みこし」である。

 この「豊年野菜みこし」は、六角で屋根は六十キロの稲穂で葺きあげ、棟の部分は太いローブ先端を円とする、その上に大きな鳳凰が飾られる。鳳凰の頭は栗のイガラ シヨウガ、トサカは新シヨウガの茎付、口先は大根、羽は藁ホーキ、尾はススキ、首は栗のいが、胸毛は草木を使ひ、両羽根は藁箒を約四十本交互に重ねる。尾はススキと草木を使用する。その雄大さは見事である。

 屋根下タルキ、開き戸、欄干等は藁縄で巻き、ミカン、柿で飾る。鳥居はレンコン、欄干の擬宝珠には玉葱、神様を祀る開き戸には加賀国司富樫宗家の七曜星紋を茄子で現し、その下にトウガラシ、ツル豆等で飾る。

 また戸の中央上の両側に、藁箒を一本宛て飾り、稲穂を下げる。屋根下角に瓔珞ヨウラクにツル豆、トウガラシ、ナツメ、栗をトクサと交互に挟んで瓔珞とし六ヵ所に下げる。

 製作には約二ヶ月を要し、みこしの周囲はほとんど藁縄を巻き固定する。重量は五百キロを越える。全国に例を見ない豪華自然美のある優れたものである。

 また故事に習い、農作物を荒らす獣・鳥・虫を退治するのに刀、弓、鉞等を使って踊りを神様に奉納したのが「弥彦ババ」の始まりである。

 「弥彦ババ」の前を烏帽子に白い衣を付けた子供に二名が、各家に榊でお払いして歩く豊年みこし」と「弥彦ババ」は不離一体である。これが若連中から若連中へと伝え継承されて今日に至っている。若連中の「ワイシヨイ。ワツシヨイ」のかけ声が聞えそうである。

 

 かけ声言葉

 お祭りにおみこしを「山」とか「神輿」といい、若衆がおみこしをかづく、そのかけ声が「ワツシヨイ・ワツシヨイ」という。この言葉は古来朝鮮語で「きました」「往来する」「おみこしが来ました」「サアーお参り下さい。」という意味である。

 七尾のお祭りに「デカ山」という車を引く時に「エンヤ」とかけ声をかける、又山から木を伐り出したときに「エンヤ」と力を出す声が聞こえる。漁港の漁師が船を引上げる時「エンヤ」と押している。

 かけ声に「セーノ」がある。多数の人が一度に力を出して重いものを動かす声である。

 日本語でのかけ声は「イチニノサン」「一二ノ三」とか「ソーレ」とか呼吸を合わせる時に出すかけ声である。

 昭和十六年(一、九四一)まで日本国文部省が発行した、尋常小学校の国定教科書に「桃太郎の鬼征伐」のおとぎ話がのせてあった。桃太郎が鬼を退治して戦利品を車にのせて積んで帰るところの場面が絵になっていて、犬が引出す「エンヤ ラヤ」、猿があと押す「エンヤ ラヤ」となっている。これも古代朝鮮語の影響が日本人の中に浸透しているのではないだろうか。

 

 

 

 

中囃子長唄

 蚊帳の中に入って囃子唄う。金沢の西廓の芸奴 野々市の西町六日町の茶屋街廓の芸奴で太鼓打ち二人と三味線三人芸奴頭一人、町の若衆四人が着物姿で笛を吹く。芸奴の長唄に合せて町中を歩く。獅子舞には芸奴の囃子が欠かせないもので、情緒があったが時代の変遷と共に困難になった。

 昭和五十年(一、九七五)頃から録音テープに収録して獅子舞に使うようになった。

 

 

本町一丁目(旧荒町)

 

 梅が枝

 (1)梅の殿だちさん 櫻はおなご 

  いつも色ある 盛りの花よ

  くるくる廓の 五条町

  舟を四つ手に早めて 昨日おうた

  打つや甚句の 鼓の調べ

 

 (2)小さい時から 二親に

  別れて苦労を するわいな

  身は高山 石道路(石灯籠)

  今は主さんに 供されて

 

 (3)梅がえの

  鶯ならば 飛びちごう

  中に梅田の 縁を引く

  酒に浮かれて うめがさしね

 

    (1)は荒野幸一氏 小川幸吉氏による

       北市信夫氏 蚊谷辰夫氏による

    (2)は木津謙吉氏 小川幸吉氏による

 

 

本町三丁目(旧中町)

   安宅

  安宅の二上りの分 合の年は御所車

  さても見事にな・・・

  降って降るりこむ 花櫓は雪か

  あらぬか ちらちらちらと 白鳥毛

  台傘立傘 恋い風に靡かんせ

 ずんと伸ばして しやんと受けたる 柳腰

 

     荒木幸夫氏による

 

 

本町四丁目(旧西町)

   安宅

  在所ながらも 見んない島がござる

  相模おなごの 笑顔もよしや

  振り袖の模様は 浜の貝づくし

  三籠拾うて みるくさの

  ふりさきみれば まるまるまんと

  月も宿借る 武蔵野の

  空もどとつに ちぎりこし

 

     西野正一氏による

     嶋田良三氏による

 

 

粟田町

   安宅

 (1)裏の押し戸や 今年竹 しようがいな

  笛になりたや 草笛に あゝしようがいな

  笛に思いを 口移し あゝしようがいな

 

 (2)もまれ もまれて たちつくし

  あれして これして しようがいな

  雪に夜毎に 潮風に しようがいな

 しのぶ その身は 安宅の松

 

     香城 覚氏による

 

  各町内共通の唄は

  オツピキ ダイサン ノーエ オツピキ ダイサン ノーエ

  シンガ サイサイ ドドシシ オツピキ ダイサン ノーエ

 

 

 

野菜神輿の唄

   本町二丁目(旧一日市町)

  (1) 見たか聞いたか 野々市の神輿

    三重やぐらの天井に

    ススキの孔雀が踊るわいな どんどん

 

  (2) 見たか聞いたか 野々市の神輿

    屋根の稲穂が黄金(こがね)に

    光り輝きゆれるわいな どんどん

 

  (3) 見たか聞いたか 野々市の神輿

    縄の回廊(かいろう)に鳥居のレンコン

    玉の擬宝珠(ぎほうじゅ)が光るわいな どんどん

 

 

 参考:

 野々市町の獅子舞

独学・ふるさとの歴史研究