2001年(平成13)に行なわれた発掘調査により、奈良・平安時代の村の跡や江戸時代から明治時代の川跡が確認されています。
奈良・平安時代の村跡は、竪穴(たてあな)住居跡(じゅうきょあと)3棟、掘立柱(ほったてばしら)建物(たてもの)跡(あと)2棟が密集(みっしゅう)する居住(きょじゅう)地区(ちく)、小穴が密集する地区、側溝(そっこう)2本が並行する道路状遺構から構成されていました。その東側には幅8mほどの川の跡があり、多数の土器が捨てられています。小穴が密集する地区からは、火を焚(た)いた跡が2箇所検出され、その付近からは砥石(といし)や鉄砕(てっさい)が出土していることから、この場所で小鍛冶(こかじ)が行なわれていた可能性があります。
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建物跡集中区
小穴集中区
道路状遺構
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遺構配置図
発掘された江戸時代から明治時代の川跡は、現在の木呂川の前身にあたるものです。この川跡の底からは、多数の陶磁器類(とうじきるい)とともに3.8m×1.8mの木組(きぐ)み遺構(いこう)が発見されました。木組み遺構は川底を約20cm掘(ほ)り窪(くぼ)めたなかに据えられていました。埋めて設置されていた状況から何らかの水利(すいり)施設(しせつ)である可能性が高く、水車(すいしゃ)あるいは水門(すいもん)の土台と考えられています。
木組み遺構
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