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D11●粟田(あわだ)遺跡(いせき)
粟田地内
ののいちガイドマップ
 粟田遺跡では縄文時代の終わり頃から弥生時代初め頃の打製(だせい)石斧(せきふ)(斧(おの)状の石器で、地面を掘る鍬(すき)の先として使われたと考えられています)の製作場所が発見されており、地面に多く残された川原石を利用した、道具作りの場であったことがわかっています。

 周辺は、手取川(てどりかわ)扇状地(せんじょうち)であるため地下水位が低く、地面にも川原石が多く含まれる土地柄です。そのせいか、弥生時代・古墳時代には水田の開発が困難(こんなん)だったようで、その頃の遺跡は見つかっていません。

 人が住んだ痕跡(こんせき)が増えだすのは奈良時代・平安時代に入ってからです。粟田遺跡ではこの時期の住まいである竪穴(たてあな)住居跡(じゅうきょあと)や掘立柱(ほったてばしら)建物跡(たてものあと)が多数確認されており、発掘調査の結果から、規模のやや小さめな村が点在していた状況が推測されています。(本1)

 鎌倉・室町時代になっても、村は時期によってその場所を変えながら継続していたようで、竪穴(たてあな)や、竪穴を伴う掘立柱(ほったてばしら)建物跡(たてものあと)などが確認されています。

 江戸期には、周辺で現在まで続く粟田・藤平・藤平田・三納の村が成立しています。しかしその様な中、洪水などの被害が多く廃絶した村もありました。言い伝えによると、旧(きゅう)粟田村は江戸時代以前には存在していましたが、住みづらくなったためか住民が粟田新(あわだしん)保村(ぼむら)(現在の粟田)へ移住し江戸時代初頭には無くなったとされています。(本5)1999年(平成11)の粟田遺跡の発掘調査では、この旧粟田村にあたると思われる場所が発見されました。用水で区画された中に、居住地を作っていたものらしく、遺跡からは当時の陶磁器類(とうじきるい)などが出土しました。文献(ぶんけん)でも窺い知ることのできない、当時の人々の暮らしを研究するための貴重な資料と言えるものです。


旧粟田村推定地地籍図


遺構配置図(現地説明会資料)


出土した近世陶磁器


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