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==第二節 郵便と電話==

 

第二節 郵便と電話

  古代にも飛駅という通信の制度はあったが、一般の人びとには縁のないものであった。

  藩政時代になって飛脚制度が出来て、ほとんどの通信は飛脚によって運ばれた。加賀の国でも三度飛脚、定飛脚、金飛脚、足速などの種類があり、手紙の内容に応じて飛脚が出たらしい。

  金沢と江戸の間を月にだいたい三度往復し、その速度によって速飛脚、中飛脚、常飛脚にわけて名称がつけられていた。金沢~京都間も同様であった。

  加賀の三度飛脚は一般大衆も利用するところとなり、非常に感謝、信頼された。しかし、当時は江戸・京都・金沢などの地には各戸配達がなく、数日も放置されていた。江戸時代の末期頃から江戸・京都などでは届いた書状の配達業も出来て便利になった。

  明治六年に官営の郵便制度が確立された。野々市に初めて郵便を取り扱う集配郵便局が設置されたのは、明治三十六年十二月である。富奥地区はこの時、野々市郵便局の配達下に入った。さらに大正六年十月には電報配達業務も開始され、富奥村も受持区域に入った。

  しかし、その後郵便と電報の配達は、金沢市野町郵便局の区域に変更されて今日におよんでいる。

  電話が初めて富奥村に設置されたのは富奥村役場で、昭和四年四月十一日である。野々市局に初めて電話交換業務が開始された時である。電話番号は野々市局「五〇番」であった。初めての電話開通で村民はみな驚き、心からこれを喜んだ。

  昭和十八年十一月一日、無集配特定郵便局が粟田に、富奥郵便局の名称で設置され、郵便、電信、電話、為替、貯金、保険、年金の業務を開始した。

  昭和三十年三月に野々市町との合併が決まった時、この機会に各字に電話を設置することになった。それより二、三年前、富奥村にこれからの農村の発展策の一つとして有線放送電話の設置の話が起こり、他町村や他府県の有線放送の施設の見学をしたり、業者を招いて説明会を開くなど、相当話が進んだ。だが、結論として公社の電話設置が利用価値から判断して有利であり、得策であるとのことで有線放送電話はついにまとまらずに見送られた。

  そこで協議の結果、多数共同電話を設置した。

  富奥村では合計四十八個の電話が取りつけられた。なお、この時のケーブルの加入者負担金首三十万円は農協が引き受けた。

  工事が完了して小学校で祝賀式を挙行した時、列席の石川電気通信部長がその祝辞の中で、富奥村の電話普及率は石川県では第二位であるといわれたことは記憶に新しい。しかし、多数共同電話は種々の不便さがあって不満が出てきた。

  なお、昭和八年九月頃、富奥農協に初めて電話がついた。農協電話は松任局の電話であった。これは富奥農協が石川支所の区域内にあった関係から、当時の中奥村の役場の方からななめに清金・中林地内に柱が敷設されて農協へ入っていた。昭和三十年四月には野々市電話も設置されて、富奥農協は松任局と野々市局の二つの電話があるということで、心ひそかに当時は自慢に思っていた。

  昭和四十年に電話が自動交換のダイヤル方式となり、画期的な新しい都会的電話となった際に、富奥村も全戸数に電話が取りつけられて、一〇〇%の普及率となった。

 

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富奥郷土史