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第十四章 道路と交通
(第三節 運送手段)
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==第三節 運送手段==

 

第三節 運送手段

  昔の運送はほとんど背中にかつぐか肩にかつぐかして運んだようである。伏見川を舟で逆のぼって石灰やニシンかすなどの物資が運ばれ、さらに小舟で粟田の木呂川あたりまで運んだとも聞いているが、ずい分昔のことだろう。稲なども、太い棒の両端に結びつけて、棒を肩にかついで運んだものである。女達は背中あてといってわらで編んだものをつけて、稲を背負ったのである。明治四十年頃から金属の車輪をはめた荷車が登場、運送作業の負担を大きく軽減した。が、なんといっても金属の車輪なので道路ではガラガラと大きくきしんで音がするのと、少し荷物を多く乗せるとかなりの重労働であった。

  大正になると自転車が登場してきた。荷物運送と交通に革命をもたらしたといってもいいだろう。大正五年の富奥村村勢一覧表には、

   自転車三六両  荷車二二三両  荷馬車五両

  となっている。自転車はよほど裕福な農家でないと当時は持てなかったようである。さすがに荷車はほとんどの農家にあって、購入出来なかったのは純小作農家だけでなかっただろうか。やがて昭和五年頃から荷車の車輪がゴム輪に変わった。続いてリヤカーが登場し、自転車に至っては一戸に一台は普及して、運送と交通は画期的な時代となり農作業の労働も大きく軽減されてきた。松任町などへゴム荷車で石灰取りや肥料取りに出かけるようになった。

  昭和八年に改良和牛が導入されてからは、和牛用の車が考案され、和牛によって米の運送や肥料の運送をするようになった。が、ときには和牛が暴れてずいぶん苦労したこともあった。

  自転車の後ろにリヤカーを取りつけて運送するようにもなって、つくづく便利のよいのを喜んだものである。

 一、自家用自動車組合の結成

  昭和二十七年頃まで荷車とリヤカーと自転車の時代が続いた。この頃から自転車に「BS」とかいう小さなモーターを取りつけて、ペダルをふまなくてもモーターの力で自動的に動く自転車が登場してきた。いよいよ交通は自動車時代を迎えたのである。自転車にモーターを取りつけたものは当時わが村に十台ほどあっただろうか。昭和二十八年十一月にわが富奥村にもついに三輪車が八名の人によって購入され、村人達も目をみはったものである。三輪自動車購入者氏名は次の人達である。

  上新庄 西尾 忠 (マツダ)  上新庄 上田外雄(ダイハツ)  清金 五香益喜(ダイハツ)

  清 金 上野由雄(ダイハツ)  太平寺 平野 正 (マツダ)  下 林 新森 晃(ダイハツ)

  矢 作 山原 僖 (マツダ)  上 林 小林信好 (マツダ)

  以上の人達によって昭和二十八年十一月下旬、富奥自家用自動車組合を結成し、当時の駐在所細川巡査の臨席を得て、富奥校庭で記念撮影もしたのである。いまにして思えばおかしいくらいだが、当時八名の者は張り切ってまさに意気天をつくといった感じだった。農協の秋の米運送は一手に引き受け、一日に一台で十七、八回も農協へ運んでそのスピードぶりを発揮したものであった。

  自家用自動車組合がやがて現在の富奥交通安全協会の前身となった。また、松任警察署管内では最初の結成でもあった。

  自家用自動車組合歴代会長

   初代会長 上田外雄 二代会長 五香益喜 三代会長 西本敏雄

  こうした間にも次第に乗物はスピード化され、原付自転車も普及し、やがてバイクの時代となり、スクーターなども購入されるようになった。

 

 

 二、富奥交通安全協会

  三輪自動車がものすごい勢いで増加し、原付自転車やスクーターなども増加したので、安全を図り、事故を起こさないようにと協議の上、昭和三十三年に富奥交通安全協会(会員組織)が発足、松任警察署管下の安全協会に加盟した。そして会員の事故絶滅と安全のため、各字に幹事を選任して会の運営を図ってきたが、その間にも普通乗用車や軽トラックなどが急速に増加していった。

  昭和三十四年十月に原付バイクとスクーターの運転免許証取得のための講習会と試験を実施した。原付自転車は免許申請手続きだけで取得出来る。法規の改正きり替えのため、全会員に通知したところ男女合わせて二百四十六名もの申請があり、松任警察署係官の法規講習を受けて免許証取得が出来た。また、スクーターの免許試験は一週間の講習を受け、県の係官による免許試験が富奥小学校で行われ、六十三名が受験し、ほとんど全員が合格した。

  こうした安全協会の仕事が次第に理解されて、後に普通自動車が一戸に一台以上普及される頃の免許取得に大きな役割を果たした。

 

 

 三、交通安全協会富奥支部と改称

  自動車免許取得者が毎年続々と増加し、自動車も驚くほどのスピードで普及し、そのために自動車事故も激増し、人命の危険も身近に迫ってきたので、安全対策として松任警察署でもこれまでの安全協会を改めて、昭和三十七年に松任地区交通安全協会として管内各地区をまとめて会費制とした。富奥村でもこれと歩調を合わせて昭和三十七年に再び会を再編成して、ここに松任地区交通安全協会富奥支部として新しく時代に対処すべく陣容を立て直して発足した。各字や重要な箇所には安全標識を設置するなど、少ない経費で安全対策に取り組んできた。以来二十年を経過し今日では自動車は生活のための重要な一部となり、わが村では各家に普通自動車一台、軽自動車二台くらい持つことが常識のようにまでなってしまった。同時に道路も前記のようにほとんど拡張舗装された。

  ちなみに昭和二十八年のわが国の自動車台数は十三万余台であったが、昭和四十八年にはその台数千三有余万台と実に百倍という成長発展ぶりである。わが富奥村もその普及率は驚くべき数字である。半面その裏には昭和四十八年までの二十年間に交通計故による死者は二十四万人、負傷者の数は九百三十五万人余りという記録となっている。富奥村でもやはりこれまで数人の方達が交通事故のいたましい犠牲となっていられる。自動車事故を一度起こせば今日ではその賠償などで家庭は破滅し、財を失うことを肝に銘じなければならない。

 交通安全協会富奥支部歴代役員

  初代支部長 上野由雄(昭和三三年〜四六年) 二代支部長 西本敏雄(昭和四七年〜四九年現在)

   松任地区交通全安協会 理事 上野由雄(昭和三三年〜四六年) 監事 五香益喜(昭和三〇〜四六年) 理事

   山本茂喜(昭和四一年〜四六年) 理事 西本敏雄(昭和四七年〜現在) 理事 藤多 俊(昭和四七年〜現在)

   監事 中村憲造(昭和四七年〜現在)

 自動車台数調 (昭和四八年六月、交通安全富奥支部調)

   普通トラック四、普通乗用車三二八、軽乗用車・軽トラック二二五、バイク四五、計六一二

  この他に農耕用だけの自動車も数十台はあるだろう。また新しい住宅団地の自動車台数を入れると倍以上になるだろう。旧富奥だけだと一戸に二台〜三台となる。




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