<<前へ  2  次へ>>

富樫氏
  
 北陸武士団の祖と仰がれ、鎮守府将軍藤原利仁の後裔(こうえい)家国が加賀国富樫郷に居住したのが加賀における富樫氏の始まりと伝えられています。
 平安時代後期以後、富樫家の当主は任用(にんよう)国司を世襲(せしゅう)し、代々「富樫介」を称して国務に携(たずさ)わる一方、伏見川流域周辺を中心に再開発につとめ、加賀の有力武士団としての基礎を固めました。
 源平合戦では富樫仏誓(ぶっせい)(家経(いえつね))の名が知られ、鎌倉時代には、守護北条一門の代官として、守護の実質的執務を行い加賀における治世上の基礎を築き上げました。
 富樫氏が名実ともに加賀の守護職の地位を得たのは南北朝時代からで、野々市に守護所を置いて以来、地元出身守護の苦悩を味わいつつ、領国経営に努力しました。こうした富樫氏の活躍は、やがて謡曲(ようきょく)「安宅(あたか)」や歌舞伎(かぶき)「勧進帳(かんじんちょう)」に見られるように仁・義・勇ある守護として世に名声を高めました。
 富樫氏は、累代地元本位の政治を行い住民の信望を集めて継承(けいしょう)しましたが、長享(ちょうきょう)二年(一四八八)六月、政親(まさちか)が一向一揆のために高尾城で敗死し、富樫氏の加賀の支配が終滅しました。
 この間、野々市は中世における政治・経済・文化の中心地で、加賀の雄都として繁栄しました。