余寒の残る3月上旬、庭の沈丁花が紫の莟を開きはじめる。艶のある葉色や小振りな花もさることながら、一面にただよう花の芳香がなんとも心地よい。
「松任から金沢まで、北鉄の電車が走っていたそうですね」
「松金線のことだね。私の小学高学年、丁度篤志君くらいのころかな、近所の中学生に連れられて兼六園へ花見に行く時などに乗っていたよ。昭和30年4月、旧野々市町と富奥村が合併しているんだが、同じ年に廃線となりバス運行に変わっている」
「どんな電車だったんですか?」
「貴重な写真が、町史に残されている」
「大きな箱みたい・」(笑)
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☆松金線が廃止されたのは、昭和30年10月15日です。写真はもう終わりに近いころに蓮花寺の入り口から現在の国道八号線三日市の陸橋の所を横切るもの。座談会では、さらに三氏の発言が続く。
[I]:松金線は私たちが金沢の学校へ行っていた時分は、まだ、金沢の兼六園下が終点だった。その後に野町駅が終点になった。[S]:一番長いときは、松任発で小立野まで行っておったことがある。その期間は暫くで、昭和ひと桁の頃には車庫前といって、公園下まで行くのが松金電車だった。[H]:その頃は有松を通っていたが、終戦直前の昭和19年ころ、西金沢まわりになった。☆ [注1]
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「石川線で、最近鶴来駅から加賀一宮までの一部区間が廃線になりましたね。松金線もやはり利用客の問題だったのですか」
「いやそうではなく、モータリゼーションへの一側面だろうな」
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☆それから国道の問題ですが、松金線の廃止が決定されなかったので、松任、金沢間が現在もなお未完成。先般松金線廃止が決定したのでこの国道の着工もぜひ早急に実現したい。☆ [注2]
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「当時の兵地町長の発言からも窺えるが、のろのろ走る軌道電車よりは車が走れる広い道路へと、社会の要請が向かっていたようだ」
「廃線のいきさつは分かったのですが、いつ頃から松金線は利用されていたんでしょうか?」
「そこは私より、もう少し上の年代の方でないと分からない」
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☆松金電鉄は、大正5年3月に開業。押野丸木、野々市、野々市西口、太平寺、三日市(稲荷〕に停留所をおいた。☆[注3]
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「営業は、約40年間だったのですね」
「まだ、その前身があるそうだ」
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☆松任の八ッ矢と金沢の野町間の旧北国街道沿に馬車鉄道が開通したのは、明治37年(1904)6月である。二本のレールの上に台車を載せて馬が引っ張るというものだった。車両14台と馬19頭が常備され、午前6時から午後5時40分まで、40分ごとに走っていた。(中略) この鉄道馬車は12年間続いたが、大正5年松金電車の開業で役目を終わっている。☆ [注4]
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「北国街道に沿った馬車鉄道から電車の線路が町並みの北側へ、さらにそこが国道の拡幅で廃線にと、50年余でまちの様相がおおきく変転してるんですね。」
「まるでタイムマシンにのっているみたい」(笑)
(2010.5.17)