「虫送りは、篤志くんも行くよね」

 「幼稚園のころから、たいまつを持っているよ」

 「今は、揃いの法被など衣装にもこっているが、40年くらい前の状況が記録されている」

 

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 ☆夏の日のたそがれが迫るころ、合図の花火が打ち上げられると、各部落では準備された子供達のたいまつ(昔は束ねた薪であったが、のち青竹の中に石油で浸した布を詰め、現在は青竹の先端に布を詰めた空き缶をつるす)に火が移され、青年達が大太鼓を威勢よく打ち鳴らす。東西南北四線の道路には、それぞれ数部落の太鼓とたいまつが連なり十文字型に中心部へ向かって行進する。集結点の会場中央の大かがり火に火が入ると、十四の大太鼓が一斉に会場になだれ込み、競い打ちとなる。☆[注1]

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 「季節の衣装などは違っても、行事の大枠は同じですね。ところで虫を送るという意味なんですが?」

 

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 ☆呼び名のとおり、水田の害虫駆除が目的で始まったらしいが、その発祥起源は明らかでない。昔から本村では盛夏土用入りころの7月20日に決められている。☆[注2]

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 「もっと、具体的な記述も最近みつけた」

 

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 ☆年中行事っていうと、「田の虫送り」ってのがありました。これはね、まだ稲の花が咲いている時分ですワ。害虫をタイマツの火で焼くんですな。(中略)竹を割りましてね、中へワラを入れて、縄でところどころ縛って、一間ぐらいの長いタイマツをこさえるんです。ほいで、それに火つけて、田のぐるりを回りながら、こういう風にして田をこすってましたで、そのタイマツで。ええ、自分の田だけをやって、そいで最後に、村の端くれの一ケ所に皆が寄って、そこで余ったやつ全部燃やしまんネン。そうすると、虫がぎょうさん飛んできて、火の中へバタバタ落ちてましたがね。☆[注3]

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 「この辺だけの行事ではなく、関西でも同じようなものがあったのですね」

 「殺虫剤など農薬が普及してからは、害虫を駆除するという意味は失われ、当地でも青年団活動の衰退に伴い一時は断絶しかかった」

 「行事そのものが、途絶えたのですか」

 「そうだよ・。だが、年配者の熱意から、どうにか行事は復活したが、農業との関連より、近年は夏の風物詩という側面が強調される催しとなっている。」

 「子供たちを中心に、参加者が多く、楽しみですわ」

 「発祥起源は分らないという郷土史の記述を紹介したが、最近その答えになりそうな文に出会った」

 「聞きたいわ」

 

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 ☆近世の村人の生活空間を、ムラ(集落・定住地)、ノラ(田畠・耕地)、ヤマ(林野・採草地)という三領域に分け(中略)。ムラには氏神(うじがみ)、ノラには野の神や田の神、ヤマには山の神といったように、それぞれの領域に固有の神が存在し、神を祀る行事が行われていた。各領域に関わる民俗行事――たとえば、害虫からノラの領域を守るために、ノラのはずれまで行列を作って、虫をノラの外に送り出す虫送り・・☆[注4]

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 「長く続いている行事には、表面に現われているもの以上に深い意味が隠されているようだな。その辺が文献にあたる醍醐味でもあるのだが・」

 「伯父さんらしいわ」

 

【参照「TOMIOKU」 -60-】

 (2011.6.20)

 [注1]「富奥郷土史」―933―

 [注2]   同    ―931―

 [注3]藤本浩之輔著「明治の子ども遊びと暮らし」-253-

 [注4]坂田聡ら著「村の戦争と平和」-99-

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