柘榴・プラム・洋梨少し離れて欅と、どの木も4~5mくらいの丈だが、競いあうように枝を伸ばしている。その繁みの重なりは、緑の翳とでもいえる木の下闇となってひそやかな気配が漂っている。

 

 「何から話せばいいのか、郷土史に関わる疑問は調べるほど増えてゆくのでね」

 「なにについてもそれは言えることだが、外からでは野々市は富樫一色に染まっているように見えるのだが・」

 「だけど、とがし富樫と喧伝されているわりには、館跡以外に具体的な姿というか、治世上の実績などが分らない」

 

 季節は6月も半ばになって、濃さを増した緑の葉を揺らして時折吹く風が頬に心地よい。石張りのテラスに置かれたテーブルを囲み、三人はそれぞれ資料やメモを手にしている。

 
 

 苦笑い気味の表情で、

 「虚構の人物ながら富樫左衛門尉の登場する歌舞伎は、小松市にお株を奪われ、富樫一族の末期は一向一揆の仇役として、歴史上僅かにその名をとどめるだけ・。小学校卒業だけの学歴で、古文書を渉猟して大部の資料集を残した館残翁以降、当地の郷土史に関心を寄せる人たちは、その一部をなぞるだけで、それにプラスされる調査研究の形跡が見当たらないようだ」

 と、三矢は話の方向を本題へ向ける。

 

 「それで、聖護院道興の歌が頻繁に引用されるのか、たしか『廻国雑記』とかいう紀行文の中に記された短歌だったね・」

 「市制施行当時、市長もさかんに『ののいち人』を引用されていた」

 

 こんな会話を交わしていると、三矢が初めて、矢作の藤岡諏訪神社に足を向けた頃のことが思い起こされる。その境内に残されているという力石を確認に行って、拝殿入口脇の「道興」の和歌を刻んだ石碑に気付いた。それがきっかけで、2004年農協広報紙に彼は簡単な紹介記事を載せたこともあって、「聖護院」というキイワードが頭の片隅に巣くっている。

 

 「道興より少し遡るが、次の文章から、聖護院と幕府中枢との密接な関係が推測される」

 

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 ― 義満は(中略)、王家に奉仕するより格上の高僧を北山第に招請して、年間を通じて密教祈祷を順ぐりに行わせた。阿闍梨として招かれたのは聖護院僧正道意が多いが・・―(注1)

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 「同じような記述が、ここにもある」

 

 と、数年前に金沢市民文学賞を受賞している分厚い本を広げる。 

 

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 ― 歌人であり、義政の護持僧でもあった聖護院道興(前関白近衛政家の兄、修験道の総元締め的人物)は、幕府中枢部の要人らと歌会などの交際があったから・・― (注2)

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 「つい先ごろ、それを裏付ける文章にであった」

 

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 ― 平安時代中期から、大きな寺院の統制のもとに小規模な別寺院が建てられるようになった。「仁和寺の勝宝院」と称するが如くに「○○院」と呼ばれたので、これを院家と呼ぶ。(中略) 院家の中でも、皇族もしくは摂関家や大臣家から院主が選ばれる格の高いものは、門跡と呼ばれた。天台宗の延暦寺(山門)の三門跡といえば青蓮院・妙法院(三十三間堂を有する)・梶井(のちの三千院)。園城寺(三井寺・寺門)の三門跡は、聖護院・実相院・円満院。真言宗で・・― (注3)

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 「室町将軍家とも、何代にもわたる深い関係が築かれていたということか」

 「青蓮院や三千院などは、文芸ものにも出てきて、馴染みがある・」

 

 「ところで、聖護院は何処にあるか、知っている?」

 「平安時代の建立なら、京都か近江だろう・」

 「そう。聖護院をキイワードに最初に調べがついたのが、その立地場所。京都中心部の観光地図を見ていて、『あっ、こんな処にあるのか』と分かった」

 「東海道から都へ入る玄関口のひとつ粟田口という立地は、人や物資の流れを監視できる、まさに喉元的ともいえる場所。延暦寺にとって、当時は、経済権益を握るキイポイントのひとつだったというわけ」

 「経済権益といえば、こんな資料もあるよ」

 

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 ― 神谷永富が生きていたころの博多は、息浜をめぐって大内、大友両氏の争奪戦がくり返されており、その中で博多商人たちは、勘合貿易や朝鮮貿易を営々と続け、蓄財に余念なかった。(中略)ちなみに、永享四(1432)年の第九回遣明船団(=勘合船)は五隻で、大乗院・聖護院・細川・一色氏らとともに、石清水八幡宮の田中某が出資、経営に参加している。― (注4)

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 「聖護院は、そんなところまで手を延ばしていたのか・。中世の寺社は、現代人がもつ宗教観とは、かなり違う側面を持っていたんだね」

 「もっと時代は下るが、こんな例もある」

 

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 ― 多武峯寺は、聖護院門跡を別当にいただき、中世を通じて興福寺と対立し、戦国期には軍事的にも大きな勢力をほこっていた。― (注5)

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 朝廷とつながる公家の出身、出身一族の財力で建てられた小寺聖護院は園城寺の都城地での出先的な役目も担う。上流貴族を門閥とする門跡は、修験道を修めて将軍家へも出入りし、歌会などでの交流もある。そんな人脈をてこに、明との勘合貿易など経済的な利権にも深く関わる。さらには、利権をまもるには武装も辞さずと、別当を務める多武峯寺(奈良桜井)では、戦国末期まで弓鑓・鉄砲すら備えていた。

 

 「ひとつ一つは、一知半解の断片的なデータだが、こんな風に重ね合わせて読むと、当時の朝廷や幕府と関わる聖護院の全体像のようなものがうっすらと浮かんでくるから、面白いな」

 

 「修験道の方だが、これも先ごろ思わぬ本で、道興の行動を理解する文に出会った」

 

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 ― たとえば木食という修験道の実践には、ただ五穀・十穀を食べないという行為のほかに、いくつかの共通の行動がある。とくに近世の木食行者に顕著に見られるのは遊行回国をすること、勧進活動をすること、大小の仏像や神像を彫刻すること、和歌を作ること、禅定や窟籠りをすること(中略)、最後は魂の永生をもとめて即身成仏や入定を目的とするものが多い。―(注6)

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 「遊行回国や和歌を作るなど、まさに当時の道興の姿と重なる・」

 「そこで、単にみやこからの偉い僧が、旅の途次に当地を訪れたと考えるか、それとも、ここへ持ち寄ったデータが示すような権力中枢に近い人物として、当時の京都や加賀の政治情勢を勘案するかで、詠まれた歌の解釈も随分違ってくる」

 「それが、『こち問答』第四話での、あなたの見解になった・・」

 「第四話のころは、ここまで資料は揃っていなかった。幾度も同じ歌をなぞっているうちに、直観的に生まれた解釈なんだが・」

 

 各自、これまであまり追及されることに無かった郷土史の謎に挑もうと、手持ちのデータを持ち寄っての今回の集い。手探りながら、どうにか課題とした中世日本の一つの側面が、垣間見えたようだ。それもあってか、追加注文したコーヒーの香りがひとしお芳しく感じられる。

 

 (2014.2.5)

 注1;村井章介著「分裂する王権と社会」-211-

 注2;中橋大道著「中世加賀『稀有事也』の光景」-123-

 注3;本郷和人ら「日本古代中世史」-179-

 注4;武野要子著「博多」-68-

 注5;藤木久志著「刀狩り」-61-

 注6;五来 重 「宗教的修行における心と身体」(日本思想1自然―51-)

わが町歴史探索 スタディ編