秋雨前線がしばらく居すわった九月上旬、それまでの記録的な猛暑が嘘だったかのように涼しげで過ごしやすい日々となった。今回は手取扇央部での中心的な勢力から、林一族がすべり落ちることになった「承久の乱」を、故知問答スタディ編の第二弾として取り上げよう。

 

 「そもそも、林一族が没落する原因となった『承久の乱』とは、どういうものなんでしょうか」 

 「そうだね、私も教科書での歴史の一項目的な知識しかなかった。『承久の乱』についての大略をつかむために、まず、次の文を読んで欲しい」

 

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 - 実朝暗殺(1219年)から、承久の乱にいたる二年余の経過は目まぐるしい。幕府側は皇子を将軍(鎌倉殿)に迎えようとするが、後鳥羽上皇は寵姫の所領の地頭を解任せよと要求するなど、硬軟のかけひきが展開される。(略)上皇の相談役であった賢僧慈円の『愚管抄』は、歴史の流れを見すえ、上皇を諌止しようとする力作であったが、効果はなかった。後鳥羽上皇は朝廷の権威を過信していたし、側近たちは鎌倉幕府の内紛など楽観的な情報を提供していた。― (注1)

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 「そして・」

 

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 - 承久3年(1221)5月14日、ふだんは遊興の皇族・貴族が集う京の南郊鳥羽の地にけたたましい蹄(ひずめ)の音、甲冑のすり合う音が響き渡った。砂塵を巻き上げて続々と集まる兵は、畿内近国の武士、そして僧兵・・。鎌倉の執権、北条義時を追討するべく後鳥羽院が企てた「承久の乱」の幕開けである。-(注2)

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 「ところが・」

 

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 - 義時追討の宣旨を鳥羽離宮で全国に発布した後鳥羽上皇は、三浦義村らの有力者には「義時を討伐したならば存分に恩賞をとらせるぞ」という書状もそえられた。鎌倉の武士たちは動揺した。宣旨と北条氏との板ばさみ、不安と打算・・。御所に集まってきた武士たちの思惑は、さまざまであったろう。

 ここで政子尼が一同を説得した。65歳、死の四年前である。(中略)「かつての私たちは京の連中に蔑まれ、みじめな扱いを受けてきた。それが頼朝殿のお陰で今日があるのではないか。御恩を忘れるな。朝敵の汚名をかぶっても一致団結して対処してほしい。宣旨に従いたい者は申し出よ」となる。

 この有名な演説は日本の歴史のなかで類を見ないほど効果があった。そのあと、箱根に防衛線を敷こうという消極的な戦略に対し、大江広元の京へ進軍すべしとの主張、総大将に任ぜられた北条泰時(義時の子)が怖気をふるうなどの経過があるのだが、幕府方に馳せ参じる東国武士団はあいついだ。総勢19万と『吾妻鏡』は記している。あてにならない数値だが、大軍にふくれあがったことはたしかである。

 京都方は予想外の事の進展に驚いた。そんなはずではなかった。急ぎ防衛軍を配置した。いよいよ承久の乱である。―(注3)

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 「林一族らは、上皇の院宣に呼応して朝邸側へ兵をだしたのですね」

 「鎌倉幕府の有力な構成員すら、上皇の宣旨には動揺している。まして、鎌倉幕府が派遣する地頭に先祖が開発した領地を牛耳られていた加賀の武士たちは、今が失地回復のチャンスだと考えたとしても無理はないだろうね。その時代的な背景として・」

 

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 - 幕府が成立したといっても、朝廷は西国においては自由に宣旨を出して追討・追捕を行っていた。特に在京する西国の守護や大番役の沙汰人、有力御家人らが、院の命令で追討・追捕に活動している事例は多く見出される。こうした体制の延長線上に発されたのが、承久の乱での幕府の追討の宣旨である。-(注4)

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 - 後鳥羽天皇(1180~1239)は歴代天皇の中でも特に英明の君であったと言われる。第82代天皇として後白河法皇の死後親政を行うとともに1198年に譲位したのちも、土御門・順徳・仲恭の三代24年にわたって院政を執った。鎌倉幕府に対抗して宮中の武力の養成につとめ、将軍実朝の暗殺など、幕府が混乱している事態を見て倒幕の院宣を発した。

  しかし、幕府は倒れず、かえって京都の反幕府勢力が一掃される結果を招く。幕府は仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を即位させ、土御門上皇を土佐へ順徳上皇を佐渡へ、そして後鳥羽法皇は出家の上、隠岐へ配流された。これが「承久の変」とよばれる政変で、これ以後明治維新に至るまで、わが国政治の中枢を幕府が掌握する政治形態を定着させた、画期的な事件であった。-

  (注5)

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 「敗者側に与した林一族は、旗頭になる則光と家朝を鎌倉で処刑されてしまい、以後、中央政権との繋がりを断たれたのだろうね」

 「そんな歴史的背景が分ると、順徳と『ミヤコワスレ』のいわれなどが理解しやすくなりますね」

 

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 - 承久の乱は、それまで東国(幕府)と西国(朝廷)の軍事組織の対決の様相を示したが、結果は幕府の圧勝に終わり、院の軍事組織は解体された(略) 承久の乱後の大きな変化は、これら[大番役の催促と、謀反・殺害人の追捕と夜討ち・強盗・山海賊の取締り]の職権を行使する守護が幕府の指令によってのみ動くことになった点である。-(注6)

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 「中央政権の興亡は深入りすると際限がなくなるのでこれくらいにし、乱後の事後処理に少しふれよう」

 

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 - 鎌倉幕府は承久の乱のあと、京都に六波羅探題を設置した。これは朝廷を監視し、京都内外の警備に当たり、西国の御家人を統率する役割をもつものであった。(略)これと共に幕府は上皇方についた公家や武士の領地3000余か所を没収し、戦功のあった御家人を新たにそこの地頭にした。これが新補地頭と呼ばれるもので、新補地頭は前からある本補地頭より大きな権限を与えられていた。-(注7)

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 「当然、こちら加賀の武士たちの所領も同じ扱いだった・・」

 「余談だが、『泣く子と地頭には逆らえれない』という里諺は、このあたりからでたものじゃなかろうか」

 「地方の歴史だけでは理解が平板になりがちですが、中央の動きと対照してみると、立体感というかぐんと深みが生まれて、興味が増しますね」

 

 (2014.2.5)

 注1:宮脇俊三著「平安鎌倉史紀行」-294-

 注2:「見果てぬ夢―平安京を生きた巨人たちー」JR東海刊 -154-

 注3: 注1に同じ 

 注4:五味文彦著「日本中世史」-25-

 注5:内田康夫著「後鳥羽伝説殺人事件」-68-

 注6: 注4に同じ

 注7:武光 誠著「一冊でつかむ日本中世史」-99-

わが町歴史探索 スタディ編