「歴史の動きを理解するうえで、国守とか守護という地方トップの権限がどんなものだったか知らないと話が噛み合わない・」

 「富樫五百年などという括り方は、そこを完全に無視しているのだよな」

 「まずは、次の文章から入ろうか」

 

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 - 律令制の下で地方支配にあたった国司は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官と、その下で雑務に従う史生(ししょう)からなっており、彼らは都から派遣されるのが原則だった。もちろん彼らのみで広汎な国務をとりしきるのは困難であったから、地方支配の実質は、国の下の行政単位である郡の郡司、とりわけそれぞれの地域の有力豪族から任命される大領(長官)、小領(次官)による伝統的支配によって担われていた。(略)

 ところが八世紀半ばごろから郡司に任命されるような伝統的地方豪族の力は次第に衰え、新興の有力者が墾田開発や私出挙(しすいこ)などの活動によって台頭・・。- (注1)

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 「さらに九世紀に入ると、新しい動きが現れた」

 

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 - 奈良時代の国司は郡司のまとめ役だったが、九世紀に相当する平安時代初めになると、国司は直接、地方政治に当たるようになった。そのことは、鉄製農具の普及から推測できる。八世紀の住居から鉄器が出土する割合は、約19%であった。これに対して九世紀の住居の約39%から鉄製品が出土する。地方の農村で用いられた鉄器の量が、二倍に増加したのである。(国司の指導下に)この鉄器を用いて、地方の農民は農地開発を行った。-(注2)

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 「国守の具体的な姿が想起される、こんな文章もある」

 

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 - 仁和2(886)年の正月、42才になった道真は、八年余り勤めた文章博士を解かれて、讃岐の国(香川県)の国守に任ぜられた。「律令」の戸令には、国守は年に一度、管内を巡行して民の患え苦しむ所を知り、政治の得失を明らかにすべきことを定めた「国守巡行条」という条文があり、道真は、讃州に赴任したこの年の内に、すでに一度ならず州内を巡察し、また州民に直接詳しく実情を尋ねたりしていたに違いない。- [寒旱十首(漢詩)から著者の推定] (注3) 

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 「仁和年間といえば、芥川龍之介が書いた『芋粥』も、確か同じころのことを扱っていたよ」

 「今昔物語から、モチーフを借用したというものだね。富樫の系図に現れる藤原利仁が登場する・・」

 「藤原氏による摂関政治が続く平安中期に、林・富樫の先祖というか加賀斉藤氏の始祖とされる藤原忠頼が国司[介]として、当地に赴任している。そのころの事情を語るのが、このカードだ。」

 

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 - 道長から頼通の時代にかけて、摂関家は貴族の最高の家格「摂関職」として定着するが、(中略)一般の貴族たちにも、侍従をへて公卿に昇進しうる公達の家、位階が四位、五位にとどまり、まれに公卿になりうる諸大夫のような家が決まってきた。

 さらに貴族・官人のなかには、源満仲や藤原千晴のように、各地域に根拠をおいて、武者、「兵」の道を家業とするものがあらわれるとともに、国司(国守)-受領になって国の業務・徴税を請け負い、富を積む人びとがあらわれてきたのである。- (注4)

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 「じょんから音頭の一節 ♪いまを去ること千年以前~♪ 一条天皇のころだろう」

 「介は、一国のなかでは二番目の地位。上中下に分ければ、中位の加賀国だと、介は四人まで置ける。その内の一人だった。」

 「トップの守は、形のうえでは天皇が指名するとしても、スタッフとなる介以下の人選は守が行っていたのだろうな・」

 「♪加賀の司に富樫よ行けと~♪ 後世のフィクション『富樫略史』の表現などにいちいち目くじらをたてることもないが、毎年繰りかえされ、それが耳に残ると何となく、本当のことだったように思えてくる。だから、郷土史を語る際には、そのあたりは用心しないとね。」

 「各文は、それぞれの時代相を綴った文章の断片だが、こうして順につなぐと、国守の実質的な任務の変遷が窺えて、おもしろいね・」

 

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 - 治承元(1177)年九月、平重衡は長門国河棚荘(山口県下関)への国衙の介入を停止するよう留守所に命じた。重衡はそれは「太政入道殿(清盛)の仰せに依るのだといっている。

 国衙とは国司の役所で、その実質は国守が現地に派遣した目代(代官)と、国庁に勤務するその国の有力者からなる在庁官人によって運営されていた。平安後期、国守が在京し不在のことが多いため、諸国の行政機関が留守所と呼ばれたのである。- (注5)

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 「そして、この文章のすぐ後ろに『知行国制下の国守は名ばかり・・』とあるが、平氏などがその武力を背景に公家階層から、その実権を奪いつつあることがわかる」

 「その趨勢を決定的にしたのが、鎌倉幕府の開設であり、その数年後に頼朝が任命した守護職だろうな」

 「鎌倉幕府がその権力基盤とした守護職については、『承久の乱』編でかなり触れているが、幕府が成立して間もないころ、当地には東国の有力武将の一門から、守護が任命されていたようだ。」

 

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 - 二代将軍頼家の後ろ盾になったのは、頼朝の乳母の家比企氏であった。比企は一族の女性を、有力な源氏一門の妻として配し、頼家の妻も比企能員(よしかず)の娘であった。信濃や北陸、かっての木曽義仲の勢力圏を頼朝から預けられ、大きな勢力を有していた。- (注6)

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 「富樫はまだお呼びでなかった・」

 

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 - 鎌倉時代は、北条氏が守護に任ぜられたと考えられている。室町時代初期には、在地の富樫氏が守護に任ぜられた。富樫氏は加賀国の有力豪族で、鎌倉末期に加賀守護北条一門の代官を勤めていた。- (注7)

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 「本家筋の林一族が旗頭を失った間隙をぬい、分家で扇央部に近い富樫が着々と実力を蓄えていたのだろうね・」

 

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 - 建武三(1336)年、富樫高家(富樫介)は建武政権成立期には足利尊氏に与しており、建武二年の北条時行の反乱(中先代の乱)に際して功があったため守護に補任されたと考えられている。- (注8)

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 「以後、中央政権とのからみで斯波氏などを挟みながら、150年弱の間、加賀の守護もしくはそれに近い権力を富樫氏は持ち続けたようだ」

 (2014.3.20)

 注1; 五味文彦著「古代中世史を考える」-135ー

 注2; 武光 誠著「一冊でつかむ日本中世史」-36ー

 注3; 藤原克己著「菅原道真」-111ー

 注4; 網野善彦著「日本社会の歴史(中)」-31ー

 注5; 高橋昌明著「平家の群像」―85ー

 注6; 本郷和人著「日本古代中世史」-167ー

 注7; 西ケ谷恭弘編「国別守護・戦国大名事典」-157ー

 注8;  上に同じ

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