============

 ― 天正八年(1580)四月十三日、金沢御堂は開城し、一向一揆の百年に及ぶ歴史は幕を降ろした。―(注1)

============

 

 「百年近くも、加賀一国を支配していたから、一度の戦いくらいでは簡単に屈しなかった・」

 「それで、中世では第一級の史料とされる『信長公記』を調べた・」

 

[写真資料1]

 「天下統一のため、各地での戦いが記される中,巻十(天正五年)に初めて加賀への侵攻が出てくる」

 

============

 ― 八月八日、柴田勝家を総大将として、北国へ軍勢を出陣させた。滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀(中略)・前田利家・佐々成政(中略)及び若狭衆らが、加賀へ進撃した。添川(九頭竜川)手取川を越えて小松村、本折村、阿多賀、富樫など諸所を焼き払い、陣を据えた。(略)-(注2)

============

 

 「日付けは日記が記された日だろ。筆者の太田牛一は、今でいえば書記官のような立場で、現地へは行っていない・・」

 「だから、手取川を越えて小松村・などという記述も仕方がない」

 「大筋は捉えられているが、細部では聞き書きゆえ、?マークの付く点もある」

 

============

 - 巻十二(天正七年) 八月九日、柴田勝家が加賀へ出陣し、阿多賀・本折・小松の入り口まで焼き払い、さらに稲田を薙ぎ払って帰陣したそうである。-(注3)

============

 また、同じ巻十二で

============

 ― 九月二十九日、加賀の一揆勢で大阪へ連絡に来た者を、正親町季秀が捕え、信長のところへ護送した。信長は大いに喜び、この者をただちに成敗した。-(注4)

============

 

 「大阪の石山本願寺との関係については、次の文が分かりやすい」

 

============

 ― (将軍)義昭は信長に対抗するために、諸大名に上洛を促したり、大阪本願寺と結んで一向一揆を蜂起させるなど、あらゆる手段を講じた。(中略)元亀元年(1570)に決起した大阪本願寺は、諸国の門徒に檄を飛ばした。(中略)元亀二年五月、信長は長島(一向一揆)を攻撃するが、柴田勝家が重傷を負い、美濃大垣城主であった氏家直元(卜全)が討死にするといった惨敗に終る。―

 (注5)

============

 

 「加賀では双方、一進一退を繰り返しながら、大勢が決したのが、天正八年の戦い・」

 

============

 ― 閏三月九日、柴田勝家は加賀へ進撃した。添川・手取川を越えて、宮の腰に陣を構え、諸方を焼き払った。一揆勢は野の市という所に、川を前にして立て籠もっていた。柴田勝家は野の市の一揆勢を多数切り捨て追い払い、兵糧を分捕って数百艘の舟に積み、そこから次々と各地を焼き払いつつ奥地へ進み、越中との国境を越えた。また安養寺越えの辺りまで進撃し、安養寺坂を右に見て、白山の麓の谷々へ侵入し、隅々まで残らず火を放った。-(注6)

============

 

 「その結末を記した個所に、当地にゆかりある三林善四郎の名がある」

 

[写真資料2]

 

============

 ― (17) 加賀の一揆首謀者を成敗 

 十一月十七日、柴田勝家の調略によって、加賀の一揆勢の主だった者を諸所で捕え、成敗した。その首が安土へ提出されたので信長はこれを松原町の西に懸け晒した。

  首は、若林長門・その子雅楽助・同じく甚八郎・宇津呂丹波・その子藤六郎・岸田常徳・・(中略)・三林善四郎・黒瀬政義、以上十九人。信長の喜びようは、ひとかたならぬものであった。-(注7)

============

 

 「善四郎が、賊魁と称される人物だったことはもとより、僧殺し街道の謂われとも関連がありそうな記録だね・」

 「この後、佐久間盛政そして前田利家と、加賀の支配者が戦国武将に移るのだが、『ねぶつもん』という言葉を覚えているかい?」

 「ああ、幼少時言いつけにそむいたり・悪さが見つかると、祖父母などから『このねぶつもん・』の決まり文句で叱られた」

 「お互い、同じ時代を生きてきたね。ネブツモンは念仏門徒のつづめ型と分かったのは四・五十代。地方史に興味を抱くようになってからだ。大人の間でも、不始末をやらかした者への批判的な語句だった」

 「一向一揆を討伐した側にとっても、苦い戦闘経験が忘れられず、念仏門徒は油断ならない存在。武家では『念仏門徒みたいに聞き分けがない』と、わが子を叱かる言葉だった。」

 「それが長い年月が経過する間に、本来の意味も知らずに、一揆側の子孫たちにも叱声語として模倣されたのだろうな」

 

  冬の日暮れは早く、外は薄暗くなっている。

 

 「おっ、もうこんな時間か。家の者にねぶつもんと言われんように(笑)、そろそろ帰るまいか・」

 

 

 (2016.02.16)

 注1;大桑 斉著「一向一揆という物語」-85-

 注2;太田牛一著 中川太古訳 「現代語で読む信長公記」(下)-38-

 注3;    〃 -101-

 注4;    〃 -108-

 注5;藤田達生著 「信長革命」-41-

 注6;注2に同じ -146-

 注7;注2に同じ -164- 

 写真資料1;信長公記の写し部分

 写真資料2;下林・薬師日吉神社蔵 善四郎寄進の兜(現存)

わが町歴史探索 スタディ編