「日本史という枠組みの中で、当地野々市が舞台の中心地であった唯一の事件ともいえるのが一向一揆」
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-山城国一揆と同じころ、やはり郡域を基礎として結集し、加賀国に新たな守護を立てて国内の戦乱を克服した加賀一向一揆もまた、百年の長きにわたり国の秩序維持に携わったのである。-(注1)
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「郷土の歴史に関心を向ける人の、きっかけの半分くらいは、この一向一揆だろうね」
「その割に、地方史的な視点からでも、断片的な記述はあっても全体像というか、概略がつかめるような書籍が見当たらないのでは・・」
「そこなんだが、先ず、一揆というものをどう捉えるかという点から入ろうか」
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- 南北朝内乱が武士の一揆(国人一揆)を生み出した。尊氏・直義、南朝が離合集散を繰返し政治情勢が混迷を深めた結果、先の見通しが全く立たなくなったことが一揆結成ブームにつながったのだ。(注2)
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「同書では、『史料として貞和七年(1351)に山内一族11人が作成した一揆契状が有名』と、少し後に記している」
「それに続くのが『土一揆』かな・」
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- 足利氏の家督相続の争いを中心にした応仁の大乱は11年間も続いた。京都を戦火から守るため、市民や京都周辺の百姓たちが結束して武士を京都に入れないことが先決問題であるとして武士の追い出しにかかった。文明17年(1485)10月のことであった。(略)この地方在住の地侍たちのうち青壮年の男子が宇治平等院にあつまって、戦争中の東西両軍に「即時山城から撤退すること、新関を撤去すること、守護によって侵略せられていた寺社の本所領をもとのように戻すこと」の三ケ条の決議事項をつきつけた。-(注3)
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「最初は武士層で始まった危機的な状況への共同歩調としての盟約が、時代が下るにつれ、下層民衆の権力に抗する手段となっていった。その素地とでも言えるのが、次の抜粋文だろうな」
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- 日本の農村というものは、この頃(15世紀)に成立。これを惣とか惣村の成立とかいう言い方をする。ある人数の農家がまとまって、ひとつの集落をつくる。その中で、農民のなかからリーダーがおのずから出てくる。それから、自分たちで、村を管理するうえでのいろんな取決めをする。例えば鎮守の杜とか、お堂とか、神仏の祭祀を自分たちのグループで行っていく。水の配分とか共同で収穫をするとか、こういうことを自治的に行うような傾向が生まれてきた。-(注4)
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「一揆という言葉は、時代の推移とともにその意味合いが変わっているようだ。この時期の一揆は、社会的な訴求手段、つまり現代でいう運動やデモのようなものと捉えたほうが、分かり易いのでは・」
「井沢氏も力点は異なるが、同じようなことを言っている」
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- 戦国大名というと、信長や謙信のように命令一下家臣たちを自由に動かす独裁者のイメージが浮かぶ。だがそれは誤りで、信長や謙信は例外で、他の大名や国人は「合議制」の上に乗っている存在なのである。なぜなら日本は「和」が一番大切な世界だからだ。(略)逆に言えば、普通の大名や国人の家では、当主すら「重臣合議体」には、かなわなかったということなのであるー(注5)
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「神田氏は、別のところで、『戦国大名と一向一揆、両者はきわめてよく似た国の支配者であった』とも言っている」
「当地では、室町幕府の任命する守護富樫を排斥した反逆者的な捉え方で、一向一揆を位置づけがちだが。そんな簡単な図式ではおさまらないようだな」
「ここらで、一向一揆が起きた時代的な背景に目を向けてみようか」
「応仁の乱(1467)は、東西入り乱れての戦となり荒廃著しい京都。将軍家や室町政権の中枢を担う名門家の分派抗争は世の秩序をみだすばかり・」
「1485年に畠山家が守護をつとめる山城国で、あまりにも長期の家督争いに『あんた方など居なくともいい』と国人と農民が団結して、この両軍を追い出して、八年間自治をおこなっている」
「いわゆる、山城の国一揆と言われているものだな。当地富樫でも幸千代と政親が専光寺、本願寺の勢力争いとからんで対立抗争を繰りひろげ、県史などを読んでも、話が入り組んでいて簡単に理解できない」
「一揆は、一気に理解しがたい・(笑)」
「政親がその後、将軍家の六角攻めに加担。その戦費調達に臨時課税とも言える物を徴収しようとしたことが、一向一揆への引き金となったようだ」
「それが28話の内容だね」
「山城でも『寺社の本所領をもとのように戻すこと』と、長享の一揆のスローガンと同じような要求を掲げているね。加賀の国は、寺社などに寄進された荘園地が多く存在していた(注6)ので、不入への権利意識も強かった・」
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- 当時の加賀の国は、幕府の財政基盤としてきわめて重要な位置にあった。足利将軍家が直接支配した荘園(御料所)が加賀の国では20ケ所近くもあった。その他に、足利将軍家の経済基盤を維持していく上で大きな影響力をもっていた臨済宗の京都五山(天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)の寺領(荘園)がまた加賀に沢山あった。実はこれらの寺院から幕府に膨大な政治献金が送られ、これが室町幕府の財政を大いにうるおしていた。(注6)-
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「守護として一国を預かっても、領国内の支配地が少なければ、戦国大名としての力を富樫は蓄える余地がなく、一揆勢を抑え込むことができなかったのだろうな・」
(2016.04.19)
注1; 神田千里著「戦国乱世を生きる力」-69-
注2; 呉蓙勇一著「戦争の日本中世史」-173-
注3; 宮本常一著「民俗のふるさと」-59-
注4; 五木寛之著「蓮如」-76-
注5; 井沢元彦著「逆説の日本史9」-246-
注6; 東四柳史明講演録「加賀一向一揆と富樫」より
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