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==第三節 村の医薬品==
一、官許 八味地黄丸
上林区の宮岸徳太郎という人が明治初年頃、京都で漢法医学の大家林周安の門に学び、親しく漢法医学を体得、のち帰郷して当時無医村の上林区周辺において病気治療、健康管理に活躍した。当時はかごに乗って遠くまで往診し、コレラなどの伝染病の治療にもあたったと今でも語り草となっている。
八味地黄丸は名の示すとおり八種類の漢法薬を配合し、水アメで特種調合し、家伝として長く伝えた。食慾不振、疲労回復にすぐれた効果があり、里人に愛用され、親しまれた。このほか目薬、キナエソ散なども調製された。漢法薬の材料は金沢市泉町の平沢薬局から、水アメは河原町の盛岡商店から仕入れていたという。徳太郎氏亡きあとはその千徳寿氏がこれを継ぎ、昭和十七、八年頃まで続いた。が、戦争のため原料不足となり、やむなく中止されて現在に至っている。鑑札、かごなど最近まで残っていたが惜しくもいまは離散してしまった。
二、五香湯
清金の二軒ある五香家に伝えられた漢法薬である。家伝で、三、四百年以前から一子相伝として伝えられたが、終戦の頃から漢法薬の入手が困難となり、ついに廃絶してしまった。惜しいことである。
主として女性の産前産後の薬で、漢薬十三種類を細かくきざんで配合したもので、煎じてこれを常用すれば安産したといわれる。軽い風邪にもよく効いた。身体が不思議と温まり、血液のじゅんかんも良くなり、仕事にも疲れず、付近民に喜ばれた。このため近在はもとより遠く能美郡、富山県にまで売れていた。
三、やけどの薬
中林の山本家に伝わる家伝「やけど」の妙薬である。昔は各家庭に「いろり」が一つ、二つ必ずあって、幼児などが遊んでいて落ち、大やけどをする事故がよくおきた。医者は遠いし困っていた頃、前記山本さんへ走っていって薬を塗ってもらうのである。この薬は不思議と「やけど」のあとが残らないことで名が知れていた。とくに女の幼児などは適齢期に「やけど」のあとが残ったりすると大変心配になる。現在ではやけども少なくなってしまった。
粟田の新明家にも「やけど」の秘薬が伝わっている。近在近郷にまで名が知られていた。
その他粟田の寺西家に明治の頃からお灸(きゅう)が伝えられており、家号をとって「ばんばのやいと」として近隣に知られた。足、膜の痛みなどによく効き、朝から患者の出入りがあった。
下林の長家は大正の初め頃から薬類の販売をしていた。とくに「長の六神丸」といって親しまれていた。
粟田の中井家でも薬類の販売をしており「中井のねり薬」として、農繁期になると村の家々で体力増強のため愛用されていた。
粟田の竹村家でも「ジロアメ」が販売されていた。それには鶴来の山奥あたりから買い入れた「蝮(まむし)」の粉や「エキクトウ」などの薬が混入してあり、疲労回復用に村人連は常用していた。その他、鶴来方面の山奥から求めた猿の頭の黒焼きなども販売していた。
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