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==第九節 託児所と保育所==
昭和になって戦争が激しくなるにつれ、国策の一つとして「生めよふやせよ」と子供を生むことが奨励され、たくさん子供を生んだ者ほどほめられたものである。だから子供を生めない女性は肩身のせまい思いであった。
その頃は戦争に負けるなどとはだれ一人思っていない。一方、食糧増産に励まねばならない。子供達に手を取られては十分な農作業が出来ない。この頃はすべて牛馬耕であり、手作業であり、労働力が不足していた頃である。
そこでそうした農家の手助けとして、季節的に子供を預かってほしいという声が出たので、公民館が主体となって季節託児所を開設、これにこたえたのである。
季節託児所の開設は昭和十三年頃からであった。遠い所の部落では倶楽部などを利用したり、主として学校の一部やお寺などを利用して、春秋各四十日間開設したようである。
終戦と同時に一時中断していたが、昭和二十六年、ようやく終戦の混乱から脱したので、公民館が幼児教育、児童福祉の重要性とあわせて農繁期の労力調整を図るため、季節保育所を学校の一部と下林定林寺の一部を拝借して二ヵ所に開設した。この時から保育所というようになった。
当初は二ヵ所に五人の保母を配し、百二十余人の幼児を保育し、多大の成果を挙げて村民から感謝された。この頃の保母はお寺の嫁さんなどを頼んで保育にあたってもらった。西村みのる、香城はま子、増山歌子、香城清子さんらが保育にあたられた。
昭和二十九年四月から公民館の一部を開放して保育所の場にあて、保母四人をもって運営し、設備なども次第に充実した。公民館の指導もよく、村民の保育所に対する関心は一層高まり、保育幼児も増加してきたのである。
同年の春、保育所を建てるため、昭和三十年の町村合併で空家同然となっていた元富奥村役場庁舎が取りこわされることになった。明治二十二年に町村制が施行されてから八十五年、わが富奥村の中心にあって文字どおり村の自治行政の殿堂となってきた建物であり、とりこわしはさびしいことであった。だが、新しい時代の幼児達のための保育の殿堂に生まれ変わったのである。
昭和三十一年四月二日に母の会が初めて結成された。いわゆる幼児のPTAのような会である。この時から母親達が保育所の通年制実施を強く促進したところ、昭和三十二年四月一日から町当局はこれを認め、待望の通年制保育所開設が実現した。さらに昭和三十四年四月一日から児童福祉法に基づいて公立保育所となり、同年九月三十日をもって独立保育所の建設を見たのである。
託児所から季節保育所となり、現在に至るまで実に二十年余りの長い歳月を経たのである。最初は食糧増産のため主婦達の労働力軽減がねらいであったのが、現在でははっきりと幼稚園制度に準じる幼児教育機関となってしまった。
開設当時の所長中島喜寿が掲げた保育所の項目をあげてみよう。
一、重点目標
イ、各人の天賦の個性に基づき、円満な人格を備えた幼児教育をする。
ロ、身体の健全な活気に満ちた幼児を育成する。
ハ、設備の適正化を図り、自主性に活きた幼児を造る。
ニ、集団生活を通して、わがままを矯正し、社会性に富んだ幼児に育てる。
ホ、清く、明るく、文化性豊かな、楽しむ幼児を育てる。
一、運営方針
イ、保育所の任務と使命に鑑み、幼児の福祉本位に運営する。
ロ、健康第一主義に基づいて運営する。
ハ、家庭と常に緊密な連けいを保ち、時代に適応した保育を行い、幼児の楽しい保育所とする。
ニ、幼児の人格を尊重し、愛情と親切をもって当たり、遊具などを整備する。
ホ、自分のことは自分でするしつけを教え、個性を伸ばして、幼児をのびのびとした環境に置くよう運営すること。
こうしてはっきりと幼児教育の色を強めてきたのである。役場を取りこわして保育所を建てた時の経費は三百三十万円であった。
昭和三十七年八月には富奥小学校が統合でなくなった。保育所ではそれまで給食を同小学校へ委託していたため、
母の会の努力により隣接して給食室を建築した。
工費 四十四万二千円 建坪 二六・四平方?
十月二日に完成し、設備一切を整えた。その先、九月七日には電話も架設された。番号は野々市局七八五一番で、旧小学校使用のものをそのまま受けついだ。この日から野々市町第二保育所となる。その後は幼児数の激増にともない次々と保育室を増設し、保母の数も増したが、いぜんとしててんてこまいの毎日である。
年中行事
四月 入所式、講演会、健康診断、家庭調査
五月 遠足、子供の日、保育参観と懇談
六月 端午の節句
七月 七夕祭、保育懇談
八月 夏休みのためなし
九月 農繁期のためなし
十月 建設記念日、運動会、遠足、保育参観と懇談
十一月 講演会、保育懇談
十二月 クリスマス、保育懇談
一月 かるた会、保育懇談
二月 講演会、保育懇談
三月 修了式、遊戯発表会
歴代保育所長
中島 喜寿 昭和二六〜三六年度
西村 康賢 昭和三七〜四四年度
北岡 良爾 昭和四五〜四六年度
川越 正雪 昭和四七〜四九年度
各年度保母(○印は主任)
昭和二六〜三四 〇西村みのる 滝谷すみ江 竹松美智子
昭和三五〜三六 〇西村みのる 滝谷すみ江 北本弥枝子 竹松美智子
昭和三七 〇大森 智子 二木 幸子 小林 節子
昭和三八 〇大森 智子 西村 蛍子 二木 幸子
昭和三九 〇大森 智子 中田 螢子 二木 幸子
昭和四〇 〇福井 香織 西川 幸子 乾 綾子 中島よし子 河原 綾子
昭和四一 〇福井 香織 西川 幸子 北本弥枝子 河原 綾子
昭和四二 〇福井 香織 北本弥枝子 河原 綾子 西川 幸子
昭和四三 〇福井 香織 西川 幸子 堀田美千子 北本弥枝子
昭和四四 〇福井 香織 西川 幸子 北本弥枝子 鉄田美恵子 宮下 広美
昭和四五 〇松江 裕子 北本弥枝子 西川 幸子 宮下 広美
昭和四六 〇勝田 教子 西川 幸子 宮下 広美 松江 裕子
昭和四七 〇大森 智子 宮本 広子 西川 幸子 村井 米子 葛西 七子
昭和四八 〇大森 智子 西川 幸子 村井 米子 葛西 七子 北市登美子 石野 紀子 反圃ゆう子
炊事 向田みさを 昭和三七〜四八年度
母の会役員名
昭和三一〜三二年度 会長 五香艶子
昭和三三〜三四年度 会長 村本外喜、金田喜代子
年度 会長 副会長 会計
昭和三五 西村千代子 作田美代子 中島 桂子
昭和三六 中島 桂子 香城はま子 川越すみ子
昭和三七 香城はま子 川越すみ子 佃 照子
昭和三八 西尾喜代枝 宮岸 智子 北 喜久枝
昭和三九 中島 尋子 島崎 敏子 小林美佐子
(保護者会役員と改称)
昭和四〇 宮岸喜美子 西野 徳子 宮崎 数子
昭和四一 宮岸 良子 中村 歌子 西尾 律子
昭和四二 高桑 節子 小林須美子 北川芙美子
昭和四三 浅井 きん 山田寿美枝 村上外喜和
昭和四四 宮崎 昭子 小林 清枝 高納 春子
昭和四五 安田 光男 本井 早苗 吉岡 克己
昭和四六 吉岡 克己 進村 五月 神田 欣次
昭和四七 林 義夫 西村登志子 西本 浩二
昭和四八 仏田 俊雄 黒橋 克子 藤多 隆
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