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==農家小組合史==
農家小組合とは農家組合、部落農業団体、農事実行組合、農事小組合、農家協同組合などの名称を持つ農業および農村に関する一般的事業を行う小組合と、養蚕組合、養蚕実行組合、家畜組合、園芸組合、副業組合、出荷組合、納税急合、貯蓄組合、生活改善組合など特殊事業を行う小組合の総称てあって、この中に小作組合のような隷属的または対抗的性格を持つものも含まれている。
農家小組合は一般に農村の部落またはそれ以下の地域を区域とし、市町村制による町村に包括されている。
農家小組合はわが国独特の農村協同組織であり、わが国の農村および農業の特質に著しい色彩を与え、発展を助けてきたといえる。
※農家組合 かつて農会(農会法)による農業団体が、便宜上農家組合と呼ばれ、農家小組合に対応する総称であるが農家小組合より幾分その内容が狭い。
※部落農業団体 一般的に部落を単位としまたは基礎とする農業関係の団体をいうが、昭和十五年の農会法改正に際し法律上の用語として採用されたものであり、その中には法人組合および申し合わせ組合が包含された。
※農事実行組合 昭和七年、産業組合法の改正によって、法人として産業組合加入が認められるようになった。法人としての農事実行組合は農業協同組合法の実施に基き、農業会の解散とともに、昭和二十三年八月までに全部解散させられたが、部落の農業脇同組合という形式で存続が認められた。(現在は府県により部落生産組合、農家組合ともいう)
農家小組合の発生の多くは自主的であったため、その沿革については明確でない。けれどもすでに明治二十年代にその設置奨励が行われた地方もあった。明治二十九年、鹿児島県ではその設置奨励が行われている。
農家小組合の設置奨励は鹿児島県をはじめ地方当局によって行われた場合が少なくない。明治三十二年の農会法公布以来、農会によって行われる場合が生ずるようになった。それは当時しばしば農事改良組合、農事改良実行組合などと呼ばれたことによっても推察される。一般に主として農業生産技術の改良に関し、地方当局または農会の指導単位、もしくはその実行機関として設置されたものであるが、なおとくに地方の風習改善および協同精神涵養の意図がこれに加えられた場合もある。
このほか、販売、購買関係の事業を行うものが若干存在していたことも認められる。
明治期におけるわが国経済発展の基礎としては、自由経済主義による商工業の資本主義的発達に、その中心が求められたものであるが、農業に関してはもっぱら生産技術の改良による生産力の増大と、自足的要因を多分に持続していた小農経済の維持とが企図された。
それとともに新たな地方行政制度を基調とする農村社会生活への順応のために部落根性、すなわち因襲的な偏狭性の打破が必要とされた。それは商工業において個人主義的自由主義の自覚が社会経済的に要請されたときに、農業者に対し農学的立場から生産技術改良上の自覚とともに、農村における因襲的制約の止揚が、勧農的、地方行政的立場から要求されたもので、明治期における農家小組合は、このような事情を背景にして設立されたとしている。
大正期に入ってから農家小組合は著しく普及、発達した。明治期において地方的、部分的であったが、その設置状況は全国的に全面的なものとなった。大正十四年には農林省の調査によると七万七千を数えている。明治期における農家小組合の設立が自発的だったのに対し、大正期の場合は地方当局や農会の指導、奨励によるものが一般的とされ、とくに農会の指導、奨励が次第に強化されるにおよび、部落農会という名称さえ出てきたくらいである。一方においては畜産組合、養蚕組合、産業組合(産組)のような組合の指導のもとに、それらの実行機関として活動するものが出てきたことも見のがせない。
昭和になってからは、農家小組合の普及、発達はますます著しくなり、全国的、全面的なものになった。昭和三年に至っては十五万七千五百を数え、昭和八年においては二十三万五千に達した。
昭和経済恐慌は工業面で産業の合理化問題や失業問題を生む一方、農村でも農業経営合理化のため共同作業組合、共同経営組合が増設をみるとともに、都市の失業労働者の帰村を中心とする余剰労働力の利用のために、種々の副業組合が増加した。なお、農家経済の破綻に対する救済策として、昭和八年に農村負債整理組合法が公布された。
昭和十五年、生産力拡充のための農業統制を目的として「農会法」の改正を見、部落農業団体(法人または申し合わせ組合)の農会加入が法律によって認められた。施行に関しては「地方的事情に応じてなるべく農事実行組合(法人)に改組することを趣旨とすること」が、農林次官通達によって提示された。
(当地区は従来から農事実行組合の名称)
戦時体制が進むにつれ、農事実行組合が戦時農業生産の実践組織として重視された。昭和十四年から農事実行組合に対し補助金が交付され、以後昭和十九年までこの制度が継続された。
昭和十八年「農業団体法」の公布で、農会、産業組合、養蚕組合、畜産組合、茶業組合が統合されて、系統的な農業会が組織された。翌十九年一月には市町村農業会が行う農業生産統制農業生産計画の樹立、生産物の供給確保に関する事業に対して農事実行組合の協力が命令された。
いよいよ敗戦の色が濃くなった昭和十九年一月には、農事実行組合の範囲に地域内の農家を網らする食糧増産班が編成された。この食糧増産班は農事実行組合と表裏一体のもので、農事実行組合長がほとんど増産班長となった。
食糧増産班は食糧農産物の増産に関する実践組織とされ、農業会または市町村で行う食糧農産物の生産割り当て、肥料その他資材の配給、補助金の交付などに当たり、班内の措置は班長の裁量にまかされた。
このようにして農事実行組合は、農民に対する純然たる統制団体と化した。
戦後の農家小組合の歴史は大きく三段階に区分される。第一期は終戦直後から昭和二十二年の町会、隣組、部落会の廃止令(内務省訓令第四号および政令第十五号)に至る時期で、政府は農家小組合の戦時色だけを取り除き、実態は依然そのままに統制団体としての性格を存続させようとした。
第二期は実質的には解体しなかったものの少なくとも公的性格を失った農家小組合が、行政上あるいは農業団体、とくに農協の運営の上で再び注目され、その育成が図られるようになる三十一年頃までの時期である。
第三期はそれ以後現在に至り、町村合併の進行、農業諸条件の変化のもと、小組合自体の組織が大きく揺れ動く時期である。
第一期の昭和二十一年一月には、農林省が「食糧増産実践斑の編成ならびに運営要項」を示した。これは前に述べた食糧増産斑の肩代わりであって、大要は次のとおりである。
一、農業団体の受け入れ団体として、協同責任体制を確立、食糧増産の実を上げることを目的とする。
二、部落団体を単位として編成する。
三、斑の事業
1、指導農場において確認した技術の実践
2、作業班の編成
3、共同作業
4、共同苗代の管理
5、農機具および家畜の共同利用
6、一斉作業の強化
7、適期作業の完遂
昭和二十二年頃から占領軍の民主化指令が次々に発せられた中にあっても、政府は農事実行組合など小組合を改革する意図を持たなかった。のみならず、農地改革案と並行して計画立案された農業協同組合法案においても農協組織の有力な基盤として、正面から農事実行組合を取り上げようとしていた。
農業協同組合法第一次案では、農事実行組合は部落区域を単位として農民をもって組織され、農協の正組合員として規定されていたし、しかも農民は実行組合と農協の双方に強制加入させられる方針がとられていた。
そして第二次法案から第四次法案まで、農事実行組合が農協の組合員として認められていたが、昭和二十二年四月に作成された第五次法案におよんではじめて個々の農民が直接に農協の組合員となり、かつての産業組合時代にとられた農事実行組合の団体加入の制度が排除された。
すなわち、団体加入は個々の農民が直接に加入して権利と義務を行使する民主主義原則を妨げるので、取るべき制度ではないとの見解が打ち出されたわけである。これは昭和二十二年、連合軍総司令部の指令によって実施された町会、隣組、部落会の廃止令と関連して注目すべきことである。
昭和二十九年六月、農業団体再編成にともなう農協法の改正のさい、部落農家組合など農民組織の団体が準組合員として、単位農協に加入する道が開かれることになった。
また、昭和三十七年には農協法の改正によリ、農家小組合とは性格を異にする農業生産法人(農事組合法人、農業を行う一定の要件を備えた合名、合資、または有限会社)が、正組合員または準組合員として魚協に加入できることになり、個人加入の原則は修正された。
昭和三十一年頃までの農家小組合は、これによってともかく影をひそめたのであるが、実際にはこれらの組織は温存され、農協ばかりでなく、各種農業団体、または市町村行政の基礎としての役割を果たしている。そして地方により、農業生産協同組合、農家協同組合の名称のもとに発展を続け、生産拡大の役割を果たしながら、農業の発達を目的として今日に至っている。
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