[part1]
われわれが住んでいる地域一帯がどうして出来たのか。また、どのようにして現在のようになったのか。いわゆる手取扇状地帯が出来たのはいつ頃の時代なのか。
いまから約一億八千万年から一億三千五百万年前、即ち中生代のジュラ紀、白亜紀といわれる頃は、私達のこの郷土地帯は見渡す限りの大湖水であったといわれる。福井、石川、富山、岐阜の四県にもまたがった巨大な湖で、琵琶湖の十数倍もあったといわれる。それが一億年程前の造山運動によってなくなったり分断されたりしていった。
この湖を手取湖と呼んだ。手取川上流の見付谷川や桑島の南方一㌔ほどの右岸などから発見される植物の珪化石や只殻類を集めた化石壁などから、手取湖が実証されるといわれている。こうして造山活動が幾度となく繰りかえされて山が出来、丘陵地などが形造られて湖は分断され、やがてそれらが加賀三湖となり、河北潟や邑知潟などとして残されて来たのである。白山が出来たのもこの頃で、いまから約百数十万年前とされている。
手取川が流れたのもその頃からである。輪来町の舟岡山のそばを流れていて、一帯は河原だったともいわれている。同時にその頃、すでに金沢卯辰山や能美郡の丘陵地帯も出来ていたといわれる。
こうして手取川の流域も喪度となくその流れを変え、洪水を繰り返し、運ばれた土砂などが堆積して手取川扇状地帯となった。はっきりと現在の形を整えて来たのが今から約一万年程前といわれている。
土中や田畑などから発掘される土器類や石器などを考古学上から推定して縄文時代という。
縄文時代といっても、早期、前期、中期、後期、晩期と年代が別れている。だいたい今から七、〇〇〇年ほど前から二、〇〇〇年前の晩期にかけてで、約五、〇〇〇年の長い時代が続いている。だから発掘された土器、石器によって、縄文時代の後期とか晩期とかいわれるのである。
縄文式の名は土器などの外側に縄目(なわめ)の模様がついていることからつけられた。
その頃の原始人と思われる人達は、川をさかのぼって動物や魚類の獲物をとって生活をしていた。おそらく、手取川流域にもこうして獲物を求めた人々が住みついたのであろう。
鶴来町の舟岡山台地一帯、いまの「白山青年の家」あたりに、四、〇〇〇年前頃の竪穴住居跡が発掘されて、当時の家屋が復元されている。わが村の清金と下林の境川から発見された石斧(いしおの)は縄文晩期のものでないかとされている。
わが富奥地帯は末松地内から発掘され、出土した石斧や土器片の教多いことでも明らかなように古い歴史を持つ。暗文土師器高杯、須恵器、台付長頸壷など無数の土器片が、昭和十二年頃から高村誠孝氏によって発見されたことは全く感動すら覚える。出土品には縄文から弥生、大和、平安時代に至るまでの土器も含まれている。これはもちろん末松廃寺跡や大兄八幡神社などすべての遺跡と通ずるのである。
末松地内から発見された土器などは別節末松廃寺跡で更に記す。が、末松から上林・中林、清金、下林一帯にかけて同じような土器片が見つかっていることは、末松が最も古い追跡だったとしても、他の部落もよく似た時代に発展していたものと思われ、中林の共同墓地付近からも石斧一個が発見されている。
昭和四十九年の四月から、上林地内を通る加賀産業道路敷地を石川県教育委員会文化財保護課が発掘調査を始めたところ、七月頃までに貴重な土器片多数が見つかった。中でも石帯(縦二㌢横二・六㍉厚六㍉)が出土された。黒色の石を半円形に磨き、裏面に四個の貫通しない穴(直径二㍉)がある。石帯は唐の制度にならい、律令時代(七〇〇年、いまから一、二七〇年ほど前)から身分を示す装身具として用いられていたが、平安時代後期になっても身につけられる人は限られていた。このため上林遺跡に住んでいた人物を知る上でも興味ある貴重なものとみられる。この時代は中央政権に変わり、地方に開発豪士などが勢力を拡大する時期でもあったので、一、二一二年の「承久の変」まで手取扇状地帯の武士団の頭領だった林一族の根拠地ではないかとの指摘もある。
さらに上林地内からは弥生時代中期の土器や、石器片が多数出土し、これまで同時代の遺跡が発見されていなかった手取扇状地扇央部でも、かなり古くから農耕があったことを裏付けている。
また、上清金のすぐ南方の小川などから多数霹出している土器片にも、縄文晩期のものが含まれている。このほか村の他の土中にも原始時代の謎が秘められていることだろうが、現在までわかったのは前記のとおりである。
こうして発掘された土器片から、わが「富奥」の前身はすでにこの頃からほのぼのとした夜明時代入っていたことがうかがわれるのである。
五、〇〇〇年ほどの長い縄文時代を終わっていよいよ弥生時代に移る。
この時代は今から約二、二〇〇年ほど前とされている。この土器類は東京の弥生町で発掘されたのでこの名称がつけられた。
弥生時代から初めて農耕が営まれ、稲作が登場したといわれている。即ち、縄文時代ほ狩猟を中心とした生活である。弥生時代は農耕を中心とした生活に初めて入ったのである。土器類のほかに支那からの伝来で、鉄器製など金属品が初めてつくられた。
生活様式もかなりに高度に発展していった。弥生時代も、前期、中期、後期などに別れている。当地方で発見された土器などの多くは弥生式後期のものが多い。上林地内で発見された土器片の中にも、また清金で採取された土器にも、弥生式後期のものから以後の平安時代の土器片多数が見つかっている。
こうして二千年以上も前から土地が開かれ、そこに住みついた者たちを次第に治めるようになっていった。
第十代崇神天皇の御代には既に四道将軍を全国にそれぞれ派遣し、その一人が北陸地方につかわされた。また、第二十一代雄略天皇の御代(五世紀中頃)に大兄彦命が加賀の国造に任じられた。
大和の都では蘇我一族が天皇よりも強い勢力となり、朝廷をないがしろにする振舞いがあって、常に激しい争いが繰りかえされていた。
第三十三代推古天皇(女帝)の御代に(五九二~六二八)に、摂政であった聖徳太子が蘇我一族を滅ぼして、皇室中心の政治を取りもどした。そしてそれまで豪族などの支配していた土地を人民に返し、「公地公民」として、改めて農耕を国の礎と定め、一定の土地を与えて税を納める制度を設けた。
さらに日本国を国と郡とに分けて、朝廷の任命した役人によって治めるようになった。同時に身分を大きくわけ、「臣(おみ)」「連(おおむらじ)」「君(きみ)」などの名称を授けて、各地を治める任にあたらしめた。加賀の国には「道の君」という人が来て政治を司っている。
末松廃寺は道の君が自分の勢力を示すためと、人心の安定を図るために建立した寺院といわれている。わが郷土富奥は上林の大椎の木、末松廃寺跡、大兄八幡神社や発掘された土器、石器類などからも二、〇〇〇年前頃から既に夜明けを迎えていたのであろう。
末松に大兄八幡神社がある。雄略天皇の御代に三尾君祖四子大兄彦命が加賀の国造としてつかわされて、政治を司ったとされている。(国造本紀)大兄八幡神社が大兄彦命をまつってあるとすれば、これもまた一、五〇〇年ほど前の歴史である。上林の神社の椎の古木といい、末松廃寺跡の発掘といい、また、大兄八幡神社の名称といい、それらの史実から「とみおく」という名はなかったけれども、既に前身ともいうべき人達が此の地に住みついて農耕文化を築きあげていたといわねばならない。
これらのことは富奥の歴史の中で他に誇り得る遺産であり、実証であり、動かすことの出来ない遠い歴史の秘録であり、郷土の誇りとすべき輝かしい夜明けである。
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富奥郷土史