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==第二節 藩の村支配==

 

第二節 藩の村支配

 

 一、村支配の意図

  藩政策で第一に重要なのは、租税の根源である米作り百姓の村支配であった。利家、利長は能登の一角から新たに加賀国へ封じられた引越大名である。入部するとまず、土着の領民を巧みに掌握することが急務であった。個々の領民である百姓は、既に過去の一向一揆に見る通り、村、郷の組織で固く結集されており、その村組織を巧みに支配することが重要であった。これらの村や郷にはこれを支配してきた地方の土豪や長百姓がいたので、これらの有力な者には扶持を給し、戦禍で逃散した百姓は村へ帰属させ、また、領民の信仰対象である寺社へは寄進をして、藩主の支配権が領内の末端まで届くようにすることが大事なことであった。そしてこれらの百姓の生産する年貢を少しでも多く取り立てる手段として、村役組織に意を注いだ。一方、領民の結集による一揆動向も警戒し、寺院の監視や刀狩りも行い、また、年貢米の公平を期する検地もきびしく行った。

  「昇平夜話」という書の中に「東照宮上意」と題して次のような文がある。

  百姓は飢寒に困窮せぬ程に養うべし。豊かなるに過ぐれば、農事を厭(いと)い、業を易(あらため)る者多し。困窮すれば離散す。東照宮上意に郷村の百姓共は死なぬように、生きぬようにと合点致し、収納申しつけるようにとの上意。云々。

  また、前田利常公(三代藩主)の言葉として

 一、微妙院様(利常公)御諚に候、百姓に肥(こえ)もつかまさざるように、痩せもつかまさざるように仕(いた)し置くは肝要の旨に御座候御事。

 一、微妙院公御意に、すべて百姓は鷹を仕し申すよう成るものにて御座候。肉能く候へは鳥取り申さず候。百姓肥え過ぎ候へば、農業を疎(おろそ)かに仕し候。肉よわく候へば、鳥取はなし申し候。百姓つかれ候へば、田畠のやしないも仕し得ず申し候。また、百姓こやしをむさき(めんどうな)物と存じ候へば、もはや農耕すたり申すと仰せられ候と、津田の祖玄蕃殿おはなし承り候由、亡父瀬兵衛はなし申し侯。

  御定書

 一、百姓之下人の内、作り仕らざる徒の者の義は、打ちころし候ひても苦しからず候由申し渡し候と覚え申し候哉。向後いよいよ右之通りに心得候へと、七月六日の御昼詰に中村久越様をもって仰せ出され候。

  明歴二年(一六五六)小松にて先祖覚帳に有る。(三百二条旧記による)

  よく耳にする語に「百姓は生かすべからず、殺すべからず」や「百姓とごまの油はしぼればしぼるほど出る」など実に農民が耳にしたら頭にくるような言葉である。時代相として彼ら支配階級は事実、百姓など虫けら同様に考えていたらしい。しかもこれは全国どこの藩でも終始一質して封建時代を貫いて来た考え方であった。即ち、彼ら支配階級の観念では、領内の土地、山川草木はこれみな領主の所有物である。その領内に百姓どもを住まわせてやるのだから、働くのは当然であり、生産物はみな領主の物である。また、一面、支配階級はおのれの権威を誇り得る生活を確保するために、百姓を飼育していると考え、全く牛馬や鷹の類と変わらない観念であったともいい得る。

 二、組と十村

  村方三役によって組織されていた各村々は、さらに十数ヶ村から数十ヶ村を結んで組が出来ていた。この組の組織は中世の組織であった郷、庄を基本に改編したようなもので、郷庄がしばしば組織変更されたと同様、この組も藩制時代を通じたびたび組み変えが行われた。はじめは組の呼称を十村の名とその十村の所属する村名を上に付けて、野々市村吉兵衛組、熱野村小兵衝組など郡内三百二十一ヶ村を九組にわけていた。藩末の文化、文政の頃からは、富樫組、中奥組、林組と称するようになった。富奥十四ヶ村(部落)も時代によりいろいろ組変えがあって一定していなかったが、その所属は富樫・中奥・林の三組間の移動であった。この組の支配者は十村(とむら)と称し、他の藩では大庄屋などと称していた。加賀藩ではこの十村制度がよく整備活用されており、それだけに十村は百姓に対し強い支配権力を持ち、時には肝煎以下の村方三役と対立することもあった。この十村役は代々良い家柄で大高持の者が任命された。その報酬も良く、鍬役米(鍬手米ともいう)と称し、組内の男子十五歳から六十歳のもの一人米二升宛徴集することが認められ、また、他に代官給米などの給与もあった。ふつうの十村は平十村と称し、このほかに藩から扶持米が与えられる御扶持人十村、組に所属しない無組御扶持人の十村などがあり、その中には苗字帯刀を許された十村もあった。また、十村は衣服や家の館構えも一般の百姓とは判然と区別され、非常に優遇されていた。例えば寛文四年(一六六四)押野組十村太兵衛(後藤家先祖)の記録によると、鍬役米三十七石五斗、代官給米三十九石六斗二升二合、計七十七石一斗二升二合(一一・五トン)の報酬があった。

  なお十村役をつとめた人が本村内にいたかどうか明確な文献が得られないが、館畑村史に元禄七年(一六九四)、林組十村役に中林村太兵衛と記載されているが、確証もなく、その子孫も判明していない。

     藩制時代の郷庄及び十村組表

 文政四年以前の頃  文政四年制十村組 天保十一年改正の十村組

 (三州志図譜村籍による) (石川郡誌沿革) (同上)

 郡内 十一郷、十一庄   郡内 九組      郡内 八組

 富樫庄--五十三村    富樫組--四十一村  富樫組--四十一村

 林 郷-- 十九村    林 組--三十八村  林 組--三十九村

 中奥郷--二十六村    中奥組--三十一村  中奥組--三十七村

     同各村の時代別所属

      文政四年以前の頃   文政四年制十村組   天保十一年改正十村組

 中林   林 郷        林 組        中奥組

 上林    〃          〃         林 組

 上新庄  富樫郷         〃          〃 

 下新庄   〃          〃         中奥組

 栗田新保  〃         富樫組         〃 

 矢作    〃          〃         富樫組

 三納   林 郷         〃          〃 

       

      文政四年以前の頃   文政四年制十村組   天保十一年改正十村組

 藤平田  林 郷        富樫組        中奥組

 藤平田新  〃          〃          〃 

 下林    〃          〃         富樫組

 位川    〃          〃          〃 

 太平寺   〃          〃          〃 

 清金   中奥郷         〃         中奥組

 末松    〃          〃          〃 

  庁事通載

 一、御国十村と申すは、天正より慶長七、八年頃(一六〇二、三年頃)までは、そこの長百姓より諸事申し渡し候。

 慶長九年(一六〇四)初めて能州へ本保次郎左衛門遣わされ、郷士之内にも御奉公を相い望み申す者、或は長百姓之内御選び出し、近在十ヶ村程宛仰せ付けられ候につき、十村と御唱えなされ侯。

 一、その後加州越中右の振り合いにて、段々十村役仰せつけられ候。

 一、加州石川郡十村支配之儀は、天正十一年(一五八三)より元和元年(一六一五)まで三十四年は、そこの長百姓より諸事申し渡し候とき肝煎と申し候。元和元年(一六一五)大坂城落城(大坂夏の陣、豊臣氏亡ぶ)の後、近在十ヶ村程支配仕り候に付、十村肝煎と御唱えなされ候。小松御在城(三代利常小松在城)のとき、御印そのほか十村肝煎と御座候ところ、万治元年(一六五八)十一月の頃より、おふれなど十村になされ候。

 一、寛永十三年(一六三六)までは、十ヶ村程宛、支配仕り候。同年より大組に相成り申し候。承応元年(一六五二)小松にてまた組割り仰せつけられ候。その後相い替える義は御座なく候。

 

 

 三、村方三役

 次に藩の農政に関する役所や役人の組織を図表で示すと次のとおりであった。

 これらの藩役人は直接個々の百姓から税の取り立てをしたのではなく、常に村役を対象にしていた。従って村役人には税問題だけでなく、百姓の細かい日常生活についても指示や取り締まりの権限を与えていた。そのため村役は支配者と被支配者の間にはさまれ、時には苦しい立場に追い込まれることも少くなかった。中世末(一五〇〇-一五七〇)頃までは、各村(部落)は長(おとな)百姓を中心にまとまった結合が強く一向一揆のように支配者も手こずったので、幕藩体制下ではまずその取り締まりと、税の取り立て確保のために、逆にこの強い結合体を巧みに利用したのであった。即ち、村の結合を掌握する長百姓を藩役人の下に役付けし、身分を保証して、個々の村人や百姓を督励監視させたのであった。この村役は、肝煎、組合頭、百姓代の三種あり、これを村方三役といった。

 

 肝煎(きもいり)これは村の最高責任者であり、また村内で最高の権威があった。呼称が示すように「肝」は「心肝」であり「煎」は物を煮つめること、即ち熱慮、苦慮するの意味で、その役の本質を表わした名称である。肝煎の家は「きもいりどの」から「きもいりどん」「きもんど」と称した。古い百姓の家の屋号に「きもんど」と称する家がよく各部落に残っている。多分先祖が肝煎役をつとめた家柄であろう。持高二石以上ですぐれた人物が村人から推挙され、御郡奉行、改作奉行の認可を得て藩から任命された。

  次に肝煎の推挙申請状が末松、上林から発見されたので(前ページ写真参照)それを掲げよう。

                 

 (末松村)

 私共在所肝煎七兵衛義、嘉永四年(一八五一)二月より村肝煎役仰せ付けられ、御用相勤め来申し候処、病身に罷り成り、元治二年(一八六五)正月御免除相仰せ付けられ、代りの肝煎之義、同村組合頭太郎兵衛義今年三拾六歳に罷り成り、御高六拾九石五升六合支配仕り、御用相勤め慥(まこと)成る者に御座候に付き、村方一統納得之上願い上げ奉り候間、太郎兵衛代りて肝煎相仰せ付け御下さる様願い上げ奉り候。以上。

  慶応元年閏五月 末松村組合頭 喜三右衛門(印)

 右石川郡末松村肝煎之義私共吟味仕候処、書附之通り相違御座無く候。太郎兵衛義組合才許六三郎親類縁者にても御座無く、仰せ用を相勤め慥(まこと)成者に御座候間、代り肝煎に御仰付下さる様願い奉り候。以上。

                     水内 六三郎(花押印)

                     広瀬 太兵衛(〃 〃)

                     瀬尾孫左衛門(〃 〃)

                     田辺 次郎吉(〃 〃)

                     鶴来村順太郎(〃 〃)

                     押野村次郎左衛門(〃 〃)

                     福留村六郎右衛門(〃 〃)

 これは末松村の肝煎役を嘉永四年(一八五一)から元治二年(一八六五)までの十四年間つとめていた七兵衛(古源一栄氏先祖)が、病身で退任したので、その後任に組合頭を務めていた太郎兵衛(松本繁氏先祖)を、村民一同の同意を得て推挙した申請状である。前述した通り村内には肝煎は必ず一人、村の大きさにより組合頭は数人いたので新任の太郎兵衛も、申請した喜三右衛門(西村喜吉氏先祖)も組合頭をつとめていたのである。また、宛名は書いてないが、この申請状は次の古文書のとおり近隣の十村数人の添申請状を付けて石川郡奉行(松任に代役がおり、奉行は城下の尾山に住む)、改作奉行へと届けられるのである。なお前任者の退任は正月で、年号がこの年改まって慶応元年となって、その五月に申請状が出されたのである。また、後の添状は各近隣の十村役が太郎兵衛は間違いない、肝煎の重役に叶う人であることを保証し、「組才許」というのは末松村の所属する組の責任ある十村あり、肝煎を常に監督栽許すべき直接責任者なのである。そしてその六三郎と太郎兵衛は親類や縁者でないことを申し立ててある。万一この肝煎に推挙された太郎兵衛の責任上間違いがあると、吟味したこれらの十村役までその責任が及ぶのであるから、肝煎役はいかに重い責任を負っていたか理解出来ると思う。

 (上林村)

 乍恐奉願上候

 私共在所肝煎市郎右衛門義、文政四年(一八二一)より村肝煎役被仰付御用相勤来申候処、同十二年四月病死仕り候に付、代り肝煎之儀示談仕候処、村中納得区々に而相揃不申に付、額谷村肝煎市右衛門江当分兼肝煎に被仰付置候得共、天保七年(一八三六)兼帯肝煎難相成段御断申上候に付、其後代り肝煎之儀再往相談仕候得共納得相揃不申然処、今般代り肝煎之儀上林村組合頭吉三右衝門儀歳三拾三に罷成、持高五拾壱石支配仕御用可相勤慥成者に御座候に付、同苗一統納得之上奉願上候間肝煎被仰付可被下候。以上。

 嘉永四年四月             上林村組合頭 次郎右衛門(印)

                    同      小 兵 衛(印)

                    百姓     太右衛門 (印)

                                       鶴来村

    順太郎殿

    (中 略)

                       鶴来村 順太郎(花押)

                       広瀬太郎左衛門(花押)

                       杉木兵左衛門(花押)

                       林 間 兵 衛(花押)

                       広瀬太兵衛(花押)

                       増泉村 喜左衛門(花押)

                       野々市村 孫左衛門(花押)

                       田井村 吉他郎(花押)

                       上野新村 惣太郎(花押)

                       徳丸村 八郎平(花押)

                       福留村 六郎右衛門(花押)

  御奉行所

 (裏書)

 表書之通上林村

 肝煎同村喜三右衛門

 申付者也

 安田新兵衛(印)

 上月四郎左衛門(印)

 崎田達之助

 河合清左衛門

 奥村甚三郎(印)

 木村権三郎(印)

 高畠猪大夫(印)

 矢部唯之助(印)

 板坂八三郎(印)

  この上林村肝煎喜三右衛門推挙の申請書も同様式であるが、文面のとおり肝煎推挙は必ず村内の者の納得が必要であった。納得出来得る候補者がなく、推挙出来ない場合は、他村の肝煎が兼帯したのである。上林村の場合、額谷村の市右衛門が兼帯していた。また、十村役連名の添状申請の宛先は、藩の改作奉行所であり、その認可も奉行所役人連名であった。結局、肝煎に対する任命状は別に無く、申請書の裏書であった。

  以上のように厳選された肝煎役は、藩政執行の末端浸透にまでその責務があり、次のような起請文までも藩に提出して堅く忠勤を誓約していた。

   

  肝煎起請文前書 (原文は文語文)

 一、こんど行われる検地に際しては、村境などにははっきりと札をさし、決してまぎらわしくないように案内申し上げます。

 一、畑作の内容などについても、うそいつわりなくそのままを申し上げます。

 一、潅漑用水に水をあふれさせて、そこに植えてある稲をかくしたりは致しません。

 一、下流の村々から江代米(水利料米)などをとる用水については、あらかじめ申し上げておきます。

 一、これまでの道幅をひろげたり、または新道をつけたり致しません。

 一、サオをもって測量する者は、念を入れて、ごまかしなど致しません。

 一、縄を張る場合にごまかしたりは致しません。また勝手に縄をあげたり致しません。とにかくすべてにわたって正確に行い、お役人のおたずねに対しては正直に申し上げます。

 一、検地の執行者に対しては、白湯や番茶のほかは一切もてなししません。

 一、村境については、関係の村の肝煎全部が出て、そのままを御案内申し上げます。また、おたずねのことについては正直に申し上げます。

 以上の各条についてそむく場合には、来世への往生は出来ないのみならず、神仏の罰をうけて、地獄におちこみ永久にうかばれないでありましょう。ここに起請文をもって以上のようにお誓い申し上げます。

  寛延二年(一七四九) 二月廿三日

                  (各村の肝煎、組合頭の名と花押が連書)

  天罰上巻起請文之□(裏面)

 梵天、帝釈、四大天王、閻魔法王、すべての日本国中六十余州大小神祇、殊に天照皇大神宮内宮外宮、箱根両所権現、三島大明神、八幡大菩薩、春日四杜大明神、天満大自在天神部類眷属、神罰冥罰おのおのの御罰をこうむるべき者也。よって起請文件の如し。

   (更に熊野牛王宝印を捺印)

                (後藤家所蔵古文書による)

  このように肝煎の責任は重く、とくに重要な事柄は上役の十村の指図を受けたが、ふつうは村内の人事、年貢米完納、その他農事、百姓戸々の生活に関する一切の処理方の権限を持っていた。報酬は給米と称し、村の草高により一定額が支給されていた。

  各村の肝煎で現在まで文献により判明したのは次のとおりである。

 

   

 

 組合頭 各村々には肝煎のつとめを助ける役目として組合顔というのがあった。村の大小により二人ないし六人ほど選ばれ、十村から任命され、肝煎を中心に村の運営や上からの指令に基づく案件を協議する委員のような役目であった。高持百姓から選ばれ、無給であった。

 百姓代 長百姓ともいわれ、村内の有力な百姓や 古い家柄の百姓から選ばれた。肝煎や組合頭の行状に間違いがないか、監視する任務が主で、平時は大して御用立てがなかった。

 二日読み 村の結合体は堅く、家庭生活に次ぐ村内社会生活は百姓には重要であり、これを無視することは出来なかった。とくに封建社会においては、個々の百姓支配より、村単位を連体責任としてまとめた方が好都合であった。また、当時の百姓は無学文盲だから、書面通達は出来ず、結局口頭伝達によらねばならなかった。即ち、村一円の寄り合い場が唯一の手段であった。中世末のあの一向宗徒の御講組織による布教が、教義以外にまで発展した史実があるように、村の百姓衆が一堂に集合する寄り合いの形態を重視した藩の支配階級は、逆にこれを巧みに利用し、その責任者である肝煎を通じて、重々反復百姓一人一人に至るまで、上意御定を通告したのであった。即ち、藩内全村に毎月定例の二日に村人を肝煎宅に寄せ集めて、肝煎が一席談じるかわりに、藩で制定された、「御定書」を肝煎が読み上げたのである。そしてこれが一人一人の百姓に徹底するように「納得したかや」と念を押して、理解できないところは注釈して読んだので、これを「二日読み」と称した。今日でも「寄り合い」「常会」の形は残り、また仏事の御講には「御書様」 「御消息」と称する御文を僧侶がもったいらしく読み、戦前「勅語」を校長先生がおごそかに読み上げたのは、やはり古い昔のしきたりであろう。この二日読みの御定書や「村御印」は、長方形の文箱に納め、さらに革袋に入れて肝煎の家の大黒柱に掛けて保管していた。非常の時はなにはともあれ、身命に代えても護らねばならなかった。戦前の御真影奉安所が連想されてならない。万一仕そんじれは肝煎の首どころか、その類の及ぶこと計り知れないものがあった。次にその御定書なるものの一例を上げよう。

   二日読み

 一、当年は田圃へ出る前に農具一式を準備して、少しも手おくれせぬように厳重申し渡して置くこと。

 一、火のもとは前々から申し渡してあるが、よく注意し、取り灰などは入念にし、昼夜まわりあるくように申し渡すこと。

 一、御蔵近くから失火したる時は、聞き次第人足を連れ、とり防ぐこと。

 一、諸々の上納やお米は日限に遅れぬようにお上にとどけ、暫時といえども手前どもの処に留め置いてはならぬ。

 一、藩より出した書類は滞らせず、次の村へ申し渡すように小走りの者共に入念に申し渡し置くこと。

 一、年貢は遅滞なくきめられた日に上納し、延引してはならぬし、消し印を必ずもらうこと。

 一、二毛作した場合、必ずその旨を届け出ること。

 一、百姓共で後見を立てる場合は、一族をつれて出てくること。これをかくしたのが知れた場合は刑罰に処する。

 一、馬が出産ありたる時はすぐ届けること。毛変わりした場合も同じく届け出ること。

 一、嫁とり、婿とりの時はぜいたくなふるまいを絶対にしてはならぬ。

 一、衣食住のことは、前々から申し渡しているが、万端倹約になすよう厳重申し渡して置くこと。

 一、盗まれたものなどありたる時は、隠し置かず、すみやかにことわり出ること。

 一、かねがねいい伝えてあるが、馬売買の際はすみやかに届けること。

 一、ばくちをしてはならぬことは前々からいってはあるが、これを通告した者には褒賞を渡すから、厳重皆々にその旨を伝え置くこと。

 一、村の人別帳のうち、人の増減生じたる際はかくさず書き出すこと。

 一、八十歳になりたる者ありたる時にはすぐ書き出すこと。

 一、田地割をする際は、村の約書や印鑑をそえ願い出すこと。

 一、年頁の不足をきたした時は、すぐさま係官へ申し出ること。

 一、村の二、三男のもので町方へ奉公に行くものあると聞くが、必ず届け出ること。

 一、村々の百姓の二、三男の中で商売をしている者は遅滞なく届 け出ること。

 一、村より金沢へ用に出ても、長居してはならぬ。

 一、鑑札のないものは馬の売り買いをしてはならぬ。

 一、縁組した際は、届け出た上で宗門帳に必ず書き入れ置くこと。

 一、田を売る者は、五ヶ村役人と一緒に詮議のうえ、お上へ届け出ること。

 一、みだりに木を切ってはならぬ。

 一、他国より浪人ものが来た場合、すぐ届けねばならぬ。

 一、大道も小道も常に修理して、通行に支障ないよう注意すること。

 一、毎日二日読みの各条入念に読み聞かすこと。

 一、諸々の役人共が宿泊することがあっても、その土地の産物でまかない、一汁一菜にとどめ置くこと。

 一、許しのない寄付金をあつめると罰する。

 一、すべての老人は親切にとりあつかうこと。

 一、新規に宗教をすすめる者があっても、聞いてはならぬはもちろんのこと、すぐ届け出ること。

 一、米や銭は絶対に貸し借りしないこと。

 一、木綿以外の着物を着たり、色染め、模様染めの着物は着てはならぬ。

 一、家は許可なく規定以上のものを建てぬこと。

 一、百姓は雑穀を主食とし、米をみだりに食べぬこと。

 一、百姓は御扶持人や町人と手紙のやりとりをせぬこと。

 一、宗教にこったり、そのためみだりに金を使わぬこと。

 以上、三十八ヶ条あるが、隣村で発見された延宝七年(一六七九)のお定書は五十五ヶ条の長文で、重複の条文を省き、以外の条文を掲げると、

 一、人形まわし、おどり子、他国の座頭、舞々、その他素姓のわからぬ者は一夜も泊めてはならぬ。

 一、七木の制を守り、許しなしに木を切ったり植えたり、田畑に葉の多い木を植えてはならぬ。(七木とは松・杉・桧・槻・栂・樫・唐竹)

 一、百姓、頭振りは一人も他国へ行ってはならぬ。(頭振りとは高が少しもない百姓)

 一、寺替え、宗門替えは指図に従わねばならぬ。

 一、百姓は一切乗り物に乗ってはならぬ。馬にも乗ってはならぬ。

 一、祭、葬式、法事、婚礼などは、百姓に似合わぬぜいたくをしてはならぬ。

 一、酒や菓子を売ってはならぬ。

 一、多人数集まってさわいではならぬ。もしそんなようなようすがあったらすぐ奉行所へ届け出よ。

 

 

 四、百姓の村構成

 村を構成する個々の百姓(家は士分、屋は町人)の中にも階級的序列があった。それは封建社会の通念で、年齢とか学識経験や人格信望など個人的なものでなく、持ち高(持っている耕作地の面積)や家柄(先祖代々村役であったなど)が主であった。全然耕作地を持たない百姓は頭振り(持ち高をたずねられた場合、頭を横に振って無高を表示するから)と称した。この頭振りにも二種あり、高持ちの田畑を小作する者と、家族とも年中高持ち百姓の雇い人となって働く者とがあった。村の寄り合い、村方二日読みで肝煎の家に集まった際の席次など、頭振りは敷居の下の土間にむしろを敷いた席に座し、発言権はなかったそうである。高持ちでも持高の大小や、役柄などで席が位置づけられ、さらに日常村内の暮らしにおいて、女子供の間でもこの観念で統一されていた。しかし、この階級的構成は終始固定的不変のものでなく、切り高、取り高(後出)により変動もあった。頭振りでもその努力によって、取り高して一人前の高持ち百姓になることも出来た。元和元年(一六一五)加賀藩の「田畑及人身売買禁令」が発令されて以来、公然とこの禁令を破ることは出来なかったが、高持ち百姓の困窮打開策として例外措置もあり、元禄六年(一六九三)の「切高仕法」が発令されてからは、切り高、取り高の移動が相当多くあったらしい。

 また、これら村の百姓には明治初年までは姓が与えられず、何々村何衛門(又は何兵衛)と称し、時には代が替わって改名されたものもあったが、ほとんど代々同名を世襲するのが多かった。現在でも各家々の屋号に何々モンサ(何々衛門、サは様で敬称)何ベイサ(何兵衛様)何々べドン(何兵衛、ドまたはドンは殿の敬称)あるいはサ、ドン、ドの敬称がないものなど当時の社会通念の名残りであろう。また、特別士分でなく、百姓の分際であるが、苗字あるいは帯刀を許された者もあった。これは祖先が地方の豪士であった家柄の百姓や、古くから大高持ち(長百姓と称した)の家柄で、藩から扶持を受けているもの(御扶持人と称す)であって、たいがい十村役などに任命されていた。

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富奥郷土史