[part1]

 

第六章 明治以降

 

 

==第一節 明治維新と廃藩置県==

 

第一節 明治維新と廃藩置県

  封建藩政制度の解体、これが明治維新である。くわしくいえば徳川慶喜が慶応三年(一八六七年)十月、太政官を奉還し、三百年にわたる江戸幕府と鎌倉幕府以来続いた七百年にわたる武家政治が終わりを告げ、政治の大権が天皇に移ったことである。日本の政治も文化もここを境とし、文字どおり一新した。

  なお、明治新政府がつくられると同時に、藩はなくなり、これに代わる地方区域として府と県が置かれた。ただ、はじめは府県といっても旧藩領をそのまま踏襲したもので、その長官である知藩事にも旧藩主がそのまま任命されたのである。

  明治天皇が下された廃藩置県の詔書にもあるとおり、実質的な中央集権の実がこれではあがらなかった。そこで断行されたのが明治四年四月の廃藩置県である。

  当初設置された加賀での金沢県、大聖寺県が明治四年(一八七一年)十一月に至って、加賀一国が金沢県となり、能登一ヵ国と越中射水郡を合わせて七尾県が成立した。明治五年(一八七二年)二月、金沢県を石川県に改め、同年九月七日になって七尾県を合併してほぼ現在の区域をもつ石川県が成立した。最終的に現在の区域が決定したのは明治十六年(一八八三)のことである。

  県庁ははじめ金沢に置かれたが、途中明治五年(一八七二)から六年にかけてしばらくの間、美川町に移ったことがある。この時美川町の属する石川郡の名をとって石川県とした。

  当時の県の長官は「県令」と呼ばれたが、明治四年初代金沢県令として着任したのほ薩摩出身の内田政風であった。現在のように県知事が県民の選挙でえらばれるようになったのは第二次大戦後のことである。それまでは中央政府の官吏として派過されてきたのである。

    詔書 (廃藩置県)

 朕惟フニ更始ノ時ニ際シ内以テ億兆ヲ保安シ外以テ萬国ト対峙セント欲セハ宜ク名実相副政令一ニ帰セシムヘシ

 朕曩ニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ新ニ知藩事ヲ命シ 各其職ヲ奉セシム 然ルニ数百年因襲ノ久シキ或ハ其名アリテ

 其実挙ラサル者アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ萬国ト対峙スル事ヲ得ンヤ 朕深ク之ヲ慨ス 仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト

 ナス 是務テ冗ヲ去り簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ政令多岐ノ憂ヒナカラシメントス 汝群臣其レ朕カ意ヲ体セヨ

 

第二節 姓と戸籍

 

  明治三年(一八七〇)三月、これまで武士でなければ許されなかった姓が、百姓、町人にも許されることとなった。

  明治五年(一八七二)壬申の年、調査を行って新しい戸籍を作った。これを壬申戸籍という。この戸籍の届け出のため肝煎など村の学のあるものにたのんで、急いで苗字をつけた者が多かった。また、村の北の方に住んでいるから北村、中の方に住んでいるから中村などとつけたと村の古老の人達が語っている。

  昔は村の肝煎の家を「きもんど」または「きもんどん」、村で初めて出来た家を「もとさ」といい、「やすべえどん」「ひょうすけどん」など、どのついた家は当時は村の上位にあり、さのついた家は中流に多かった。

  戸籍は部落ごとに作られ、その区内の世帯ごとに番地をつけ、士族、平民の別、職業、続柄、出入り関係、氏神、寺などが登録され、戸長がこれを取り扱った。

  これは人民と納税者をはっきりつかむことが目的で、徴兵制度と大いに関連したものであった。戸籍簿の末尾の「檀那寺」に、これまでの宗旨人別帳以来のつながりがみられ、「氏神」にこのころ抬頭して来た神社の位置がうかがわれて、過渡期の様相が出ている。一人一人に氏子札が渡されて神社に登録され、氏子の確認が行われた。

 

 

第三節 地租改正と地券

 

  明治十年(一八七七)頃、地券なるものが発行され、土地の所有者に一筆ごとに交付された。これは明治新政府が着々と中央集権の体制を整え、軍事、教育、殖産など、国の施策を遂行するために必要な税制を確立し、国家財政の確立、強化を図る上からきた「地租改正」の証拠物である。

  この地租改正は明治六年(一八七三)から全国的に取り組まれた。その作業は課税の標準を地価におき、年々の税率を一定にする(一〇〇分の三)、金納に改めるなど、徴税方法を決めるとともに、課税の対象となる全国津々浦々の土地の正確な把握を行うことによって進められた。一筆ごとに地目、段別、所有者、地価、地租などを調査し、明治十年にこれを基にして土地台帳が出来た。と同時に所有者にこの地券が交付された。

 

 

第四節 行政区域の移り変わり

  末端の町村(現在の字)を制度上いかに中央集権の枠の中にとりこむかということは重要視され、さまざまの変遷を経て来ている。村の統合は直接村民達に関係あることであり、また従来からのつながり、慣行などがあって為政者の思うとおりにならなかったようである。そんな関係でいろいろな制度が出来、また消えていったのである。

  旧藩時代の十村組織は明治三年(一八七〇)九月、郷長と改められ、さらに里正とあらため、組(従前十村の管轄区域)を管轄させ、各村に触次、肝煎、組合頭を置いた。本格的な改革に手がつけられたのは、翌四年(一八七一)戸籍法の布告に応じて制定された「区」の成立以後のことである。この「区」ははじめ戸籍法による戸籍事務のみを取り扱うために設けられ、区ごとに「区長兼郷長」を置き、元の里正の事務を引き継いだ。

  翌五年(一八七二)には一般行政事務を取り扱うことに改められ、石川郡は十三大区にわかれ、さらにこれを「小区」にわけた。このとき大区に区会所を設け、「戸長兼細長」を置き、小区には「副戸長兼副郷長」ならびに「副戸長兼郷長並」を置いた。戸長は郷長を兼ね、副戸長は副郷長を兼ねたが、郷長は自治的な行政の、戸長は官治行政の機関であった。

  同年七月には大区、小区の制を改めて「第何区」「何番組」と称し、また職制も改めて区は「戸長」番組は「副戸長」または「副戸長並」に管轄させた。

  またこの頃各村に置かれていた触次、肝煎を「村総代」に、組合頭を「助役」に改めた。明治六年(一八七三)、何番組を廃し小何区と改めた。

  明治九年(一八七六)、石川郡は第十一大区となり(大区は後の郡)、大区はさらに八小区(小区は後の町村)にわかれた。大区には「区長」および「副区長」を置き、また各小区には「戸長」一人を置き、小区にはさらに五十戸以上二百戸ごとに「副戸長」を置いた。このようにして一応の行政組織が出来あがった。

  明治十一年(一八七八)七月二十二日、郡区町村編成法が制定され、「大区」「小区」を廃し、府県のもとに郡、区、町村を画し、郡役所の位置を定めた。また、戸長公選仮規則によって、戸長、副戸長は公選となり、数十村の連合体を編成し、戸長役場が設けられた。これは「何村外何ヶ村戸長役場」と称し、看板や印鑑にはその町村名を列挙することとされた。また、小区ごとに町村会が生まれたが、くわしいことはわからない。維新後町村制にいたるまでの各字変遷のもようをわかりやすく書いてみた。

 明治五年(一八七二)十一月現在町村区画

  加賀国第三区   石川郡

   一番組

    上林・上新庄・下新庄・今西・木津・安養寺・部入道・柴木・七原・知気寺・荒屋・道法寺・熱野

  加賀国第四区   石川郡

   六番組

    末松・中林・清金・藤平田・藤平田新・粟田新保・町・乾垣内・専福寺・長竹・福正寺・三十苅・四十萬

  加賀国第五区   石川郡

   六番組

    太平寺・位川・下林・三納・矢作・馬替・額新保・大額・額乙丸・額谷・高尾・窪・久安

 明治九年(一八七六)の町村区画

 

  区と何番組の呼称が大区、小区になった。大区には大区区務所が置かれ、区長および副区長が置かれ、小区には戸長が置かれた。

  石川県第十一大区   加賀石川郡

   小五区

    旧富奥の各字全部、それに額谷・額乙丸・額新保・大額・堂・曽谷・後谷・野々市・野々市新・倉ヶ嶽・馬替・坂尻・三十苅・四十萬・乾垣内・今西・針道・橋爪・橋爪新・幸明・長竹・町・福正寺・木津・行町・安養寺・七原・日向・専福寺・坊丸・徳丸・乙丸・二口・来間・倉光・三浦・平松・管波・明法島・井口・知気寺・道法寺・熱野・部入道・荒屋・柴木・大竹・森島

 明治十七年(一八八四)の町村区域

  藤平田村戸長役場

   上林・中林・下林・位川・矢作・三納・藤平田新・藤平田・粟田新保・下新庄・清金・末松・大額・額新保・額乙丸・額谷・三十苅・四十萬

    村数 一九  戸数 六八〇  人口 三、五四八人

  野々市村戸長役場

   太平寺・野々市・馬替

    村数  三  戸数 四八一  人口 二、三一三人

  木津村戸長役場

   上新庄・管波・乙丸・針道・田地・来間・坊丸・矢頃島・吉田漆島・向島・木津・安養寺・藤木・今西・七原・柴木・行町・部入道・内方新保・寄新保・安吉・上島田

 戸長役場は戸長の私宅や民家を借りたが、藤平田村戸長役場は戸長の岸秀実の私宅があてられた。

  戸長の職務

   布告、徴税上納、戸籍、徴兵、災害救助、篤行具状、就学勧誘、官費による土木事業について具状、その他協議費支弁事業の管理となっていた。

 

 市町村制施行後   明治二十二年(一八八九)四月一日 旧富奥村誕生

 

第五節 富奥村の成立と村役場

 

  明治二十二年(一八八九)の大規模な町村合併は新しい「市」「町」「村」を編成しなおした。この新しい町村を「市制、町村制」によって運営していくことが課題であった。

  石川県も県庁に町村取調委員会を設け、各郡役所と連絡し、合併作業を続けた。戸数は大体三〇〇から五〇〇戸を標準とし、区域は出来る限り連合戸長役場の区域を尊重した。こうして戸長を町村長に改め、これを公選することとし、ここに憲政自治の体制は不完全ながらも確立された。

  この時富奥村も誕生したのである。区域は藤平田村戸長役場に所属の旧富奥村の各字と、野々市村戸長役場に所属していた太平寺、また木津村戸長役場に所属していた上新庄を入れた十四ヵ村をあわせたものである。また、村名を富奥とした。富奥村の由来は従前最も関係があった富樫組・中奥組の各一字をとり、富奥村としたものである。

  当時県知事が郡長、戸長および村総代に対し、富奥村に合併する案について諮問した書類には「何れも地形を接し風俗、人情を同じくするにつき、適当な合併なりと口答にて答申せり」となっている。

 村役場

  当時の書類がないのでくわしいことはわからないが、お年寄りの話によれば、役場は最初中林の現在の向田氏宅の所に建てられ、どこかの民家を改造したものらしかった。大正六年、現在の野々市町第二保育所のところに移転され、昭和三十年、野々市町に合併するまでそこで村政の事務がとられた。

 

 

第六節 県会

  県会は明治十一年の府県会規則によって、明治十二年初めて開かれることになった。府県会規則によると、選挙区は現在と同じような郡区(区は現在の市)にわかれ、議員は満二十五歳以上の男子で、県内に本籍を有し、満三年以上在住し、地租十円以上を納める者、と規定されていた。

  立候補の制度が現在のように明確になっておらず、このため二つ以上の選挙区で選ばれることもあり、そのときはどちらでも当選すればよかった。有権者は二十歳以上の男子で、地租五円以上納める者とされ、投票はあらかじめ郡区長から渡された投票用紙に立候補者の住所氏名と投票者の氏名を記入し、投票日に提出するのだが、そのさいは代人投票でもよいという悠長なものであった。また、議員に歳費がなかったのも現在と違っていた。石川郡からの県会への議員定数は最初は四名であったが、明治十六年には五名となった。

 富奥村より県会議員となった人

  氏   名  当 選 年 月 日    備      考

  黒川安太郎  明治一九・ 三・ 二  補欠選挙によらないで郡でかねて選出されていた県会議員補欠員から補充された

   〃     〃 二〇・ 八・一〇  上と同じ

  永寛 敬信  〃 三一・ 九・ 五  補欠選挙

 付記 野々市町と合併後

  河村好一郎  昭和四六・ 四・一一

 

 

[part1] part2へ >>

富奥郷土史