<< part1へ [part2]

==第七節 郡制と郡会==

 

第七節 郡制と郡会

  明治十一年(一八七八)、郡区町村編成法により「郡」が正式に国の行政機構の一部となった。この郡制は当時は末端町村がいまだ旧藩時代そのままの状態で、成立まもない県が直接これを掌握することはきわめてむずかしいことであったから、県と末端町村の中間にあって町村の指導をより徹底して行う目的でつくられたもので、石川郡では松任町に郡役所を設けて郡の行政事務をとらせたのである。

  しかし、府県と違って郡には課税権がなく、郡の支出にあてる費用は郡有財産から生ずる収入、その他雑収をもってこれにあてるほかは郡内各町村に分賦した。その分賦の割合は、各町村前年度の直接国税および府県税の徴税額によったものであり、各町村の分賦額は各町村でこれを町村予算に編入、町村税として徴収し、その総額を郡金庫に納入したものである。

  明治二十三年には新しい府県制、郡制がしかれ、二十四年議決機関としての郡会が発足した。

  当初の郡会は地価一万円以上の大地主から互選された者三分の一、ほかは町村会の議員から復選されたもので組織し、任期は六ヵ年の半数改選であった。しかし、これでは民意が反映しないとの理由で、同三十二年に改正されて、一定基準の有資格者の中から選挙して選ばれることになった。石川郡の議員定数は三十六名、四年の任期であり、名誉職であった。

  郡政は土木、教育、勧業、諸団体の補助などについて郡長が執行するたて前であった。毎年、村政や小学校の検閲を行うなどなかなか権威のある存在であった。

  しかし、大正に入り、町村自治の成長、事務組織の簡素化などの問題で同十二年に廃止された。

 明治二十二年四月一日現在  石川郡内町村名

   美川町   比楽島村  蝶屋村   福留村

   柏野村   笠間村   笠島村   一木村

   出城村   御手洗村  旭 村   安原村

   郷 村   中奥村   林中村   小島村

   館畑村   林 村   蔵山村   河内村

   吉野谷村  額 村   富奥村   野々市村

   押野村   三馬村   富樫村   野 村

   内川村   犀川村   湯浦谷村  崎浦村

   米丸村   二塚村   松任町   鶴来町

   大野村   上金石町  下金石町  戸板村

   鞍月村   弓取村   潟津村   粟崎村

 この四十四町村を十九町村に合併する案が明治三十九年六月一〇日にできていた。

   夏水村(比楽島・福留・柏野・一木を合併)

   木曽村(蝶屋・笠間・宮保を合併)

   大伴村 (出城・御手洗を合併)

   椋部村 (旭・安原を合併)

   中富郷村(郷・中奥・富奥を合併)

   富樫村 (野々市・押野・三馬を合併)

   鞍池村 (蔵山・林・額を合併)

   富泉村 (山鳥・林中・館畑を合併)

   大神村 (河内・吉野谷を合併)

   山崎村 (犀川・湯涌谷・崎浦を合併)

   蓮湖村 (潟津・粟崎・大野を合併)

   平岡村 (戸板・大野を合併)

   丸塚村 (二塚・米丸を合併)

   麻江村 (鞍月・弓取を合併)

   金石町

   松任町

   美川町

   鶴来町

  これを変更してさらに十五町村にしようとの計画があったが、ついに実現に至らなかった。したがって四十四町にとどまった。

  明治三十九年九月三日の富奥村会々議録には「富奥・中奥・郷村の三ヵ村合併に関する諮問の件」として議会に上程され、全員この合併案に賛成していることが記されている。

  翌四十年二月八日の村会には「本村外二ヵ村合併村名に関し、県知事へ意見上申方諮問の件」が上程され、村名を大石村とすることに意見上申することに全員賛成決議がなされている。

 富奥村より郡会議員となった人

  永寛 敬信  明治二十七年八月当選       明治二十九年八月 辞

  小林千太郎  明治三十六年九月当選       明治 四〇年九月 満

  古源栄次郎  明治四十四年九月三十日当選    大正  四年九月二十九日 満

  松本太郎吉  大正  四年九月三十日当選    大正  八年九月二十九日 満

  小林千太郎  大正  八年九月三十日当選    大正 十二年三月三十一日郡制廃止

[part2] part3へ >>

富奥郷土史