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第十一章 産業と経済

 

==第一節 土地の所有権とその動き==

 

第一節 土地の所有権とその動き

 一、土地の所有権配分

  藩政時代の百姓は藩主所有の土地を耕作して、出来た米はほとんど年貢米として納め、残ったわずかの米は百姓が生命を維持し、再生産に当たるにも事欠くようなみじめな処遇であった。明治時代になると、まず第一に石高制度を改め、測量による地積反別に改められた。即ち、土地の地目を田、畑、宅地、雑種地、山林として登記し、国民一般にその所有権が与えられるようになった。

  次にこれらの土地はそれぞれ賃貸価格が定められ、民有地には全部地租税(金納)が課せられることになった。

  このような土地所有権が民有に改められたことは、当時として実に大きな改革であり、明治維新の意義あるゆえんであろう。なお、この所有権の配分方式は、藩政時代最後の田地割(第五章四節参照)決定によるもので、それが各農家の間に貧富の差を作ってきたわけである。この最後の田地割は各村同時期でないが、まだ封建社会のなごりが消え去らない明治十年前後の頃であった。従って今日、われわれの考えるように民主的な、公平な田地割配分方式であったかどうか、疑問の点も多々考えられる。即ち、村内農民間にはいまだに伝統的権威を堅持する村役農民から、頭振り百姓の農民までがあって階層意識が強く、この階層意識が最終田地割にどのように影響していたか、また、一方で年貢米を第一義に考えた当時の農民に、田地所有権の意義を理解した強い関心があったかどうか。ともかく、どの村も大きなトラブルもなかったらしい。そして、所有権を得た実感や生産意欲の増進も、その後徐々に昔語りとして伝えられている。

 二、所有格差の拡大と小作争議

  配分の方式よりさらに大きな影響を与えたのは、所有権を得たため、土地の売買が自由になったことである。病気など不幸が続いたり、一獲千金の夢に引かれて馴れない商売や企業に手を出し、借金の利息に追われて、せっかく所有権を得た田を売り出して小作百姓に陥る者、田地ばかりでなく家屋敷まで売り払って村を去る者が、各村に例外なく数名は出来た。そのため次第に地主、小作の格差が増大し、不在地主も多く現われるようになり、年貢米に相当する小作料に追い回される貧困な農家も出るようになった。

  この小作と地主関係はさらに小作権が介在し、この小作権の売買まで行われるようになった。この小作権購入金をザル代といい、地主と小作者以外の第三者がザル代を出して小作権を買うという中間地主が現われたり、小作者が小作権だけを売るという不安定な小作者が現われ、遂に小作争議が起こる事態をも招いた。このような争議は共存共栄の農耕生活を営む農民達には実に不幸なことであり、各部落ごとにさまざまの防衛策が考えられた。その一例として藤平田新区に残された区内契約証を次に掲げよう。この藤平田新区の農地所有形態は地主に相当する者がなく、自作者と小作者のみの構成であったため、小作者防衛の契約が強力に主張されたものであろう。

  契約証(藤平田新区)

  従来、本区から他町村等へ売却した土地を近頃、好商人らが地主に向かい他へ高価に売却方、または小作替えを勧誘するもの、あるいは地主が作徳米増収の目的をもって小作替えをするなどの手段を用いるものがある。このため作徳米の増高、あるいは小作替えなどのおそれが出ている。元来、小作人が土地を売却するときは、永代小作の目的をもって第一に作徳米が小額になるように考え、従って売買価格も時価相場より幾分低価をもって売り渡したものである。それなのに後日に至り、作徳米の増高を釆たし、あるいは小作替えなどが起こるようでは、小作人の不幸これより大きいことはない。よって今回、区一流の徳義を守り、小作人の保全を図るためここに次のように契約する。

 一、小作地を好商人らが自分の利益を得るため地主から買い出し、区内有力者に向かい買い受け方を勧めることがあっても、小作人の不利益と認めるときは一切これに応じないこと。

 ただし、小作人の承諾を得たものはこの限りではない。

 一、地主が故意に従来の小作人に卸付をせず、他人へ卸付を命ずることがあっても、前小作人の承諾のないものは一切作付方を引き受けないこと。

 一小作人がいない土地は区内一統協議のうえ作付けするものとする。

 一、本区内土地が公売に付される場合は区内一統協議のうえ買い受けるものとする。

 一 本契約以後は壱歩に付き四合以上の小作を受けないこと。

 一、本契約に違反した者は絶交するものとする。

  右の契約を堅く履行するため左に記名調印する。

  明治四拾五年壱月弐拾五日(明治三十九年既に小作契約証が出来、内容同様)

     石川郡富奥村字藤平田新区

           八戸主署名捺印

  以上の契約証は区内規として、農民相互の契約であったが、さらに強固な法的根拠を有する「小作実行契約書」なるものが昭和八年に出来ており、その内容の異なる部分を記すと、

  第四条 小作人は以上の契約事項を確守することはもちろん、自己のみの悪計をもって他の小作人に不安の念を抱かせたり、その悪計が露見したときは各小作人協議のうえ相当の制裁を加え、その発見人に対し報酬を呈するものとする。

  第五条 小作人間において作付けの異動が生じたときはすみやかに区長に申告するものとする。

  第六条 本契約を小作人間において一層確実に励行するため毎年一回、小作人会合を開くことにする。

  第七条 本会合に不参加者があるときは不参会違約として金壱円を徴収する。

  第八条 右徴収金は当日の会合費とする。

   契約者は八戸主自署捺印、司法代書人名印

 三、戦後の農地改革

  終戦後の混沌とした国政の中で、占領軍の至上命令が唯一の権威をもっており、彼らの構想によりまず民主的改革として財閥の解体、労働者の解放が即時促進され、その趣意から急激に実施されたのが農地改革であった。昭和二十年十二月九日、連合軍総司令部からいちはやく出された「農地制度改革に関する覚書」に基づき昭和二十一年十一月二十一日、農地調整法施行令、同施行規則が公布され、続いて十二月二十日、富奥村農地委員選挙が行われ、続いて同年同月二十八日、自作農創設特別措置法施行令、同施行規則が公布された。これらの二法はわが国古来の農政観念と構造を根本から改革する意図をもっており、その趣旨内容を要約すると、

 一、不在地主は一切認めず、その土地を全部国が買収して、最も民主的に適切な方法で自作農創設に資す。

 一、在村地主は最高三町歩の保有面積を認め、その他は国が買収する。

 一、買収完了期間は二ヵ年とする。

 一、この事業を推進するために農地委員会を設け、委員会の構成は小作代表五名、地主代表三名、自作代表二名とする。

 一、在村地主の保有する農地の小作料最高額を決め、小作契約は一定の文書とし、地主、小作、委員会各々一通宛保管する。

  以上のような趣旨で昭和二十一年十二月、次の各委員が選出され、富奥村農地委員会が発足した。

 一号委員(小作代表)北岡清松 中野佐之助 西井秀吉 西村喜吉 中島 潔

 二号委員(地主代表 村井次一 村上弥三郎 山原七郎

 三号委員(自作代表)藤田敬治 藤多三夫 委員会事務担当者 西村久勝

  昭和二十四年にこの事業も大半その所期の目的を達成し、なお、細部の調整のため改選が行われ、次の各委員が選出された。

  森 深昌 多村武範 藤田敬治 村上弥三郎 中野久男 山原七郎 中野太茂治 藤多三夫 杉野三郎 中島 潔 北岸文雄 松本正一 委員会事務担当者 西村久勝

  このような法令による農地改革は全く予想も出来ない大改革であり、わが国古来の農地に関する慣習観念は根底から改められた。しかも、この大改革が短期間に残すところなく敢行され、とくに当村においてはさしたる混乱も見ず全く無血革命と称されるに至ったことは、もちろん本村の協調性に富む村民性にも起因するだろうが、敗戦直後、被占領下の人心定まらぬ時期であったためであろう。藩政時代、同村百姓間におけるあのきびしい階級格式が今日なおその片鱗(へんりん)を残す農村社会において、この農地改革は旧習打破の鉄槌(てっつい)のように、新しい農村の展開を呼ぶに至った。

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富奥郷土史