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==第五節 稲作農法の移り変わり==

 

第五節 稲作農法の移り変わり

 一、概要

  明治初期頃はまだ藩政下の水準を脱し切れず、旧態依然として慣行的農法にすぎなかったが、中期頃からようやく新しい理論に基づく農法の啓蒙が開始された。即ち、無学文盲の農民の後継者である子息女の就学、欧米文化の輸入にともなうわが国産業経済の進展により、まず農法開発、指導機関と施設の設立が国、県の農政部門の施策として行われ、農業の夜明けが始まった。その主なものを列記すると、

 明治二〇年「郡設模範農場」と称する農業技術指導者養成施設が野々市町に設置された。これは県下で初めての試みだが、詳細な記録など不明。

 明治二五年 農商務省農事試験場北陸支場が松任町東端に設立された。これは農業試験場の前身である。

 明治三二年 松任町に県立農学校設立。石川郡農事研究会が出来る。これは郡内で農業技術研究意欲の旺盛な青壮年が自発的に組織した民間団体で、その会員は百五十人におよび、主として稲作主体の郡中部農村の者が多く、本村からも数名会員が出ていたが、その氏名などは不詳。法律をもって農会令が発せられた。

 明治三三年 富奥村をはじめ各町村に町村農会が設立された。

 明治三四年 富奥村立実業補習学校が郡下に先がけて設立された。

 明治三六年 七ヵ用水の全面的改修工事完成。

 明治三八年 県令をもって稲苗代施設に関する件(短冊型水苗代の奨励)が発令される。

 明治三九年 輸出米検査規則発令。

 明治四四年 米穀検査員富奥出張所開設。

  しかし、古来の経験を主とする慣行型の農法は、容易に学理を主とする革新型農法を理解できず、それを受け入れるのに困難であった。

  大正時代に至って、さらに新しい農法研究が鼓吹され、ようやく老農の経験農法と学理の技術農法が一体化して、農法の究明に当たる機運になった。即ち、この頃の本村中堅農民は、古い農法で苦しい経験を経た古老に従う一方、新しい農業を学んで希望に満ちた若い後継者が壮年に達して円熟した時代なのである。次にその間の推進経過の一端を掲げると、

 1、県立農事試験場が大幅に施設拡充され、近村の三馬村米泉に移り、その機能が強化された。

 2、村立実業補習学校も拡充され、専任の農業科教員が配置され、県立松任農学校とともに農業後継者の育成に当たった。

 3、大正十一年、農会法に基づき、各部落に農事実行組合が組織され、農法技術の末端浸透に当たった。

 4、本村の各部落において耕地整理が工事完了し、農法の発達と相まって農作業は革新的に飛躍した。

 5、大正十二年、農会法の改正とともに、わが富奥村において郡下で最初の専任技術員が常置された。

 6、大正十三年、長野県の篠原式農法が紹介され、続いて富山県の高田式農法が本村に一部普及された。

 7、県令をもって田稗除却指令が発せられ、本村においても農事実行組合を通じて奨励金支給が行われ、また、メイ虫のサナギおよび卵の捕殺が一斉に励行された。

  このような大正時代の本村稲作農法改善は昭和に入り、学理の高度化とともに肥料、農機具、農薬の開発と相まって大飛躍をとげた。その過程を米の収量の数字で表わすと、本村においては松原氏(昭和耕稼春秋著者)の説のとおり、十ヵ年ごとに反当(十㌃当たり)三斗(四五㌔)の増収を下っていない。この増収率は工業生産と異なり、人為的に非常な努力と苦難がともなった結果である。

  満州事変以来続く戦役に対処し、食塩増産の国策遂行に出征兵士を送った留守居の農民は、銃後の戦士として最大の効率農法研究に励んだ。その頃は農民の自発的農法研究意欲の最高時代であった。とくに本村では青壮年の中堅農民が多数農業報国挺進隊に加わり、内原訓練所に於て畏魂錬磨に精進した。また、篤農的農法として、大井上式、田中式、黒沢式、地上式農法や直播法など種々の農法も取捨選択研究し、農法による増収の最高峰を築き上げた時代でもあった。立地条件が同じい本村においては特別際立った篤農家と称する農民はいなかったが、個々の農家がこぞって水準を高め、米産中心の石川郡内でも農家の平均産米量最高の模範的農村として、全国にその名声を知られるに至った。

  大戦はついに終戦を迎えたが、食糧難のために農村の増産体制は益々深刻をきわめ、大戦は敗れたが、農民の食糧増産戦は見事苦境を耐え抜いて経済復興の礎石としての戦果を収め得た。この経済復興は一面、国民生活水準を高揚するとともに、農業資材の開発に資し、想像も出来ない農法の近代化、高度化に貢献した。とくに本村のような耕作反別の大きい農村では、農作業の能率化で余剰労力は他の副業面に向けられ、産米増収は遂に過剰生産となり、生産調整にまで行ってしまった。そして、たくましい往時の農民も年老い、若い後継者は続々離農していき、模範的米産農村富奥の推移は、全く混沌として予測出来ない現況である。

 

 二、品種の改良

 明治の頃 

  明治前の産米は主として武士階級の俸給であった年貢米が対象であり、収量も大事だったが、品質も重視された。その頃、郡でもとくに中部平地の米作地で多く作られたのは「巾着」であった。明治になって普及した品種の第一は「大場」である。この品種は巾着を親とし、その中から生まれた突然変異の品種で、当時優良品種として広く作られた。松原氏も「わが郡稲作の大宗であった」と称し、巾着より少し早く、早中生の品質の良い品種であった。しかし、明治も晩年頃になると、どうも不安な種々の欠点が現われて来た。その事情は当時の記録によると次のようである。

 一、明治三十七年頃から化学肥料の過燐酸石灰が出回り、そのため紫雲英が繁茂した。元来この品種は耐肥力が弱いから不向きであった。

 二、倒伏しやすく、出穂後の稔実が悪くて、そのための減収が甚しい。

 三、メイ虫がまん延し、防除剤も不備であり、その被害が大きい。

 大正の頃 

  第一次世界大戦の影響で、とくに主食の米価高騰は社会不安を呼び、暴動まで起きた。農民は反対に経済的余裕を得るとともに、益々増産に専念した。本村では借入耕馬の関係上大麦裏作も減少し、早生種の単作水稲品種が期待された。即ち、「大場」に替わって抬頭したのが「千葉錦」であった。その特性を見ると

 一、大場より熟期が半月早い純早生種で、北陸の気象に合い、しかも緑肥の多用も好む品種である。

 二、大場より短稈、初期成育型で分蘗多い穂数型品種。

 三、本郡でもとくに本村のように耕土の浅い乾田地に適し、また短稈で地干しに好つごう。

 四、茎小筋と早熟なため、メイ虫被害が割合少ない。

  ともかく本村各農家では千葉錦全盛時代が展開された。それに高米価でもあり、年配の方にとってこの千葉錦の名声は懐古を誘うものがあろう。また、糯米は一般に収量が落ち、調整も手間が多かったが、農家では四季折々の行事や冠婚葬祭にモチつきは欠かせなかった。つきたての柔らかな舌ざわりの味覚は、農家ならではの味自慢の一つでもあろう。この時代は中生の「大場糯」「大正糯」「作田糯」が本村で多く作られた。また、わらが長く、品質もよい「しわ糯」も続いて作られていた。

  この時代の農業技術普及開発は村役場が主体となり、村長は村農会長を兼ねていた。次の記録は水稲種子斡旋の通知書である。

   富庶第九七九号

    大正八年十一月五日   富奥村長□

     各区長殿

       水稲種子配布ノ件

   水稲原種用トシテ本郡採種圃産種子(有償価格約現価ノ三分ノ二)配布ス可相成候条、左記二依り本月十日午前中マデニ希望ノ者ハ当役場へ印章携帯出頭ノ様、取計イ相成度ク侯也。

  追テ本文期日マデニ申出ナキトキハ希望者ナキモノト見倣シ処理可致条為念申添候

     記

 郡ニ於テ配布スべキ数量

  千葉錦     十四石

  大 場     十六石

  大場糯      十石

  大正糯      六石

  無芒愛国     二石五斗

   但シ配布ハ一人一種ニ付一斗以内トシ、三種

 以内ノコト。

 昭和前期 

  「昭和の米とかけたら農林一号と解く」-この時代の日本人のだれもが知った品種名であろう。しかも全国で作付率最高、増収率も最高が石川郡であった。

  従来の品種改良は人為的交配でなく、偶然変異の摘出に頼っていたが、明治以来農業科学の進歩が著しく、その中でもとくに力がいれられたのは品種改良の交配研究であった。国立農事試験場において並河技師が、人為的交配によって優秀なこの品種を作出されたのが最初だった。新品種が発表されるまでは数年から十数年の試験期間を要するのがふつうで、本品種の出現はまさに日本農業発達史に特筆すべき壮挙であった。次にその特性の一端を掲げると

 一、千葉錦より八㌢内外短稈で細いが、強稈であるためメイ虫被害が少ない。

 二、早期分蘗旺盛な純穂数型の早生種。

 三、葉幅狭く、直立性で耐肥耐病力が強い。

 四、玄米の形状は円と長円の中間、小粒で縦清浅く、色は透明なあめ色。腹白、心白はほとんど無く、食味もよく、品質優秀。

  以上のように好性質を備えているのと、ちょうど千葉錦にイモチ病被害が多発して不作が続き、米価が低迷していたときであり、農村恐慌の波涛を真正面に受けた米作中心の本村が挙村一致、自力による経済更生で耐え得たのに一役貢献したのもこの新品種であった。以上、農林一号は稲作の一世を風びし、もちろん県の奨励品種にもあげられ、多大の功績を残した。だが、二十年近くも連続作付けしたため、そろそろ土地あき傾向が現われ、多肥増収の意欲は品種の性能を越えて菌核病とイモチ病の被害を見るようになった。一方、農村恐慌に対処する経済更生の一翼として、稲作外の早期裏作野菜などの栽培、稲作後の出かせぎなど、副業経営が重視され、新たに早熟性の「早農林」が抬頭して来た。本種は農林一号から選出されたもので、熟期以外ほとんど農林一号に類似していた。また、裏作(大麦、小麦、馬鈴薯、玉ネギ、菜種)後の中晩生は「銀坊主」「一本」(長と短があり、短は米質より多収)糯米は大正糯、作田糯、しわ糯、早生の「平六糯」が作付けされた。

 昭和後期 

  大戦前後は非常な食糧不足の時代であり、食糧管理体制下一粒でも増産が叫ばれ、質よりも量の時代であった。大戦直後、早農林一号に替わって「藤坂五号」「十和田早生」が作られた。供米が盛んなこの時代に農家平均供出量で、本村は最優秀米作農村としてその名声が高かった。そしてこの食糧難の時代にはもっぱら米作りを中心に、産業技術を傾注して食糧危機突破に前進した。だが、近年は生産過剰による米作減反の政策がしかれ、量よりも質へと急転換、うまい米の追求が抬頭した。本村では既に「豊年早生」の作付けが全面的に多かった。この品種は純早生種で小粒穂数型に類し、食味もよく、収量も多かった。しかし、コンバインやバインダーなどの機械化が進んだ今日は強稈の「かがひかり」、消費地の食味評価に重点を置く「こしひかり」と賛否さまざまで、万能品種の出現が望まれている。また、本村では酒米用品種「五百万石」も相当多く作られており、精米も品質のよい多収早生の「石川もち」や「かぐらもち」なども多く作られている。

 三、作業と農具

 苗代 

  むかしの苗代はみな平まき法であったが、明治三十八年、県令をもって短冊型播種法を極力奨励したため、本村においても全農家に普及するに至った。これは平床に幅四尺(一・二一㍍)短冊に播種する方法で、その間隔幅約一尺(三三㌢)が播種後の管理上非常に好つごうであった。大正末期頃から上げ床苗代(畑の畦のように切り上げた短冊苗代)も奨励されたが、広く普及しなかった。戦後芽出しの種をまき、燻炭覆土をして油紙で覆う保温折衷苗代が普及し、促成健苗として効果があった。ついでビニール資材が豊富に出回り、割り竹でトンネル型に覆うトンネル苗代や、全く水耕しない畑地に芽出し種子をまくトンネル型の冷床苗代(温床でない苗代、陸苗代、畑苗代ともいう)が一層健苗作として普及された。最近(四十七年頃から)は田植え機導入に応じて、箱まき(農協で発芽)催芽、ビニールハウス内の緑化育苗が行われ、田植え期も四月下旬頃、短日数でしかもごく小労力で簡単に終え、田植え歌など牧歌的な農村風情はエンジンの響きとともに消え失せてしまった。種もみの塩水選は大正の頃から励行され、大正末期から昭和前期頃、苗代消毒に石灰ボルドー液散布が普及し、戦後は種子消毒(ウスプルン液)や苗代消毒(病虫とも)の薬剤が出回るようになった。以上のように苗代だけでもその高度化の変遷は目覚ましい進展であった。

 

 

 耕起と整地

  水田の荒起こしは、明治時代になるとほとんど馬耕に改められた。耕馬を飼育する農家は多少あったが多くは季節的借馬であった。本村のような平地では馬耕以外、馬の背に頼ることも少なかった。これらの耕馬は主に山間地の山村や晩生地方から賃借りすることが多く、大正時代に耕地整理が全面的に完備されると、一層馬耕が盛んになった。

  村農会は奨励金を下付して季節借馬の集団斡旋を行った。借り先は主として晩生どころの福井県で、五~六頭、手綱を数珠つなぎに長くつらね、北陸道の松並木の間をちらほら往来する風景は、郷土の風物詩でもあった。約一ヵ月余のきびしい春耕を終えて帰る頃は、もののたとえにも「田馬上がりのように」と称するようにやせ衰えていた。次に当時の村農会が募集した耕馬斡旋通達書を掲げよう。

   富農特発第一号

     昭和二年一月六日 富奥村農会

   各区長殿

     耕馬斡旋ニ関スル件

   本年度当村農会ニ於テ昨年ノ通リ耕馬借入斡旋ノ予定ニ候条、御多忙中

   恐入候ヘ共、貴区内希望ノ向ハ、別紙申込書御配布ノ上今月二十日迄ニ

   当村農会宛御申込相成様御配慮被下度此段御依頼候也

   追而同日迄ニ申込無之向ハ希望無之モノト認メ処理可致候

     耕馬借入奨励金下附申請

   貴会ノ斡旋ニ依り左記ノ通リ耕馬借入候間相当奨励金御下附相成度此段

   申請候也

     昭和二年  月  日

           富奥村字

    富奥村農会長 小林千太郎殿

        記

    一、耕馬借入期限

            

  昭和の戦役拡大時代を迎えると、軍馬の徴発が増々激しくなり、耕馬に替わって和牛の導入が急増した。これも農会組織で斡旋し、遠く島根県から貨車積みでかわいい和牛の子牛が続々松任駅に到着した。本村でも飼育数は約三百頭におよんだ。和牛は馬よりも粗食であり、繁殖も容易で、自給肥である堆厩肥増産にも好つごうてあった。また、牛耕は馬耕より使役しやすく、婦人牛耕の講習会などが開かれ、出征兵士を送った留守家族の婦人の牛耕が盛んに行われた。とくに本村の太平寺では、水田畜力除草まで試みられた。

  耕耘農具としての鋤(スキ)は明治前からの長床スキやたんころスキに替わって、明治中期頃から左右ひら返し出来る軽量の松山式スキが長野県から導入され、さらに深浅両用の荒木式が富山から入った。その後、県内産の北川式、昭和に入りパイプ製のごく軽い中幸式、二段スキなどが本村で多く使用された。また、砕土用として大正頃から鎌鍬(かまんが=鉈鎌ともいう)が使われ、昭和に入り廻転式の砕土機として古川式砕土機が多く本村に使用され、能率と労力面が一層改善された。

  牛耕は戦前戦後長く続いたが、自動耕耘機の出現で和牛の飼育も急に消え、これに替えて酪農を試みる者もいた。

 自動耕耘機は戦前すでに試作されていたが、本村で本格的に普及されたのは戦後経済復興に至ってからであった。初めにクランク型の広瀬式、スクリュー型の古川式、その後ロータリー型の久保田式などいろいろなメーカーの機械が続々出回り、年々その性能も改良されてきた。近年(四十八年頃)から小型トラクターが導入され、一切の耕起砕土整地が、機上に座しながら操作出来、労力節減、能率の大飛躍などで農業近代化も増々高度になってきた。

 

 

 

 

 

 

 田植え

  耕地整理が出来ていない明治時代の田植えは、正条植えが困難で、縄を張り、早乙女(そうとめ)が後退しながら植えなければならず、非能率的な作業であった。大正二年、郡農会の吉本永次郎氏(林中在住、県、郡全議員、郡農会長)が新潟県へ視察に行った際、六角形回転正条植え器(埓枠)を求めて本郡に導入、本村ではちょうど耕地整理直後で全面的に使用された。田植え作業は早乙女が主体で、男は苗取り、苗運び、わく回しなどの作業をした。大正時代から部落で共同田植えを実施したところも少なくなかった。

  昭和に入り、米麦単作経営から種々の副業を加えた複式経営が盛んになると、田植えの共同化は困難になり、村外の移動労力を導入するようになった。各農家ごとに山間村、能登、富山方面の晩生所から多数の雇用労力が入った。とくに本村は平均耕作反別が多い関係上、田植えや稲刈りでは季節集中労力が必要であった。田植え季節になると労働時間を統一するため、朝おり、昼上り(ひらがり)、昼おり、夜田上り(よだがり)、たばこ(午前午後の小休憩)と、各部落とも大太鼓を打ち鳴らして合図した。田植えが終わると、苗の活着上当分田へ入らず、骨休めのためにさつき休みと称する部落ごとの公休日が二日間ほどあった。各家ではモチやおはぎを作って親類へ配り、また、部落ごとの団体行楽行事など、田植え作業中からその計画が楽しくねられていた。戦後機械化や兼業農家経営のため、各戸の農業形態がばらばらとなり、田植えの太鼓も鳴らず、部落の公休日も有名無実になってしまった。

 

 

 

 

 中耕除草

  むかしの中耕は株間を軽い鍬(クワ)で浅く反転するように打ったが、大正頃から回転式のラチ打ち機が出来て、子供でも手軽に使えるようになった。縦の一番ラチ、横の二番ラチと能率よく便利であった。除草も荒草、かき回し、ねりつけと三回行った。昭和に入って舟型の除草機が使われるようになったが、やはり手取りもしなければならなかった。三番のねりつけ除草は止め草といって六月下旬頃から行い、農作業中最も苦しい労働であった。流れる汗、腰の痛み、稲葉にすれる首、葉先で目を突くから網面をつけた。さらに泥んこの手足、土をかく指先の痛み、日長の終日作業は実に精力消耗も甚しい忍苦の作業であった。牛耕盛んな頃、太平寺で和牛を使って畜力除草が試みられた。青田の中で巧みに牛を使役するのに相当熟練した技術を要するので、一般に広く普及するに至らなかった。戦後いろいろな農薬が開発され、除草剤も効率の高いものが出回るようになり、困難な中耕除草も農薬散布と水管理するだけになってしまった。 

 

 

 肥料

  むかしの水田肥料は人糞尿、草木灰、雑草や紫雲英の緑肥が主なものであった。これらは全部各農家で自給されていた。とくに明治から大正へと道路の開発が進むにつれ、金輪の荷車が使われるようになると、金沢・松任・鶴来などの近接町へ人糞尿の汲みとりに出かけた。だしょけ(駄桶)と称するふたのあるおけを数個並べた荷車を引くのは、当時のデコボコ道路では大変であったので、子供達まで車の先引きの手伝いをした。これらの人糞尿は大きなおけに貯え、そのおけにわら屋根がふかれて路傍にずらりと並んだ景色は、当時の農村風物の一つでもあった。

  また、人糞尿の水田施肥も重労働で、たごけ(手桶)二個を天ぴん棒でかついで(約三十八㌔)稲株の間を歩きながら、ひしゃくで均等にまく作業は、決して安易な仕事でなかった。その他の肥料は金肥と称し、金銭購入する魚かすや菜種、大豆の油かす類であったが、購買力のある農家でなければ十分に使うことが出来なかった。大正年代になると化学肥料として硫安や過燐酸石灰が使われ、次第にその使用量も増加してきた。昭和に至ると種々の化学肥料が生産され各要素を適当に含有した配合肥料や化学肥料が使われるようになった。また、その肥料形状も粉末から顆粒、粒状と施肥に便利なもの、種々の要素を配分したもの、速効性、遅効性のものなど実に便利な肥料が出回るようになり、増収以上に生産費も高まってきた。しかし、戦時中は軍需生産のために農業生産資材全般の供給は激減したので、むかしにもどって自給肥料が奨励され、緑肥や堆厩肥が増産されるようになった。戦後は経済復興とともに一層すぐれた化学肥料が続々生産され、自給肥料は全く使われず、ついに長い間水田肥料に重きをなしていた紫雲英も姿を消してしまい、稲作農法の高度化とともに化学肥料万能の時代になってしまった。

 

 

 

 病虫害防除

  病虫害に対する昔の農法は、その予防より発生してからの駆除が主体で、それも甚だ原始的であった。例えは稲苞虫の発生には竹ぐしで稲の葉をすいて、苞虫の幼虫を水田に落とす方法から、夜露の葉に消石灰や煙草の粉末をまく駆除法、二化メイ虫の卵を捜すことや、わら株のサナギをかき取る方法、稲葉の朝霞をさおで払い落として稲熱病を予防するような状況であった。大正時代になってようやく農業科学の進歩にともない、硫酸銅の石灰ボルドー液散布で、稲熱病や野菜の病害予防法が普及し、初めて噴霧器が使われた。昭和年代に至っても病虫害の防除法は一向に進展せず、戦後、米国から有機燐剤や水銀剤の強力殺菌殺虫剤が輸入され、さらに国内生産に移ってから飛躍的に農薬の開発が進んだ。水稲単作が主である本村などこの農薬により米の増収に貢献することが出来た。また、散布方法も手動式からエンゾン装備の噴霧機、散粉機、軽量小型で能率的なものなど種々改良され、消毒作業も手軽になった。薬剤も水和剤から粉剤へと種々新製品が出来た。最近はこれらの毒物性による直接間接的被害も現われ始めたので、農薬の試験研究も国家規制と相まって重視されるようになった。

 

 

 収穫調整

  稲刈りは明治、大正間はむかしのとおり三珠一把の束立刈りであった。耕作反別が多く、しかも大部分早生であったので、稲刈り、結束、にょ積みと一時的に猫の手も欲しいほどの手不足だった。本村では水稲耕作規模の割合小さい近村の山麓部落から、稲刈り人夫を多く雇い入れた。昭和の頃から能登や富山方面から住み込みの男女が毎年多数雇い入れられ、とくに戦時中出征留守農家では好つごうであった。昭和に入り、動力脱穀機を使うようになると、刈り倒し地干しになったので、能率も一段とよく、また十分地干しが出来たのでもみ干しも少なくなった。稲こきは大正後半頃から足踏み式回転稲こき機が使われるまで、千歯こきを使用していた。この千歯こきは、やた(完全に脱穀されない穂切)がたくさん出たので夜なべ仕事に子供まで手伝ってきねでやた打ちをしなければならなかった。間もなく石油発動機が普及するようになると、脱穀作業は飛躍的に便利になった。しかし、発動機が導入された大正末期頃は、脱穀機が蜃成しておらず、主に土うすによるもみすりに使われ、その発動機も数戸の共同購入であった。その頃、用水の豊かな水流を利用したらせん型の軽便水車を使用した部落も少なくなかった。これはロープのベルトで遠くまで回転動力を引いて、うすすりや足踏み式稲こき機に利用された。また、冬季副業のわら仕事の製縄機にも利用されていたが、発動機の普及、電動機の導入につれその姿は消えた。昭和十年前後から電力利用の電動機(一〇〇V単相)が脱穀機とともに備えられ、従来水田内で行った発動機による脱穀作業が、屋内作業に変わり、そのため広く明るい屋内作業場が続々各農家に建設された。三相電動機(二〇〇V)が付設されたのは戦後であって、その後自動脱穀機、送塵機連結、さらに最近はコンバインも順次普及して、稲刈り作業も脱穀作業も機上の操作で簡単に能率的に出来るようになった。

 もみすりは大正の末期頃までは土うすで、初めは人力だったのが動力になり、間もなくこれに替わって岩田式もみすり機が村内所々に使われた。これは発動機の回転遠心力でもみがゴムの側壁にすれて脱擁する方式で、次にゴムロール回転方式に改められた。千石どうしは二流から三流の万石どおしに改まり、さらにもみすり機に直結し、昇降機やスロアを内蔵した自動的一連の流れ方式の便利なものが開発され、作業労力軽減と能率本位の優秀な農機が続々出現している。また、最近は稲やもみ乾燥も天日によらず、大型の熱風送風構造の乾燥機が導入され、望みどおりの乾燥が短時間でできるようになった。その他長らく農家必携の荷車も昭和三十年頃から姿を消し、これに替わって小型トラックが整備された農道を走り、どの農家にも購入され、旨い男女の誰もが運転出来るようになった。そしてすべての作業は全く能率と労力の軽減において隔世の変革をなし、農法の近代高度化の時代を迎えるにいたった。

 

 

 

 結俵

  俵の量目は明治の頃四角い斗枡(とます)で四斗入れであったが、大正の頃から丸いおけ型の斗枡に改まった。この枡目量は測り方によって不正確になり勝ちであり、米の品種により粒の大小が一定でないため戦後は一俵六十㌔の重量に改正された。俵は四ほ編み(四カ所編み)の単俵(編みなあ二本)であったが、昭和の頃三ツ編み(編みなわ三本)の厚い俵に改良された。この俵編みは長い上等のわらを用い、冬の農閑期に各農家で吟味して編まれた。さん俵は石のつきうすの上で足で踏みながら、わらを組んで編むので冬は寒く夏の農繁期の合い問に作った。結俵は横なわ五ヵ所、縦なわ一ヵ所(三ッ編みは二ヵ所)結び、さん俵は少し細い目ぬきなわを組んで結んだ。この結俵は足でけりながら手でしめる力仕事で、一人前の男の作業であった。戦後わらむしろのかます俵も用いられたが間もなく南京袋(ジュート織りの袋)に改まった。南京袋以外はすべてわら工品で結俵された。古来から何事も自給自足する農村の慣例であろう。

 

 

 

 

 四、産米検査と販売

  産米販売は必ずその前提に検査が行われる。これは商品化にともなう自主規制でもあり、明治の初期は県外移出米のみに行われたが、明治四十四年初めて各町村に米穀検査員が配置され、全産米の検査が行われるようになった。大正三年、産米検査員と、県産米の信用確保の必要上移出米検査員の二種とし、同五年に米穀検査所を穀物検査所と改称して、麦類の検査も行った。以後その厳重な検査制度の実績が表われ、全国でも石川郡産米の名声が高く、中でも糯米の品質優秀なことと、早出しによって全国一すぐれた加賀糯の生産地として歓迎された。とくに米所の中心である本村産米は乾田に恵まれ、稲はさ掛けしない乾燥法は色も味も良く、糯米においては一層判然としており、評価が高かった。同十二年、さらに農産物検査所と改め、わら工品の検査も加えられた。その頃の検査は五階級に判別され一等黄色、二等青色、三等赤色、四等白に赤線入り、五等白色の紙テープが俵口のなわに巻かれた。小作料の標準は三等米であったので、それ以上の検査等級でないと小作者は困るわけであった。検査は米質、枡畳、俵装とも詳細に調べられ、封建社会から官僚支配の時代までこの検査員が警官以上におそれられていた。戦時供出割当制度が実施されると、官庁の供出督励もきびしく、もちろん自主販売など許されなかった。また、俵装検査は供出前に俵やさん俵の検査が行われた。戦後俵からかます俵に改められたが、まもなく南京袋詰めになった。

 

 

 

 

 

 

 

 五、米価の変動

 

  明治初期の米価は藩末期と大差がなかったが、日清、日露の戦役を契機に上昇して、石米価十円台を続けるようになった。第一次大戦後は急騰して三十円から四十円台になり、ついに米騒動が起きた。大正十二年の関東大震災後、一時的に上昇したが、昭和に入って次第に下落し、六年頃は最低になった。即ち、農村疲弊時代で米の純単作地である本村では、農家経済は極度の危機に陥り、一村一心の旗標のもと経済更生計画を樹立した時代である。その後、満洲、支那事変と戦争が続き、米価は連続上昇し、ついに十六年、太平洋戦争に突入した。翌十七年、食糧管理法により、米は統制され、食糧の全面的不足は他の必需品以上に深刻で統制もれのヤミ米価は極端にはね上がった。この状態は終戦後も続き、統制価格も二十二年に一躍一千七百五十円、二十五年には五千円を超えた。三十五年から米価算定は生産費と所得補償方式になり、一万円の大台に上がった。

  政府は諮問機関の米価審議会を設けたか、結局は政策米価の傾向となり、米価の高騰は国民の生活を圧迫し、他の物価をつり上げるもとにもなるという理由で、四十三年からは二万五百七十円に据え置かれた。しかし、諸物価は米価などに関係なくどんどん上昇を続けた。これに対し米は増産奨励施策の結果、ついに過剰生産となり、生産調整の規制へと急転するに至った。全く迷路に陥った米作農民は一斉に適正米価を熱望し、本村の農民は郡や県の米価大会にはもちろん、全国大会にも多数代表参加者を派遣している。

 

 

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富奥郷土史