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==第三節 耕地整理と土地改良==
一、耕地整理組合
耕地整理事業の推進が農業基盤の開発上重要事であることは、すでに明治初期から強調され、とくに水稲本位である本村地帯では全国的にもきわめて早期にはじめられたことが知られている。明治二十年、石川郡野々市村に設けられていた郡設模範農場(農業試験場の草分け)において県内最初の耕地整理が行われ、その成績は次のようであった。
石川郡模範農場内田区改正成績
一、旧反別 二町五段八畝三歩 百二十二筆
一、改正反別 二町七段八畝六歩 四十二筆
差引反別 二段三歩(増) 八十筆(減)
改正費用 一金 三十三円四十六銭二厘
以上のように耕地面積の拡大、耕耘潅漑の便、労力の軽減などその実益の大きいことが実際に認められ、安原村高田久兵衛をはじめ郡内一斉に普及するに至った。本村では明治四十年、上林区をはじめ続々実施された。その規模の大要は当初七畝歩で後八畝歩、三分(一尺八寸=五四・五㌢)畦、河川畦畔、耕作道路、潅漑用水路など整然と完備し、米どころ富奥の産米増進上大飛躍の前途が開かれる一大創業であった。肉体労力以外まだ土木機械も開発されない時代であり、クワとモッコと天ぴん棒を頼りにこの難工事が部落民の汗と油で進められた。満々と農業用水を貯え整然と連なる美田こそ祖先の残した大きな遺産であろう。
明治四十一年 耕地整理発起認可申請書
末松清金耕地整理組合
組合長 (第一工区、末松)松本太郎吉
副組合長(第二工区、清金)北岸安三郎
農商務大臣 松岡康毅殿
恩徳碑 (太平寺区)
太平寺村開墾の碑である。野々市村の水毛生伊余門が、私財を出して富山県から人夫を雇い、原野や石捨山(地名マツバラ)を開墾した。太平寺村の人達はこの恩にこたえるためにその地に石碑を建てた。のち大正三年、耕地整理により部落内に移し、さらに道路拡張などにより昭和四十四年、現在の白山神社境内に移転した。
碑文
夫□□而不望其報土君□尚且難之況於農商乎農商而有此行可謂之君子也哉加賀国石川郡太平寺村有官有林以其樹蔭頗妨耕塚方藩政之日村民請開墾以為田明治二年得□時村民貧弱不能支貴以為憂会野々市駅農有水毛生伊余門者任侠富□財憫村民如此奮然任開墾元事不出一年而功成以得良田三千歩許伊余門乃請村民□国法開墾者為地主吾今当為地主然憫汝等之窮故以地与汝宜歳耕耨報余十年間以来三石村民□口日不唯命之従今茲四月村民□其恩徳欲建碑以紀事来請文于余□嘉其義挙有似君子故為□□賛之銘日
太平寺原 有樹榛□ 三朝斬伐 田疇成鱗 其恩其徳 永矢弗ケン
明治十二年四月 石川県第二師範学校教諭 永山平大撰
石川県士族 岸秀貫書
開墾地 太平寺村
棟取 石尾与三兵衛 平井市郎兵衛 中島喜三郎 村田吉左ェ門 石尾与三右ェ門 石尾与三七 中島市郎右ェ門 居村太三右ェ門 高野仁右ェ門
世話人 中島八左ェ門 中島吉太郎 平野長右ェ門 中島宇右ェ門 平島五右ェ門 平野利右ェ門 平野六郎右ェ門 平野半右ェ門 石野平右ェ門 石尾破右ェ門 平井善六 平井庄兵衛 村田武左ェ門 平島五兵衛
二、土地改良区
戦後の復興にともない省力農業機械類が発達し、農作業は肉体作業から機械作業へと移行してきた。そのため運送の合理化に基づき農道拡張が早急に要求されるようになり、第二次耕地整理が実施された。まず、昭和二十五年十一月、末松・清金区が協議のうえ土地改良区を説立し、第一次耕地整理の手直し、農道拡張、宅地の整理などをはじめ昭和二十七年三月、換地処分手続きなどを完了した。
末松・清金土地改良区
組合長 高村誠孝 第一改良区(末松) 副組合長 金田 亮 第二改良区(清金) 会計 東 週二
昭和三十年度収支決算書 末松、清金土地改良区(清金第二工区)
一金 二一八、一六六円 総収高
一金 二一八、一六六円 総支出高 差引残金なし
上林・中林
設立 昭和三十年十二月 名称 野々市町上郷土地改良区 員数 八五名 耕区 第一耕区(上林)第二工区(中林) 受益反別 五六町七反四畝二三歩九九(上林)七三町四反七畝〇七歩八一(中林)
役員 理事長 中村精憲 宮川隆正(昭和三十四年改選) 副理事長、会計 村井正信、山田一郎(同改選)
理事 宮川隆正、村井正信、村井幸次郎、小林喜一、北岡清松、高桑藤松、島崎建治 監事 神田直信、西本敏雄、山田一郎、河村順一 総工費 一、一九七、七五四円也
以上のように各字でも順次土地改良区が設立され、農道再拡張、河川護岸工事、境界整理など農業基盤の造成に貢献し続けて来た。
土地改良区野々市町と合併(昭和三十九年三月五日)
理事 中村精憲、村井幸次郎、島崎兼次、北川清一、田中理治 監事 五香徳二
昭和四十三年改選 理事 村太武範、北村信一、佃栄吉、粟山直次 監事 島崎兼次
昭和四十七年改選理事 村太武範、佃栄吉、栗山直次、小林修 監事 西村信一
三、畦畔ブロックの整備
米の増産が国をあげて叫ばれ、食糧増産対策が次々と実行に移された頃、明治の耕地整理時代の畦畔では幅が三分(一尺八寸、五四㌢)もあって春の耕耘期には「カッツキ」または「ハタヌリ」で畦畔の水もれを防ぐ作業が長い年月続けられて来た。この作業は実に重労働であった。この過重労働を少しでも軽くし、畦幅を小さくすることで米の増産を図ろうという目的で、コンクリートのブロックが登場してきた。
昭和二十六年頃、各部落では競ってブロック畦畔整備が始まった。長さ一㍍、高さは田の高低によって異なり、三〇㌢から六〇㌢、水田一筆に四十二本から四十八本ほどのブロックが入用であった。
昭和二十八年頃、富奥農協を事務所に村一円畦畔ブロック整備事業を始め、農協を通じて長期融資の便も図り、昭和三十三年には一応終ったので解散した。
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富奥郷土史