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==第四節 消防組==
昔といえども、家があり、人が住んでいる限り、不始末や油断から火災が発生することはさけられない。昔の消火は水をくんで手でかけるか、建物を破壊するしか方法はなかったであろう。戦時でさえ、初期消火にはバケツリレーで消火する訓練が行われていた。
藩政時代頃、江戸では何々組という火消しを組織して、幼稚な道具を使って火災をしずめていたようである。わが村でもつい最近までは各家庭には必ず手おけ三個ぐらいと、定紋のついたちょうちんが「オイ」の入り口に箱に入れてかけられ、その家の常備と格式を思わせていた。が、家を新築したり、長い間使用しなくなったためどの家庭でも残っていないのが残念である。
一、上林消防組の発足
明治十四年二月、上林区において初めて消防組が結成された。これは一部落としても村としても一番早い消防組の発足ではないだろうか。金沢市森下町の末友商会かち甲号三号消防ポンプを購入したという。消防組が上林区に誕生した動機についてエピソードが伝えられている。
上林区は富奥村十四字の中では粟田新保についで二番目の大字であった。ところが、粟田新保や中林の部落にはその頃既に獅子頭が購入され、春秋の祭りには神前に奉納され、とくに豊作の年の秋祭りには部落こぞって獅子舞いを奉納していた。上林も部落が大きいのでこの際獅子頭を購入して、秋祭りの豊作を祝ったらどうかとの話が出た。その時二、三の人から獅子頭はもう他の部落にあるから、上林区はもっと変わったものでいったらどうか、との話が出た。そして熟慮審議の結果、消防用設備を整えて防火に備えたら、他部落にも喜んでもらえるのではないかと明治十四年、当時としてはまことに変わった話となって、部落協議会でまとまって前記組織の結成となったのである。時代の先駆けである。
後にこの上林区の消防組織が富奥村一円の消防組の前身となったのである。
二、富奥消防組の新発足
上林消防組も次第に村人達の認識するところとなり明治二十七年、富奥村としても消防組を設置すべきとの観点から、上林消防組をそのまま村費で援助し、名称も富奥村消防組と改称することに上林区も同意して発足したのである。さらに明治三十五年十二月、下新庄区がやはり金沢市森下町末友商会から甲号一号ポンプ一台を購入し、備えつけたので、上林・中林・下新庄の三字から組員を出して組織を強化した。大正十二年に組織を富奥村全村に統一し、ここに初めて名実ともに富奥村消防組となった。その年十二月には太平寺区が本村の北端にあって中央から離れること二㌔もあるので、とくにポンプ一台を購入、備えつけた。この機会に機械機具置場も役場前に移転し、富奥村消防組格納庫機具置場として、消火体制の整備強化がなったのである。
三、三輪自動車ポンプの購入
昭和八年五月、清金区に大火があり、腕力ポンプではとうてい防ぎ切れないことを痛感、村議会に図ってその年八月、当時の単位村としては珍しい新鋭の自動車ポンプを購入し、村民にその威力を誇った。
四、警防団と改称
昭和十四年四月一日には石川県告示第六号により、それまでの消防団を警防団と改称した。これは戦時体制の一環
として戦争に対応する活動をも要請したものである。
一、事務所 富奥村役場内
一、建物 木造資材格納庫一棟
一、組織 富奥村一円トス
一、定員 団長一名 副団長一名 部長二名 団員三十一名 計三十五名
一、富奥村一円の範囲
東西二十一町六間
南北一里三十間 面積六・三〇四平方㌔
一、資材格納庫ヨリ各字ニ至ル距離
中林 四七二㍍ 上林 九三四㍍ 上新庄 二、二三㍍ 下新庄 一、三五七㍍
粟田 六七〇㍍ 矢作一、四九五㍍ 三納 一、六二六㍍ 藤平田 一、一二六㍍
藤平 四八〇㍍ 下林一、一九一㍍ 位川一、五九四㍍ 太平寺一、九一六㍍
清金 九〇〇㍍ 末松一、〇九九㍍
一、災害発生ヨリ守ル戸数ト人口
中林 三二戸 一六七人 上林 四〇戸 一九四人 上新庄 一六戸 八五人
下新庄一二戸 七三人 粟田 四五戸 三二五人 矢作 一八戸 八三人
三納 一三戸 七二人 藤平田 六戸 二四人 藤平田新 八戸 二九人
下林 三五戸 一九一人 位川 五戸 三三人 太平寺 一六戸 九三人
清金 一二戸 六九人 末松 三二戸 一六五人
村内は一般に平たんで県道が縦貫し、村内各字に至る道路は自動車の通過が可能である。夏季は雨量が多く、冬季は降雪が三十㌢ほどある。家屋は木造平屋建て、かわらぶきで、かやぶき家屋もまだ半数あり、水利の状況は富樫・郷の各用水から取水し、各字の水利の便は良く、消火用に便利である。
五、消防団と改称
昭和二十二年九月一日、警防団を廃して消防団と改称した。
六、野々市町消防団と合併
昭和三十年四月一日、町村合併により野々市町と合併し、同年五月一日、野々市町消防団富奥第三分団となった。
ついで、昭和三十二年四月一日、押野村の一部合併により、富奥第二分団となった。さらに、昭和四十八年四月一日から野々市町消防団に常備部を置き、五人交替制で富奥消防第二分団からも勤務につき、現在に至っている。
明治十四年ポンプ購入
明治二十七年腕力ポンプ購入
明治三十五年下新庄区腕力ポンプ購入
大正十二年太平寺区腕力ポンプ購入
昭和八年三輪自動車ポンプ購入
昭和十七年四輪自動車ポンプ購入
となっているが、その後昭和二十八年と昭和四十年の二回にわたって四輪自動車ポンプの新車を購入、消火の万全を期して現在におよんでいる。
七、望火台(火の見やぐら)と警鐘台
大正十二年に富奥村一円となったとき、中林地内に木製の火の見やぐらが建った。現在のバス停付近である。直立したはしご型の高いもので釣鐘(これを半鐘と呼んでいた)をつるし、火災の際や、洪水の時、鳴らしたものである。これによじ登って鐘をたたく人は数少なかった。火災の時の鳴らし方は、富奥村から遠い場合は一つぶしといって「カーン」と一つたたいて、ちょっと間をおいて打ち続けるのである。
富奥村に隣接したところは二つぶしを打つ。これは「カーン、カーン」と二つ続けて打つことを繰り返すのである。
また、ごく近い所などの場合は三つぶしといって「カーン、カーン、カーン」と三つ続けて打つのである。村内に発生した場合は乱打して村人に知らせた。
一種独特な半鐘の音が聞こえると、とくに深夜などは身体までふるえたものである。
昭和七年四月、役場前に鉄骨製、四脚の堂々とした望火台が建設された。が、戦争が激しくなった昭和十九年、鉄や金属品の強制供出によってこの鉄骨製望火台は四脚の脚の部分から切られて、供出されてしまった。
昭和二十年十二月、再び火の見やぐらが現在の農協の横、中林地内の千田理髪店の真向かいあたりに木製の直立梯子型で設置された。
昭和二十六年四月、今度は鉄骨製で三脚の警鐘台が、役場前の以前の場所に建てられた。その後道路の拡張によって警鐘台は、道路三差路の真ん中に位置して残った。交通事故を防ぐためにもとそのまま置かれたが、次第に自動車の数が激増するにおよび道路の舗装にあわせて昭和四十七年十二月、公民館横に移転し現在に至っている。なお、半鐘がサイレンにかわったのは、昭和三十一年である。
歴代役員は次のとおり。
明治十四年初代 組頭 小林公信 小頭 村井次良右ェ門
二代 〃 西本初三郎 〃 神田金次郎、宮岸与八郎、宮川仁多
三代 〃 西本初三郎 〃 神田金次郎、吉本松吉、中村善太郎
大正十二~十四年富奥消防組初代組頭 〃 会計中島六三郎、中村善太郎、竹村六三郎、西尾貞基
大正十五~昭和二年 組頭 中村善太郎 小頭 会計中島六三郎、竹村六三郎、西尾貞基、小竹徳太郎
昭和三~四年 〃 中島六三郎 〃 会計竹村六三郎、西尾貞基、林義光、小竹徳太郎
昭和五~六年 〃 林 義光 〃 会計西尾貞基、田中初治、北村嘉一、本井次吉、中村精憲、北川光秀
昭和七~八年 〃 本井 次吉 〃 会計田中初治、中村精憲、佐久間由秋、北川光秀
昭和九~十年 〃 田中 初治 〃 会計中村精憲、竹内一朗、仏田勝政、葭田勝盛
昭和十一~十二年九月 〃 中村 精憲 〃 会計竹内一朗、仏田勝政、葭田勝盛、蟹川清政
昭和十二年九月 〃 林 義光 〃 〃
昭和十四年 警防団長 西尾 貞基 部長 会計仏田勝政、蟹川清政、橋本清盛
昭和十五~十六年 団長 仏田 勝政 〃 会計東週二、古島茂忠、宮崎庄松、西田清吉
昭和十七~十八年 〃 東 週二 〃 会計古島茂忠、藤井善治、山田一郎
昭和十九~二十年 〃 村井 利八 〃 神田直信、西村正次郎、長納外行、高納友春
昭和二十一年 〃 本井 次吉 〃 竹村祐、高納友春、高桑藤松
昭和二十二年 消防団長 西村 康之 〃 高納友春、竹村祐、高桑藤松
昭和二十三年 団長 本井 次吉 〃 高桑藤松、中野助盛、山田由次
昭和二十四~二十五年 〃 高納 友春 〃 金村信哲、千田義夫、上田外雄、五香益喜、竹内外吉、西村敬親
昭和二十六~二十七年 団長 上田 外堆 〃 五香益喜、西村敬親、杉野博
昭和二十八~三十年 団長 五香 益喜 部長 西村敬親、杉野博、向田初三郎
昭和三十一年八月 分団長 杉野 博 〃 進村幸信、中野茂信、島崎多喜吉、山原僖
昭和三十一年八月~三十七年〃 高納 友春 〃 中野茂信、古源貢、中村元輝、橋田章、西井武夫
〃 橋田章、小林修、中村憲造、西村外喜雄、木林光一
昭和三十七年~四十一年 分団長 北村 信一 〃 中村憲造、東吉晃、沢村衛
昭和四十二~四十九年 〃 中村 憲造 〃 東吉晃、林与一、神田利行、栗山美喜雄
各部落の火災発生件数
大正四年七月倶楽部四回(清金区)大正六年一月民家一棟(清金区)大正十三年九月民家一棟(清金区)昭和六年十一月民家一棟(粟田区)昭和八年五月民家四棟(清金区)昭和十一年八月馬納屋(太平寺区)昭和十六年十二月(中林区)昭和十七年一月民家一棟(粟田区)昭和三十年民家一棟(太平寺区)昭和三十二年落雷民家半焼(藤平田区) 昭和三十六年民家僅少(下林区)昭和三十七年飯場(下林区)昭和三十九年離れ屋(上林区)昭和四十五年五月納屋(上林区)
火事ほど不幸なものはない。その一番不幸な事件を、報告のあった部落のものを記した。
本村については、すべてお互いに助け合って今日におよんでいる。発生件数を反省し、いつの時代でも「火の用心」を心がけていきたいものである。
八、各字の自警団
自から部落を災害から守り、最小限に防ぎ、初期消火を敏速に行うために組織されたものである。子供達が列を組んで、拍子木を鳴らして「マッチ一本火事のもと」と叫んで夕暮れの部落を一巡した。
中林区が富奥一円になってから、自動車ポンプが購入され、それまでの腕力ポンプを受けて自警団を組織し、上林・下新庄・太平寺と出来た。昭和三十年頃から小型自動ポンプが出来て、次の部落が購入し、消防服装のハッピなど一式を備えて部落消火の安全に一役をになっている。
中林・上林・末松・清金・太平寺・粟田区には昭和三十年頃、ガソリンポンプ一台があった。
九、各字自警消防団
消防団の強化により、初期消火の体制が整って来たが、火災ほどすべての財産を失うものはないと、その恐しさが村人の間に認識され、各字で自警消防団が結成されたのである。昭和四十九年度現在、自警消防団が結成されている。部落は次のとおりである。
中林消防自警団 (備品)動力ポンプ一台、付属品一切 (服装) ハッピ、帽子、その他一切
上林消防自警団 〃 〃
清金消防自警団 〃 ハッピ十六着、帽子十六個、その他一切
太平寺消防自警団 動力ポンプ ハッピ、その他一切
末松消防自警団 〃 ナシ
各部落ではこうして月一回、必ず交替で機具の点検と動力ポンプの操作、放水を行っている。また、機械機具の常備はなくとも、各部落では自警のための対策をとっているようである。
十、粟田消防自警団のこと
昭和六年八月、粟田新保では消防設備の話がもちあがったが、当時は農村の不況時代だったので、ポンプ車購入などの経費について苦慮した。その頃ある民間保険会社から、高額の保険に加入してくれたらその手数料還元によって消防ポンプが購入できるとの案が出され、部落こぞって保険に加入して、待望のロータリーエンジン、四輪ガソリンポンプ車を購入した。ハッピその他付属備品一切を整えて、ここに粟田消防自警団が発足した。たまたまその年十一月、部落内から出火、ただちに出動して初期消火に役立った。これは富奥村でも唯一の動力消防ガソリンポンプ車だったが、戦争が激しくなった昭和十八年、東京都の守りのため軍部から献納を命ぜられさし出した。おそらく華々しく活躍したであろうが、爆撃にあってあえなく逆に焼けてしまったかもしれない。その後、粟田消防自警団はなくなって現在に至っている。
初代団長 田中忠信 二代 田中鉄次郎 三代 寺西余三吉 四代 中野佐之吉
十一、火事消火記録
大正六年一月二十七日、A部落からの出火記録を記すと、各区より御見舞い受領は次のとおり。
(末松区より)
清酒 三樽、参斗筵 二束、縄 二束、金 五円
(下林区より)
清酒 三樽、炊き出し 二櫃、金 五円
(中林区より)清酒 五樽、炊き出し 四櫃、浅漬 三鉢、金 五円
(上林区より)清酒 二樽、炊き出し 二櫃、浅漬 二鉢
(藤平田新区より)清酒 三樽、炊き出し 二櫃
(橋爪区より)清酒 二樽
(上新庄区より)清酒 二樽
(三納区より)清酒 三升
(太平寺区より)筵 二束
(粟田新保区より)清酒 三樽
(位川区より)清酒 二樽
(乾垣内区より)莚一束、縄 三束、人夫 三人
(福正寺区より)清酒 五升
(越中屋区より)清酒一樽、縄 二束
(藤平田区より)清酒一樽
個人より御見舞受領(富奥に関する分)
清酒一樽 中野茂三郎(粟田新保)醤油一樽 橋本伊三郎(下林)醤油一樽 長精米場(下林)金 五円古源栄次郎(末松) 金一円 松本太郎吉(末松) 清酒一樽 谷市三郎(下新庄)清酒一樽 学校教員一同、清酒一樽 浄福寺(粟田新保) 清酒一樽 藤井藤次郎 (粟田新保)清清一樽 西村与吉(末松)
火事見舞受領返礼
清酒 四樽 末松区へ、清酒 一樽 古源栄次郎氏へ、清酒 四樽 中林区へ、清酒 四樽 下林区へ、清酒三樽 上林区へ、清酒 三升 藤平田新区へ、清酒 二樽 粟田新保区へ、清酒一樽 太平寺区へ、金 十円也清酒一斗五升 富奥消防組へ、清酒一斗 中奥消防組へ
火事費用覚
一、金二円 鎮火祭神職謝礼 一、金一円七十銭 鎮火祭肴代(松任、日新楼、青物屋) 一、金二十四銭 御神供物 一、金三十五銭 御鏡餅(糯朱二升代) 一、金四円八十銭 清酒一斗代一、金三円八十五銭 清酒八升代 一、金十銭 紙代 計 十三円四銭也
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