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第七章 学校教育
(第四節 合併創立=富奥尋常高等小学校)
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==第四節 合併創立=富奥尋常高等小学校==

 

第四節 合併創立=富奥尋常高等小学校

  1 設立 明治三十五年四月一日、字中林地内に校舎を新築して従来の三校を廃止し、富奥尋常小学校と称し同日開校。校長は粟田新保尋常小学校長山田俊勝。

 明治四十三年、さらに高等科を併設し、富奥尋常高等小学校と改称、同年四月一日開校。校長は丹羽精吉。

  2 組織 通学区域所属は富奥村一円とする。うち太平寺のみ除く。

 学級編成 四十三年は尋常六年、高等一年の七学級と教員七名。四十四年は八学級で教員八名。大正元年は八学級で教員九名。

  3 設備 明治三十五年四月に設立した当時の校地は総坪数八九九坪(二九七二・〇九四平方?、うち屋外体操場は二五〇坪(八二六・五平方?)。教室その他は次のとおり。

  通常教室八    八四坪   図書機械標本室  三坪

  特別教室一 一三坪五合   応接室     四坪

  教員室     一六坪   宿直室     八坪

  児童控室  五〇坪七合五    小便室     三坪

  湯呑場      四坪   物置     二五坪

  昇降口(三) 二六坪五合   廊下     二九坪

  便所       一三坪   井戸     一ヶ所

  建築費 五、九三五円五〇銭也

  明治四十二年四月増築

  通常教室 九九坪七五 建築費 六、七二〇円

  明治四十三年四月高等科併設のため増築、総建坪四、五六五坪(一五、〇九一八九平方?)となる。

  内訳は

  通常教室  一三六坪

  特別教室  一七五坪

  教員室    二四坪

  図書機械標本室 二〇坪

  応接室   八七五坪

  児童控室  五三五坪

  宿直室     五坪

  小便室   三七五坪

  揚沸喝   六七五坪

  廊下    六〇五坪

  昇降口(三) 二、〇七五坪    便所    二二坪

  井戸      一ヶ所

  建築費 一三、三〇〇円也

 明治四十四年四月

  通常教室 一、四三五坪、附属農業実習地 六〇坪となる。

 大正元年四月

  教員住宅        六二五坪

  敷  地        三六三坪

  附属農業実習地(階入) 二九三坪

  建築費     四、六三〇円也

 4 教科 明治三十八年四月十三日、裁縫・図画・手工の三科目を加設。

  同四十年六月、唱歌を加設。一年生より修身・国語・算術・唱歌・体操・手工。

  三年以上 図画・裁縫 五年以上 地理・歴史・理科

 5 その他 明治三十七年四月、丹羽清吉校長、額より新任。同四十四年まで在任。大正三年村北栄太郎校長として蔵山より新任。秋祭りに職員生徒が中林神社へ参拝の先例を作り、地域環境に根ざした教育方針が浸透して行った。大正十二年七月十六日、学制発布五十周年記念式が行われ、その後校舎の増改築の議が持ち上がった。

  校長は毎月のように県内はもとより、遠く四国まで出張して、近代的設備と教育活動の実際の見聞に努め、村の世論と相まって、翌十三年八月入札にまでこぎつけ、講堂並びに理科室等の建築に取りかかった。翌十四年三月三日木の香も新しく落成式が挙行された。この新学期から新入生そろって上林八幡神社へ参拝する恒例が作られた。かくして本校の名声は急速に広まり、近郷近在はもとより県内、遠く県外からの視察訪問者陸続として集い来たり、時には年間三百有余に達し、ますます賞讃の的となった。十五年九月、村北栄太郎校長は美川校長として転任し、次の時代に続く。

 1 組織 とくに変化はないが、六年四月より太平寺児童が野々市校より復帰登校し、全村一校に集まった。十三年七月からメートル法を採用。

 2 設備 大正八年五月二十八日、図書館が認可された。同十一年運動場の中央を斜めに横断していた郡道を運動場外約二間向こうに送り、不便の除去と同時に約三百坪(九九一・八平方?)を運動場に取り入れ、大拡張を行った。

 同十三年の校地は一、九七一坪(六、五一六・一二六平方?)

 講堂(十三間に八間)、理科室同準備室、裁縫室、同学級室、図書室図書閲覧室、唱歌室建築費 三〇、八二八円也(入札額二七、五〇〇円)同十四年の校舎は六三二坪(二、〇八九・三二九平方?)、校地計二、四三〇坪(一四、五九四・五八平方?)となる。

 3 教科 同七年より尋常四年以上に珠算を加える。

 4 校規校則 同七年六月校規整備

 イ事務室当番規定、ロ事務室当番心得、ハ児童貯金取扱規定、ニ児童学業成績考査規定、ホ舎内整理規定、ヘ使丁舎内掃除持場区域、ト職員舎内整理分担区域、チ備付校具目録表、リ職員事務分担・ヌ校旗規定、男教員毎晩宿直(交替)女教員休日交替日直

 5 事業その他 大正四年の沿革誌中の付記には一ヵ年間の努力の結果を評価して左のように綴り、常に児童の質的向上の盲点を指摘している。

 イ児童の師に対する敬意表出、挙動温良はやや見るべきものあるに至った如く感ぜられる。

 ロ出席督励は十分努力したが、なお五月十月など農繁期において多少の事故欠席を見るは遺憾と思う。

 ハ児童の衛生鍛練に意を用いたが、なお軽きパラチフス、流行性感冒、トラホーム患者の絶えないのを遺憾と思う。

 ニ言語の矯正に努力したが、家庭における習慣などのため十分な効果を見ることの出来なかったことを遺憾と思う。

 ホ児童心意の剛健やや薄き感があり、常に活気と耐久鍛練に努めたが、なお十分な効果の上がらないことを遺憾と思う。

 ◇大正十一年からは二週間、田植え期早仕舞いを許可し、体格検査を実行して体位の向上を計る。

 また夏休み中は、毎朝二時間半、朝飯前に各字の一定場所(神社または倶楽部)において、上級生の看護、世話の下に勉強させ、随時教師が巡回し、指導を与えた。

 ◇昭和三年十二月、御大礼記念として運動場を一〇七坪(三五三・七四二平方?)拡張した。忠魂碑の除幕式の行われたのもこの年である。

  同十年八月、国旗掲揚塔が完成。朝夕、生徒児童の生活の中心となった。

 ◇昭和十一年四月十一日、正面玄関に二宮尊徳像が建立され、同十二年七月二十日、角力場が建設された。

  昭和十七年四月から女子師範代用付属国民学校に指定され、運動会は「総合鍛練大会」となり、さらに翌年には「戦意昂揚学芸会発表」と改名された。二月十一日の紀元節には大阪の志村三次氏寄贈のピアノ贈呈式が行われ、学校備品の不足、また修繕の意に任せぬこの時代のこととて全校感謝に浸る。その後十八年、十九年、二十年の敗戦まで学校の沿革誌は途切れ、余白のみが当時の様相を無言の中に語っている。

 

 

 

 

 

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 ▲ 1:第一節 学制の施行 2:第二節 小学校誕生 3:第三節 各小学校の推移 4:第四節 合併創立=富奥尋常高等小学校 5:第五節 富奥尋常小学校の沿革 6:第六節 農業補習学校、青年訓練所、青年学校 7:第七節 女子裁縫学校=農業補習学校女子部 8:第八節 国民学校 9:第九節 戦後 10:第十節 教育委員会の発足 11:第十一節 育友会 12:第十二節 涙の閉校式 13:第十三節 同窓生名簿