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==第八節 改良和牛の導入==
昭和八年十月、経済更生計画を推進してから一ヵ年、労働力の合理化と借馬の賃借料の支払いの節約と、裏作奨励を期するために考えられたのが改良和牛の導入であった。この実行も当時としては県下に先がけて行われたのである。
富奥村では昭和七年まで、春の農耕期になると、金沢や松任など、その頃の馬喰という馬をたくさん持ってそれを農家に貸す商人から馬を借りていた。ほとんどの農家は一ヵ月とか二ヵ月とかの契約で馬を借りて田を起こしたものである。三月の二十日を過ぎると、こもを着せた馬が三頭、五頭と田舎道を通るようになる。子供心にもすぐ春田の季節がやって来たなと思ったものである。
自家用に馬を持っている農家は冬の間、山間の方に預けてあった馬を連れてくるのである。どこの農家でもみんなそうしたしきたりなので、それがあたりまえとなっていた。
四月ともなれば見渡す限りの富奥平野の中に、農耕に励む馬の数が何十頭と、あちこちに見うけられて、まさに春の一大風物詩のようであった。
しかし、その半面、農耕を全部終わって田植えが済んでしまうと、いよいよ春耕の馬の借り賃を払はねばならないのである。昭和七年頃にはわが富奥村でも百二十頭から百五十頚程の借馬が入った。
借馬料として支払われる金額もまた、六、〇〇〇円から七、〇〇〇円と膨大なものであった。そのほとんどは組合から借金して支払にあてたのである。
そこで前記の改良和牛を導入して借馬料をなくし、さらに裏作もやろうということで、人それぞれの考えもあって議論百出しながらも昭和八年、次の鼻家十戸によってまず実行にうつそうと一決、兵庫県但馬から和牛を十頭最初に導入した。
最初に導入した農家の氏名
中林 江藤一雄、 森 深昌、 高桑藤松
末松 松本輝武、 松本正一、
清金 上野由雄、 本井次吉、
下林 林 義光、
上新庄 西尾貞基、 島崎他吉
当時としてはまさに、冒険であり、改良和牛一頭百円から百五十円をかけて導入した。その度胸はいまにして思えば笑い話しみたいに他愛のないものだが、導入した農家にとってはまさに真剣そのものだったのである。
が、しかしその後導入した和牛から仔牛が生まれ、その売れた金が入ることや、いつでも田が耕せる利点を次第に村人は認めて、その飼育頭数は驚くほどの早さで増加していった。
改良和牛の飼育頭数
昭和 八年 一〇頭、 昭和十二年 三一頭、 昭和十四年 一〇二頭、
昭和十九年 二一〇頭、 昭和二十年 二二三頭
終戦の頃になるとまさに農耕は改良和牛一色といった観があった。耕作反別二・五?以上の農家では和牛を一頭から三頭を飼育して農耕にあてていた。
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