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第十五章 厚生と福祉
(第四節 墓籍帳と避病院)
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==第四節 墓籍帳と避病院==

 

第四節 墓籍帳と避病院

  清金区に残されている「墓籍帳」を開いて見ると、伝染病で死亡したのではないかと思われる死亡年月日が各家に見られる。

  その頃はちょっとした流行性感冒でも死んだということを聞かされている。「ハヤリカゼ」といっていたらしい。

 だから「チフス」やその他のハヤリ病にかかったら、若い年齢でも死んでいったらしい。

  次にそれと思われるものを記して見よう。

 

 

 イ家

 法名   死亡年月日        名前

 釈 慶龍 天保十四年正月十五日   初三右ェ門

 釈尼妙證 天保十四年正月十八日   未   詳

 釈尼妙重 天保十四年正月二十三日  未   詳

 釈 城音 天保十四年正月二十七日  小三郎

 ロ 家

 釈 開慶 文政五年三月二十七日   次郎兵衛門

 釈 精慶 文政五年五月十八日    未   詳

 釈尼妙了 文政六年九月二十五日   未   詳

 ハ 家

 釈尼妙珠 文久二閏年八月十五日   三郎右ェ門

 釈 泉龍 文久二閏年八月二十七日  三郎右ェ門

 ニ 家

 釈 行念 明治十六年五月十三日   新右ェ門

 釈 行勇 明治十六年十一月二十六日 他次郎

 釈尼貞信 明治十六年十二月十日   れん

 ホ家

 釈 教信 文政十三年三月八日    理右ェ門

 釈尼妙信 文政十三年十一月二十四日 利右ェ門

 ヘ 家

 釈 妙了 天保五年五月六日     未  詳

 釈 信成 天保五年八月二十九日   未  詳

 釈 見道 天保六年六月十一日    磯右ェ門

 釈 賢龍 天保六年九月十三日    大右ェ門

 釈 教念 天保十四年正月三日    磯右ェ門

 釈 涼雲 天保十四年八月朔日    八右ェ門

 釈尼賢明 安政五年十二月十七日   つ  る

 釈 泉祐 安政五年十二月十七日   八右衛門

 釈 妙法 安政五年十二月二十四日  弥三右ェ門

 ト 家

 釈尼妙信 明治十九年九月十一日   め   つ

 釈 誓入 明治十九年九月十四日   仁 次 郎

 チ 家

 釈尼妙入 天保五年八月十三日    未   詳

 釈 常為 天保五年九月十八日    未   詳

 リ家

 釈尼妙順 天保五年四月二十日    未   詳

 釈尼妙麗 天保五年八月十一日    未   詳

 釈 専心 明治十二年八月四日    他 次 郎

 釈尼円現 明治十二年八月三十一日  フ   サ

 釈 暁婉 文化十一年七月四日    未   詳

 釈 芳順 文化十一年十月十四日   善   七

 ヌ家

 釈尼妙行 明治四年八月九日     サ   ヨ

 釈 西順 明治四年十一月二十五日  喜 太 郎

 釈 祐護 明治三十五年二月十七日  四郎兵衛

 釈尼浄心 明治三十五年十一月二十一日つ   る

 ル家

 釈 恩禅 慶応元年六月一日     長右ェ門

 釈尼妙禅 慶応元年六月十一日    〃   母

  右のように各家庭の死亡月日のとおり一カ月の間に四人も死亡している。

  また、同じ年にこの部落で数名の人が死んでいることがわかるのである。しかも死亡年齢が非常に若く、十七、八歳から二十七、八歳あるいは三十五歳くらいまでとなっている。だから、何々右ェ門となっていても、をの当時は死亡するとすぐ跡をつぐ者を同じ何々右ェ門と襲名したようである。このことは明治の初めまでつがれたよえうで、例えば二十七歳の何々右ェ門が死亡した場合、その弟が若くて襲名したのでないかということも墓籍帳からうかがわれるのである。

  明治になっても伝染病が流行したらしく町村制になってから中林に避病院が建てられた。五間に十間ほどの大きさだったらしい。おもにコレラなどの隔離病舎だったと小島貫月老は伝えている。その建物は現在のバス停の東側の田圃に明治四十三年頃の耕地整理前まで残っていたという。

  現在では考えられないことだが、わが村の各部落においてもこうして多くの人達が伝染病で死んでいったであろうことが、悲しい事実として残されている。

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 ▲ 1:第一節 昔の治療 2:第二節 村の医療施設 3:第三節 村の医薬品 4:第四節 墓籍帳と避病院 5:第五節 産婆 6:第六節 伝染病対策と注意書 7:第七節 衛生組合 8:第八節 方面委員と助けあい 9:第九節 託児所と保育所 10:第十節 富奥診療所の開設 11:第十一節 生活用水 12:第十二節 富奥の里親