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==第二節 水利事業==
一、用水と治水の始まり
現在われわれが生活している富奥地区、いわゆる「手取川扇状地帯」も、かつては広大な原野を手取川の河流が乱流するだけの荒野で、もちろん治水も用水もなかった。農耕が発達し、人家が定着して集落をつくり、河流の活用をはかった。耕地と集落に対し出水、乱流を防ぐ住民の努力が、治水と用水に注がれたことはいうまでもない。
二、七ヵ用水の起源
手取川扇状地帯で手取川から取水している用水路は上の方から、富樫・郷・中村・山島・大慶寺・中島・砂川の七用水であるが、これらの用水路は旧手取川の河道の活用であった。即ち、昔は手取川がこれらの用水路を本流としていた時代があったのである。
「国をおこすもとは農業であり、農業の根本は地水を治めることにあるからすみやかに各郡に命じてその完遂をはかれ」と昔の国司が、加賀で行政事務をとる役人に命令を出しているように、水利をいかに確保するかということは、古代からの重要な課題であった。
旧藩時代、またそれ以前の用水路の管理や配水が、どのようになっていたかということは、われわれの関心事である。以下平野外喜平氏の著書「手取川」からそのへんの事を抜萃した。
一向一揆の時代となれば、村内自治の気風がたかまり、用水路の管理や配水、用水の上に位置するものと下流にあるものの関係など、いわゆる現在も続く用水慣行のもとは、このころの農民相互の連絡協定から端を発することになったようである。そのことは藩政時代にはいって農政が本格的に末端まで改作仕法とともに浸透するようになっても、幹線用水路についての経費は藩が、最初は国内全部に、元禄以降は各郡ごとに特別税を課して、それで運用していたことでもわかる。各村々の用水路については、すべてその村の農民達の自治管理に委ねていたし、その伝統は今も土地改良区として生きているのである。とくに問題になる七ヵ用水相互の関係と、対岸の宮竹用水の分水をどうするかということは、ことわざにも「我田引水」というように、七、八月の渇水期に深刻な事態をまきおこすので、これを円滑に配分するには、単に藩権力による強制的な監督管理ではおさまらないものがあった。そこで流域農民の知恵は中村・山島・大慶寺・中島の四用水が分岐する取り入れ口の所在地、山の庄の村民に管理権を委ね、その采配に服した。山の庄は直接どの用水とも利害関係がないから、公平に判断できると考えたのであろう。また、上流から取り入れ口をもつ富樫・郷、下流の砂川、それに対岸の宮竹用水の各々の水門番役との公平な分水の調整役ともなり得る立場にあった。各々の用水関係者からは水門番役を出して、取り入れロでの管理や他の用水との連絡にあたっていたが、その場合の第三者的立場で各水門番役の「我田引水」を調整する山の庄の役割は、農民自治のすぐれた慣行であった。分水にあたっては各用水の耕地面積を中心に、用水路の状況や土質の保水性なども配慮しながらなされていたようである。どうしても水が不足するときは、大番水といって、交互に順番をきめて重点的に集中流水を行った。そして、各用水では、渇水期になると乏しい水を管内で配水するために、ここでも番水を実施した。つまり、村内で流水の上に位置するものが常に水を占有し、下流のものが干上がることのないよう上、下を交互に流水を通して順番に潅水するのである。これを小番水といった。
こうした共存共栄の伝統で貫かれている用水であるが、やはり凡人の常で、絶対的な用水不足ともなると、激しい水争いも起こった、と書かれている。
明治二十九年八月の大出水は護岸堤を破り、用水路の所々が広範囲に欠壊し、農民は大損害をこうむった。また、干ばつで各用水が停水したりしたので、関係町村、郡、県一体でなんとかしようと明治三十六年(一九〇三)七月、それまで手取川の各所から別々に取り入れていた七ヵ用水全部を合同給水口で統一して、手取川の一ヵ所から取り入れ、その集水を各用水に分配するという画期的な大事業が出来た。これを七ヵ用水といっているのである。
この工事は明治三十一年七月から着工され、五ヵ年の年月と当時の金額で十六万八千四百円の工費、のべ六万六千五百人の人夫をかけて完成した。この用水の取り入れ口は枝権兵衛が富樫用水の取り入れ口を造った安久濤に設置されたが、このことはいかに枝権兵衛に先見の明があったかということである。百年後の今日においてもわれわれが恩恵を受けていることを思うと偉大な人物といわざるをえない。
枝権兵衛の事績(書籍「手取川」より)
彼は文化六年(一八〇九)正月、石川郡林村坂尻に生まれた。文政八年(一八二五)に十七歳で坂尻村の肝煎役をつとめ、以後明治十一年(一八七八)まで前後五十余年、地方振興のため種々の公職について努力したのであるが、その彼の最大の仕事が富樫用水の取り入れ口の開発であった。彼が富樫用水の井肝煎になったとき、その取り入れ口は鶴来町の十八河原にあったが、その不備不完全のため、干天には水不足で深刻な水騒動が起こり、長雨となればたちまち出水して取り入れ口の堰を流し、水口を破壊し、その修理に困るといった状態が、毎年のように繰り返されていた。富樫用水流域三十九ヵ村とその耕作水田千八百町歩(一、八〇〇?)石高一万七千石(二、五五〇?)に達する必要水量が絶対的に不足していることと、それだけの水量を誘導できるだけの取り入れ口の設置箇所がなかったからである。そこで適当な取り入れ口を物色して手取川の地勢や水流の実態を調査した権兵衛は、ついに安久濤の淵(ふち)をみて、そこに川をせきとめる巨大な岩があり、その前によどむ豊かな水量を眺めたときその岩を含む堅い山を貫通して、そこから水を通せば、川の中へ堰を横たえる必要もなく、また洪水時はその水門を閉じれば水禍を免れると判断したのである。しかし堅牢な岩山を破砕してトンネルをうがつことは、幕末の科学土木技術ではきわめて困難なことであった。しかしあえて三十九ヵ村民の幸福のため、決然としてこの大事業に取りかかったのである。
しかし、一肝煎の身分ではこうした大業は不可能であり、当然加賀藩の理解と協力が必要となるのである。が、幸いにも加賀藩の重臣本多図書の与力で藩産物方をつとめていた小山良左衛門が、山間部の物資を金沢へ輸送するために、鶴来〜金沢間に運河をつくる計画を立てていたのとたまたま一致した。つまり運河には当然豊富な水量がなければならず、富樫用水を拡張整備し、そこに大量の水を流せば舟運の便もはかれることになり、運河の役割を果たすことが出来るのである。こうして両者の共同事業が第一歩を踏み出したのである。ちょうど世は幕末から明治にかけて大変な時代であったが、権兵衛はそうした政界の動揺と藩政の混乱の中にもかかわらず、慶応元年(一八六五)二月から明治二年(一八六九)五月までの四年四ヵ月の歳月を、一筋にこの難事業に全力を傾けつくしたのであった。人力を主とする幼稚な工法で岩山にトンネルをつくることは、予想以上に障害を生み、工事の遅延と経費の増加は心なき人々の激しい中傷と非難となった。そして彼がその人たちのためにと願った各村の農民たちからも離反するものが続出し、彼は幾たびも孤立の悲運を耐え忍ばねばならなかった。しかし、不屈の情熱を燃やした権兵衛のすさまじい執念と、明治維新という藩政最後の混乱期にもかかわらず終始彼を激励し、協力した小山良左衛門の援助によって、ついに安久濤から九重塔までのトンネルと、九重塔から鶴来古町までの掘削工事が完成した。
総工費六万貫に達し、権兵衛も私財をことごとくこの事業に投入し、四年四ヵ月の工事期間、文字どおり寝食を忘れて精魂を尽くしたのであった。こうして完成した五条の取り入れロからは、干天でもなお水流の衰えるを見ず洪水のときは水門を閉じると出水の憂いなしという大用水路ができたのである。
三十九ヵ村の農民たちは今さらながら彼の恩徳に感銘し、このトンネル上に祠を建て、二人の恩人を水戸明神として祭った。この用水の便により年々稲作の収量も上がり、また耕地整理も終わったわが富奥村は、秋には黄金の稲穂が波打つ良田地帯となった。
第五代富奥村長谷市三郎は富樫用水の管理者となるや枝権兵衛の功績を痛感し、関係三十九ヵ村に呼びかけ、権兵衛と小山良左衛門の記功碑を建立し、この事績を後世に伝えることにした。そして大正十五年四月十八日、二人の遺族の手によりこの碑の除幕式が行われた。白山神社前、和佐谷橋入り口のこの碑は、今も心ある人々の足を留めさせている。
三、七ヵ用水の改修
七ヵ用水の改修補強工事はその後たびたび行われたが、とくに昭和九年の大水害のため取り入れロが破壊されたあと、この修理を含めて大改修が行われた。そして昭和十二年には白山電気株式会社の発電所取り入れ口の上流八百?にコンクリート堰堤が設置され、昭和二十四年に戦時中から継続実施されていた七ヵ用水の改造工事が完成した。しかし、七ヵ用水・宮竹用水ともその潅漑地内は表土の大部分が砂質土で、その下は砂礫(れき)土層であるため用水の水もれが多く、取り入れ口の改良だけでは七、八月の渇水期には必要量の半分しか確保出来ないので、絶対的不足を解決するために大日川ダムの建設となった。このダムの建設によって積年の水不足を解消する見通しが立ったのである。
四、七ヵ用水の維持管理
七ヵ用水の取り入れ口を一つにした明治三十六年二月、関係二〇ヵ町村からなる七ヵ用水普通水利組合が創設され各水系の取水量、幹線水路の維持管理方法、会議員の選出方法などが決められた。これによると
一、組合会議員は三十名。富奥村からは二名、常設委員は富樫・郷用水のうちから一名選出することとする。
一、七つの水利組合は従来どおりとする。
一、幹線区はそれぞれ分水門までとする。
一、組合費の徴収では幹線区の用水費を各水利組合に委任徴収する。
一、管理者は郡長(郡役所廃止後は県からの官吏)とする。
富奥村から選出された会議員、常設委員の氏名は次のとおりである。
富奥村選出手取川七ヵ用水普通水利組合会議員
当選年月日 退職年月日 氏 名
明三六・四・一〇 明四四・ 四・九 藤井孫右工門
小林栄太郎
四四・四・一〇 大八・五・九 谷 市三郎
北岸安三郎
大八・ 五・一〇 一二・五・九 谷 市三郎
北岸安三郎
中島 佐吉
(大一〇・二・一九から)
大一二・五・一〇 昭二・五・九 中島 佐吉
山本清太郎
昭二・五・一〇 昭六・五・九 中島 佐吉
山本清太郎
昭六・五・一〇 一〇・五・九 古源 栄美
山原 七郎
昭一〇・五・一〇 一四・五・九 古源 栄美
山原 七郎
一四・五・一〇 一八・五・九 古源 栄美
山原 七郎
一八・五・一〇 二二・五・九 古源 栄美
二二・五・一〇 二六・五・九 谷 勝信
中村 精憲
手取川七ヵ用水普通水利組合常設委員
当選年月日 退職年月日 氏 名
大九・七・二二 大一一・七・二 谷 市三郎
昭五・八・一〇 昭一一・八・九 小林千太郎
一一・八・一〇 一一・一ニ・二四 〃
一九・一〇・四 二二・五・九 山原 七郎
五、用水管理役場
七ヵ用水の中の各用水はそれぞれ用水路の維持管理のために管理役場を設けていた。富樫用水の管理役場は富奥村役場内に、郷用水の管理役場は郷村役場内に設置され、管理者はそれぞれの設置されている村の村長が歴代就任し、組合費の徴収、用水議員選挙などの事務を行ってきた。
昭和二十七年七月、手取川七ヵ用水普通水利組合を、手取川七ヵ用水土地改良区と名称を変更、各用水を「分区」に名称変更し、分区長が設けられ、分区長が管理役場で事務を行ってきたが、町村合併の問題もからみ、賦課金(組合費)は昭和三十年六月から土地改良区が直接徴収するようになり、管理役場もなくなった。
六、富樫用水会議員
富樫用水普通水利組合会議員の富奥での選出は次のようになっていた。
上新庄・上林・藤平田新のうち 一名
中林・三納・藤平田のうち 一名
矢作・粟田・下新庄、額乙丸・三十苅のうち 二名
下林・位川のうち 一名
太平寺・堀内・三日市のうち 一名
常設委員は中の郷(川を三分し上、中、下郷。富奥は中の郷に属していた)から一名。
富奥から選出された会議員氏名は次のとおりである。
富樫用水普通水利組合会議員名
当選年月日 退職年月日 氏 名
明四一・三・一八 明四五・三・一七 村本市三郎
小林千太郎
上田甚兵衛
林七郎兵衛
田中初左衛門
四五・三・一八 大 三・三・一七 小林千太郎
村上佐太郎
田中初左衛門
北川清次郎
林七郎兵衛
大 三・三・一八 大 五・三・一七 小林千太郎
北村作次郎
村上佐太郎
田中初左衛門
新森松次郎
大 五・三・一八 大 九・三・一七 小林千太郎
田中茂三郎
村上佐太郎
新森松次郎
北村作次郎
大 九・三・一八 一三・三・一七 西尾安三郎
北村作次郎
村上佐太郎
田中茂三郎
新森松次郎
(大九・九・七まで)
杉野仁三郎
(大一〇・三・五から)
大一三・三・一八 昭 三・三・一七 中島六三郎
杉野仁三郎
西野 九郎
山原 孫市
西尾安三郎
昭 三・三・一八 昭 七・三・一七 神田金次郎
山上 喜一
村本市三郎
吉本 理助
伊藤 協
昭 七・三・一八 昭一一・三・一七 村本市三郎
竹内 一朗
神田金次郎
伊藤 協
山上 喜一
(大八・一二・二〇まで)
昭一一・三・一八 昭一五・三・一七 中山善次郎
西尾 貞基
竹内 一朗
村上弥三郎
林 義光
昭一五・三・一八 昭一九・三・一七 田中 初治
宮川 隆正
林 義光
村上弥三郎
中山善次郎
昭一九・三・一八 昭二三・三・一七 田中 初治
宮川 隆正
江藤 一雄
北川 光秀
谷 勝信
富樫用水普通水利組合常設委員
当選年月日 退職年月日 氏 名
明四三・三・一三 明四五・三・一二 村上佐太郎
大 二・三・二五 大 四・三・二四 〃
大 四・三・二五 一二・三・一九 〃
一二・三・二三 昭一二 三・二五 北村作次郎
昭一二・三・二六 一四・三・二五 竹村六三郎
昭和二十六年、手取川普通水利組合の名称は手取川七ヵ用水土地改良区と名称変更、従来の用水議員は総代となる。
当選年月日 退職年月日 氏 名
昭二十七・八・二一 昭三一・八・二〇 本 好正(下林)
〃 〃 小林 正二(上林)
〃 〃 寺西余外吉(粟田)
〃 〃 小林 信夫(矢作)
〃 〃 中村 精憲(中林)
〃 〃 栗山 信政(末松)
昭三一・一〇・一 昭三五・九・三〇 山原 七郎(矢作)
〃 〃 寺西余外吉(粟田)
〃 〃 伊藤 好麿(下林)
〃 〃 高桑 藤松(中林)
〃 〃 村井 正信(上林)
〃 〃 蟹川 清政(末松)
昭三五・九・二五 昭三九・九・二四 長井 太吉(粟田)
〃 〃 高桑 藤松(中林)
〃 〃 村田 省三(藤平田)
〃 〃 村井 正信(上林)
〃 〃 西村 喜吉(末松)
昭三九・九・二七 昭四三・九・二七 長井 太吉(粟田)
〃 〃 伊藤 好磨(下林)
〃 〃 谷 好信(新庄)
〃 〃 古源 幸啓(末松)
〃 〃 川越 正雪(中林)
昭四三・九・二七 昭四七・九・三〇 中野 久男(粟田)
〃 〃 伊藤 好麿(下林)
〃 〃 東田 幸一(新庄)
〃 〃 古源 幸啓(末松)
〃 〃 川越 正雪(中林)
昭四七・九・二七 中野 久男(粟田)
〃 〃 進村 幸信(藤平)
〃 〃 小林 喜一(上林)
〃 〃 村井幸次郎(上林)
〃 〃 松本 繁(末松)
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