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==第四節 農業委員会==
一、委員会の設立
農地改革は当村においてはなんら混乱もなく所期の目的が達成されたので、農地委員会は解体された。その結果としてまず、耕作田が耕作農民の名実ともに所有地としての権利を得た自作農地となった。このために一に生産意欲の増進、二に農家経済の拡大、ひいては農業経営の近代化が進展し、一方、わが国経済界の復興にともない都市産業の農村進出など古来純良村として地道ながらも豊かな村づくりに励んで来た当村も、営農事情において新しい面での展開が要求されるようになった。昭和二十六年三月、農業委員会法が公布され、同年七月二十日、第一回富奥村農業委員選挙が施行され、農地委員会に替わって新しく本村の農業委員会が発足した。この新しい委員会によりまず取り組んだ事業は農地交換分合であった。昭和三十年の町村合併後の蔑業形態、構造の変化は実に目まぐるしく、これに対処する本会の活動も当地選出委員がその中核として今日に至っている。
富奥村農業委員組織一覧 (◎は会長)
第一回選出委員名 昭和二十六年七月〜二十九年七月
村田 定 吉本栄吉 中村精憲 木林友次 ◎竹内一朗 伊藤好麿 大島直吉 神田直信 吉岡治作 堀江秀吉 藤多三夫 平野 正 北岸文雄 谷 信行 西尾 忠 森 深昌 村井次一 田中影信 山原七郎 高村誠孝
第二回選出委員名 昭和二十九年七月〜三十二年七月(昭和三十年四月より野々市町と合併)
◎竹内一朗 村井次一 山田一郎 神田直信 谷 好信 島崎一之 田中影信 山原七郎 西川次一 林 与吉 平野 正 北岸文雄 松本 繁
第一回(野々市町合併後)富奥地区選出委員名 昭和三十二年七月〜三十五年七月
宮川隆正 作田庄一 中島一孝 北岡清松 西尾 忠 宮岸伝二 竹内一朗 畠栄太郎 田中影信
第二回(合併後)富奥地区選出委員名 昭和三十五年七月〜三十八年七月
村本外雄 金田 亮 山田一郎 宮川隆正 山原 タケシ 作田庄一 田中影信
第三回(合併後)富奥地区選出委員名 昭和三十八年七月〜四十一年七月
竹内恍一 川畑良章 村井幸次郎 作田 庄一 山田一郎 中島栄治 田中影信
第四回(合併後)富奥地区選出委員名 昭和四十一年七月〜四十四年七月
小林 巌 藤田敬温 山口正二 作田庄一 村井幸次郎 中島栄治 田中影信
第五回(合併後)富奥地区選出委員名 昭和四十四年七月〜四十七年七月
山口正二 小林 巌 中村安栄 新森 晃 小林幸次 中島栄治 田中影信
第六回(合併後)富奥地区選出委員名 昭和四十七年七月〜
新森 晃 中村安栄 小林孝次 西村定吉 三納 博 中島栄治 田中影信
二、農地交換分合
終戦直後まず復興の先決的国策として食糧の確保が急務となった。とくに主食である産米の増強は重要であり、米作りを主力とする本村の使命は重大であった。戦禍の傷跡がいまだいえない本村では、農業の推進基盤としていち早く農地改革が実施され、ついで農業委員会が設立され、この新しい委員会が発足して最初に手がけられたのが交換分合による農地の整備であった。昭和二十七年、本村では十四部落が一斉に趣旨の啓蒙促進から登記事務に至る難事業に取り組んだ。元来、なにごとにも協調的、進取的な本村の村民性はこの事業の遂行を円滑に推進し、半年に満たない短期間で完了することが出来た。その規模、内容は各部落一様ではないが、耕作全農地の三〇%から五〇%の実施成績をあげた。この事業実施により、以後稲作の機械化促進を主体とする近代化に実に明るい前途を期待することが出来た。この事業の一端として藤平田新区の交換分合実態の略図を次に掲げよう。
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