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第十一章 産業と経済
(第六節 農業諸団体)
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==第六節 農業諸団体==

 

第六節 農業諸団体

 一、農業共済組合

 義倉金について

  藩政の頃、米作り百姓が災害などで不作の場合でも、年貢米だけは何ものにも優先してきびしく納入しなければならなかった。そのため再生産に必要な食糧はます雑穀類であり、さらに藩では作食米と称する藩の米を最小限度百姓に貸し与えた。この敷借米を不作に備えて蓄えたのが作食倉であったが、このような藩の救民制度は決して円滑に扱われておらず、むしろ藩末から明治初年頃、百姓が自主的に相互扶助、共同救済法として常時食糧を備蓄した義倉の方がより実質的であった。明治も深まり、流通経済の時代になると、現物備蓄よる貯金、有価証券などを蓄結して困窮時の救済に当て、これを義倉金と称した。次に掲げる清金村旧義倉金維持運営の方法の書類によると、まず一部落の農民が結集した組織であること、第二にこの義倉金は藩政の頃すでに設立されており、その共有財産の所有権は旧石高地所所有者にあることなど、農民解放の明治初期前の部落民の自主的共存共栄の集団的方途として、また現在の農業共済制度をはじめ、種々の社会保険制度の始まりとして貴重な存在であろう。

 

     石川郡清金村旧義倉金維持方法

    前加    共有ノ区域

   旧義倉金ハ旧石高ヨリ収納シタル原質ニ因リ旧石高ノ地所々有者ノ共有物ト一郡ニ於テ既ニ協議決定左ノ如シ

    共有ノ性質ハ旧石高持ノ共有トス旧石高調査ノ分界ハ明治八年旧石高ノ名称ヲ廃シタル発令ノ月ヲ以テ期トスへシ其後売買譲渡ニ係ルト雖モ該八年度ニ因ッテ調査シタル旧石高ノ所有ヲ現今所有スル者ヲ以テ共有人ト定ム故ニ今後旧石高ノ地所売買譲受ニ渉ルトモ原質ニ因リ其譲受買受入ノ共有物タル事勿論ナリ該金救恤ノ原由ハ旧藩ニ於テそ非常凶歉ニ際シ旧石高割救恤又ハ無高農民究迫ヲモ見計ヒ救恤シ来ルモノナリ依之尚今後モ其好意ニ基キ義務ヲ尽サルルヲ得レハ因ヨリ分離スルノ理ナシ故ニ其ノ主義ヲ変更セス将来ニ其本旨ヲ尽スモノトス

  旧義倉金維持方法規定

   第一条

 旧義倉金ハ非常凶歉予備ナレハ平常ニ於テ鄭重ニ保管スルモノトス

   第二条

 非常凶歉ニ際シ旧義倉金ヲ以テ救恤スルニハ主任ニ於テ実地調査ノ

 上共有者ノ衆議ヲ採リ薄利年賦無利子年賦ノ区別ヲ以テ貸与スルモノトス

   第三条

 若シ大凶歉ニシテ悉皆払切タルトキハ漸次蓄積ノ方法ヲ取極ムルモノトス

   第四条

 旧義倉金貯蓄僅少ニシテ末タ凶歉ノ予備スルニ足ラス故該金ハ現今ノ所悉皆利子付ヲ以テ村内共有者へ貸附シ専ラ増

 殖ヲ謀ルヲ目的トス

   第五条

 旧義倉金取扱ノ為メ主任若干名ヲ設ケ該金一切ノ事ヲ監理セシムルモノトス

   第六条

 旧義倉金取扱方法ハ別段之ヲ組成スルモノトス

 右共有者ノ衆議ニ因り取極候事(原文のまま)

   石川郡清金村旧義倉金共有人惣代

             北岸六郎右衛門 (印)

             宮崎  吉兵衛 (印)

             金田 理右衛門 (印)

      村方連中記

             北岸六郎右衛門 (印)

                 以下二十二名連記

 

 農業共済組合

  農業共済制度は農業災害補償法施行により、それぞれの単位町村において組合を設立し、その運営を行ったものである。災害適用に関しては一定の掛金を賦課徴収して蓄積し、災害が発生した場合は、評価委員が災害の程度を評価し、その被害に対して補償する制度である。とくに終戦後はこの制度が法によって定められ、役員は選挙によって決められるようになった。災害の適用範囲もまず稲作、桑園、家畜、家屋など多方面に適用されている。

  昭和二十二年十二月十五日に富奥村共済組合が設立された。その後次のように変遷を経て今日に及んでいる。

  昭和二二・一二・一五  組合長 古源栄美  理事、監事 農協役員兼務  専任職員 寺西栄秀。

  昭和二五・ 六・ 一  組合長 田中影信。

   〃    九・ 三  ジェーン台風により水稲、建物に甚大な被害を受ける。

  昭和二七・二八両年   二年間ともに激しい稲熱病まん廷し、稲作に大被害を与える。

  昭和三一・ 三・二九  富奥・野々市の両組合が合併し、新しい共済組合が発足。

              組合長 中島栄治  理事 古源幸啓、田中影信、谷 勝信  監事 山田一郎

  昭和三二・ 三・ 四  郷地区の稲荷・堀内・徳用・柳町・郷町・蓮花寺・三日市・二日市・長池が合併。

  昭和三二・ 六・ 一  押野地区の押野・押越・御経塚・野代が合併。ここで新しく野々市町農業共済組合として発足。

              組合長 田中影信。

  昭和三八・ 六・ 一  組合長 黒保 衛。

  昭和三八・ 七・ 一  農業災害制度が一部改正され、掛け金の九割までが積み立てされ、無事戻し制度が確立された。これは農薬の使用によって、稲作の被害皆無にひとしい状態となり、掛け金に非難の声が出たのでこの制度となり、組合員に対して信頼されるようになった。

  昭和四二・ 六・二一  農業災害補償法施行二十周年となり、野々市・富奥合併十周年となった。

  昭和四二・ 九・ 一  水稲作付け新品種兼六早生が七割近く不稔実となり、作付け農家の被害甚大。

  昭和四七・ 六・ 一  時代の要請により、野々市・鶴来・尾口・白峰・吉野谷・河内の六組合が合併して、ここに石川地区農業共済組合が発足。

              組合長 車 甚二  富奥地区から理事二名、評価委員一名、総代五名が選任。

              理事 宮川多喜蔵、北岡良爾  評価委員 田中勝二

              総代 作田 穣、山原俊弘、西井武夫、藤垣永三、長 稔、中野茂信。

  以上のように推移して今日に至っている。

 二、酪農組合

  水田酪農か叫ばれてから、平地水田地帯でも乳牛の飼育熱が盛んとなって来た。当村では進村与佐(藤平)、長井太吉(粟田)、吉本松吉(上林)らによって、いち早く乳牛が導入されたのは終戦の前後であった。

  一方、農耕用の改良和牛も、次第に耕耘機導入などで姿を消していったので、昭和二十七年頃、青年層の間から、機械化による地力減退と水田単作の複式化において乳牛飼育の必要性を痛感し、育成牛十四頭が初めて導入された。昭和二十九年頃から搾乳も始まり、いよいよ本格的酪農経営が始まったので、昭和三十一年新春、富奥酪農組合が設立された。さらに翌三十二年には優秀な酪農家の視察研修、講習会なども開催された。八月には役場横に搾乳共同集荷場も建設され、搾乳牛二十六頭、会員十八名に及んだ。昭和三十四年には石川県酪連に加入し、貸し付け牛五頭が導入された。昭和三十五年、中林地区に石川県で最初の大規模な組合員九名、乳牛二十頭の共同酪農施設が完成した。また、一戸で六頭から十頭の多頭飼育者も出来、酪農移行転換期へと進展してついに村内飼育頭数も五十四頭、組合員も二十数名となった。しかし、昭和三十八年頃から高度経済成長にともない工場進出が盛んになり、一〜二頭の個人酪農家は経営困難に追い込まれていった。昭和四十二年頃会員もついに六名、乳牛も二十頭を割るに至った。初代酪農組合長 田中彰信、二代中村一郎。

 

 

 三、富奥緬羊組合

  昭和二十六年春、富奥青産研の間で緬羊飼育が話題となり、ただちに県畜産課へ補助その他のことを相談に行ったが、富奥地区では緬羊は不向きとのことであった。しかし、青年連の決意は堅く、同年七月十二日、これら青年の代表として橋田、中村の二人が福島県の産地へ買い付けに向かった。昭和二十六年七月二十一日、二十一頭の緬羊が初めて本村に迎えられた。

  昭和二十七年三月、県畜産課伊藤技官の指導により役場前で剪毛などの飼育について話を聞く。昭和二十八年から三十五年頃にかけて村内飼育数も六十余頭となり、県内でも緬羊飼育の主産地となった。ジンギスカン料理で舌つづみを打ち、意気さかんな青年の頃のなつかしい思い出であった。

  当時県下の畜産共進会に出場し、昭和三十五年には小林修、三十六年には吉本幸治の二人が特賞を獲得、その他上位入賞を独占したこともあった。

  緬羊組合役員  組合長 橋田 章(石川県緬羊組合副会長) 同 中村一郎(同)

 

 

 

 四、農業青色申告会

  昭和二十五年、当村に青色申告制度が創設された。この制度の特色は、明治時代からの賦課課税制度を改め、申告制度に基づいて自主的に記帳方式を習得し、農業所得に対する正しい納税方法を普及するのが目的である。

  終戦直後、中村朝経、谷信行の二人により自主的な研究グループとして発足したのが富奥農業青色申告会の始まりである。当時はまだ立派な帳簿もなく、各人がノートに日々の収支を細かく記載し、月末にはそれを集計して一年間の収支をまとめると、案外農業経営が明確になり、必要経費の多さは税務署の推定以上であった。

  昭和二十九年頃からさらにグループの人数も多くなり、農業経営の実態がつかめる青色申告の必要性を痛感して、それぞれ研修を重ね昭和三十一年二月、役場当局の援助を得て富奥農業青色申告会が設立された。

  二十六条の規約からその目的と事業を記すと次のとおりである。

   目的 本会は近代的税制の確立を図るため、青色申告制度の普及、周知に努め、あわせて企業経営の健全な発展を期すことを目的とする。

   事業 本会は前条の目的を達するために、左に掲げる事業を行う。

     1、青色申告書提出を前提とする記帳の指導相談。

     2、税務関係法規その他必要事項の伝達。

     3、税務会計の指導と税務の相談。

     4、税務計理と経営などに関する講習会の開催。

     5、青色申告制度についての必要な調査研究。

   青色申告の経過

    昭和二十五年 青色申告制度が出来る。

    〃 二十七年 専従者控除認められる。

    〃  三十年 全国青色申告総連の結成。

    〃 三十一年 石川郡連合会結成。

    〃  〃   富奥農業青色申告会結成。都連に加入。

    〃 三十二年 農業簿記の作成。

    〃 三十六年 青色帳簿国税庁認定。

    〃 四十三年 完全給与制実施。

    〃 四十六年 事業主報酬実施。

   歴代役員と会員数

  昭和  会 長    副会長    会 訂    会員数

  三一  中村朝雄   河村好一郎  小林孝次    六六名

  三二  河村好一郎  小林孝次   中野久男   一三九名

  三三  小林孝次   中野久男   北村一郎   一三九名

  三四  中野久男   北村一郎   小林 巌   一七五名

  三五  北村一郎   小林 巌   中島久雄   一七八名

  三六  小林 巌   中島久維   村上 尚   一五二名

  三七  中島久雄   村上 尚   宮岸 隆   一二二名

  三八  村上 尚   宮岸 隆   北村信夫   一二〇名

  三九  宮岸 隆   北村信夫   村井義美    九七名

  四〇  北村信夫   村井義美   山本茂喜    九三名

  四一  村井義美   山本茂喜   中野茂信    九二名

  四二  山本茂喜   中野茂信   木林恍一    九二名

  四三  村井幸次郎  中野茂信   木林恍一    九九各

  四四  村井幸次郎  中野茂信   森 昌昭   一〇六名

  四五  中野茂信   森 昌昭   本 正行   一〇二名

  四六  中野茂信   森 昌昭   本 正行    九一名

  四七  森 昌昭   本 正行   西村信一    八九名

  四八  本 正行   西村信一   西村章夫    八八名

  四九  西村信一   西村章夫   神田欣治    八八名

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 ▲ 1:第一節 土地の所有権とその動き 2:第二節 水利事業 3:第三節 耕地整理と土地改良 4:第四節 農業委員会 5:第五節 稲作農法の移り変わり 6:第六節 農業諸団体 7:第七節 農地転用状況