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第七章 学校教育

 

==第一節 学制の施行==

 

第一節 学制の施行

  明治五年に旧藩時代における藩学及び寺小屋式教育が改められ、学校教育を統一すべく、新しい方式を採用して学制が発布された。

  明治十二年にはさらに「教育令」が布告された。これは先の制度に対して自由教育令というが、学区別による学校施設を廃し、町村ごと、または数町村連合して公立小学校を設けさせるように改めたものである。しかも毎年四ヵ月出席すればよく、義務教育は十六ヵ月で終わることになっていた。つまり、義務教育四ヵ年のうち十六ヵ月出席すればよいということである。

  明治十四年五月、教則綱領が制定され、修身科を教科の最重要科目とし、道徳教育を重視、さらに歴史科においては「尊皇愛国の志気を養成せんことを要す」とする教育を強調している。

  明治十九年の小学校令によれば、小学校を高等(四年)尋常(四年)の二つに分け、土地の状況により小学校簡易科を設けて、尋常小学校に代用するものとし、児童六歳より十四歳に至る八ヵ年をもって学齢とし義務づけた。

  明治十三年「君が代」が初演され、二十二年大日本帝国憲法発布、翌二十三年、国民教育の規範とすべく「教育に関する勅語」が下賜された。さらに明治二十四年には中学校令を公布し、教育勅語などの関係から「祝祭日」が規定され、「小学校祝日大祭日儀式規定」などが決められ、御真影に対しては最敬礼し、必ず勅語を奉読すべしと規定された。

  明治三十三年八月、小学校令の改正及び小学校施行規則が制定されて、学校教育はさらに基礎が強固なものとなった。

  明治三十五年四月にはわが富奥村一円(太平寺を除く)で初めて一つの尋常小学校が設立されたのである。

  大正四年に御真影奉安所が完成し、天皇陛下の御写真が伝達され、御大典記念とあわせて盛大な旗行列や提灯行列が催された。

  大正六年四月から野々市校に通学していた太平寺の児童が富奥小学校に復帰し、ここに全村一円の教育が実現した。

 この年、一方では村役場の移転などがあって多忙であった。こうした変遷改革の中で、本村の教育は着実に歩みはぐくまれていったのである。そのゆりかご時代ともいうべき跡をたどって見よう。

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富奥郷土史