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==第三節 各小学校の推移==

 

第三節 各小学校の推移

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一、中林小学校

 1 末松部落学校の設立

 明治六年十一月十三日、末松村・清金村・中林村・福正寺村の四ヵ村が連合し、末松村に初めて校舎が新築された。

 2 立恢小学校と改称

 明治八年十一月、四ヵ村中央の地(末松村字緒地の田)へ校舎を新築、立恢小学校と称する。以後一ヵ年あるいは二ヵ年ごとに二、三人の訓導及び補助者を招いて授業(月俸四円~三円位)。同十二年八月、チフスで三ヵ月授業停止。このころ学務委員の氏名を初めて記録(月俸五十銭)。同十三年九月、郡長より優等生が授賞されたと記録されている。同十六年七月、本校で三十六番、三十八番の二等区分が合併して、奨励会を執行。出席生徒およそ三百名。当日官吏郡長、書記戸長等が臨席、会終わって生徒一同に賞詞、賞品を賜う。この日父兄、隣校の教員、学

 務委員等多数の参観人があり、校内立錐の余地なきに至る。十六年十二月、初等科大試業を施行、及第した者は四名だったという。同十八年六月三十日、規則改正により職員一同解任。

 3 合併

 明治十八年七月一日、初等小学科の資格で立恢小学校は同分校と合併した。

 立恢小学校分校の由来

 ① 七原小学校の設立 明治六年八月、石川郡上新庄村外十四ヵ村連合して設立。

 ② 児津小学校 明治六年十二月、各村分離し、今西・上林・木津の三ヵ村をもって設立開校。

 ③ 楽群小学校分校設置 明治十年、上林村から児津小学校に到る距離が数町もあり、児童の通学に甚だ困難を感ずるので、同村有志は力を尽くし、上林に木津小学校分校を設置し、楽群小学校と改称。

 ④ 上林小学校と改称 明治十三年一月、上林一村は独立して学校を持ち、上林小学校と称す。

 ⑤ 立恢小学校分校と改称 明治十四年十二月、石川県学区制定により七原・児津・楽群・上林の各小学校は立恢小学校分校と改称することになった。

 ⑥ 清金小学校

  明治十八年七月一日、それまでの立恢小学校、上林小学校などを廃し合併して清金小学校と名称を更改、五番組合に属す。同二十年三月、改正小学校令実施につき職員一同解任。また一方で校舎の移築工事進行。

 ⑦ 尋常簡易科清金小学校と改称移転

  明治二十年四月一日、校舎を清金村地内へ移築、名称を改め開校する。野々市小学校組合と改称。このころより一ヵ年間皆出席者の表彰等が行われるようになった。同二十二年、野々市小学校で野々市・粟田新保・清金三校卒業生合同大試業が行われ十四名卒業。同年十一月石川県より一等就学旗が授与された。同二十四年十月、石川県訓令第八〇号をもって小学校組合が廃止された。

 ⑧ 村立清金尋常小学校

  勅令第二一五号により富奥村字清金に村立学校を設置し、旧尋常簡易科清金小学校校務を引き継ぎ、村立清金尋常小学校と命名、明治二十五年四月一日より開校。同時に中奥村字福正寺の教育事務を預託されたが、同八月これを解かれた。同十月、野々市・富奥・額・郷・三馬・押野・米丸の七ヵ村内各小学校で学校組合を設ける。

 ⑨ 中林尋常小学校

  明治二十七年六月五日、字清金に設置の尋常小学校が字中林へ変更されることになり、十一日より実施のむね郡長より告示され、同七月一日に移築、中林尋常小学校として開校した。同二十八年三月三十日卒業式が行われ、以後この月日に卒業式をする形態の始まりとなり、学校としての型に入る。同三十年五月二十七日に四年生と三年選抜生が四日間の修学旅行を行った。この時代の最初の行事のようである。また教科書は習字・算術・作文・読書の四科のようである。県より表彰の賞品は「八幡太郎」「金太郎」「狐の嫁入」などの本が与えられたと記されている。同三十一年六月、当組合連合大運動会(初回)が行われた。

 二、下林小学校

 1 設立 明治十年二月、下林・三納の二村は野々市小学校から分離し、藤平田村・藤平田新村は成恢小学校を分離し、四力村連合して下林小学校を下林地内の定林寺の堂字を借りて開校。

 2 積熙小学校と改称 連合村の協議により下林字丙八十五番地を借り受け校舎を新築し、校名を改めて積熙小学校と称した。

 石川郡三十八番学区に編入し、位川村本村に合併。その後書類なく不明。

 3 下林尋常簡易小学校 明治二十年四月一日に開設。通学村は下林・位川の二村とした。

  同二十一年十二月、本校で通俗教育談話会をひらき有益な話し合いをし、夜に入り幻灯会を催す。参観者は三百名だったという。

 同二十二年三月、証書授与式挙行。卒業生五名。同二十三年十一月、生徒四十名は勅語奉読会に松任へ出向く。同十二月、一等就学旗が下賜された。同二十四年十月、三年生十五名金沢小立野練兵場における運動会に参加。十一月村内三校と役場などが申し合わせ、上林村地内で天長節拝賀式勅語奉読式を挙行、終わって運動会をひらく。出席者三百名と記されている。

 4 村立下林尋常小学校 明治二十五年四月一日の学制改正で本村富奥内に粟田・清金・下林の三校を設直し、本校は村立下林尋常小学校と称した。このころの学校維持の一例として、三十年十二月の燃料費の支出表があるので記してみると

 藤平田区長   三十七銭四厘

 太平寺区長   八十九銭八厘

 位川区長    二十九銭九厘

 下林区長  二円二十八銭一厘

 とありそれぞれ学務委員へ送付している。

 同三十三年七月、便所を改築。工事総額十九円七十六銭で戸数割。

 同三十五年統合により廃校、分教場となる。

 三、粟田新保小学校

  1 成恢小学校設置 明治六年三月、粟田新保地内に新築開校した。通学村は粟田新保村・矢作村・藤平田村・藤平田新村・三十刈村の六ヵ村。同十年二月、藤平田村・藤平田新村の二村は分離して下林校へ移籍通学する。

 2 藤平田小学校 同十四年十二月、学区制定により藤平田村地内に校舎を作るよう指定せられた。また三十刈村は成恢小学校から分離して四十万校へ通学。当校の通学村は旧成恢小学校下の三納村・藤平田新村の六ヵ村になった。

 3 粟田新保尋常簡易科小学校同十九年十一月県令布達を以て従来の学校を廃し、一郡区一学区とし、当粟田新保に指定される。すなわち旧藤平田校及び額乙九校を廃し、旧藤平田校下の藤平田村・粟田新保村・三納村・藤平田新村・矢作村・下新庄村及び旧額乙丸校下の額乙丸村・大額村・額新保村の九ヵ村を尋常科及び簡易科の通学村とすることとなった。同二十年三月、五番組合に属す。野々市校と同じ組合である。同二十年四月一日より開校発足。

 4 村立粟田新保尋常小学校 同二十五年四月、額乙丸村・額新保村・大額村の三村分離し、額乙丸に一佼を設置。藤平田村も分離し下林校へ通学。上新庄村安養寺校を分離して粟田新保尋常小学校へ合併、表記のように改称。同三十五年九月丁目、富奥村一円で一つの尋常小学校が設けられるとき、これらの学校は新校舎に移った。

  下林地内に積熙小学校が誕生した明治十六年ごろの記録から、当時の会議費、一ヵ年の経費等記してみよう。

   積熙小学校会議案

       (伊藤好麿・新森晃提供)

  会議費

 一、金拾銭宛   議長議員日当一人分

 一、金弐拾銭   書記一日一人分

 一、金拾七銭   番外戸長一日一人分

 一、金 六銭   小仕一日一人分

 一、金四拾銭   料紙筆墨茶炭一日分

  明治十六年度一ヶ年経費

 一、金弐円    学務委員給料

 但シ年給

 一、金百弐円   教員給料

 但シ男教員一名月八円ノ処、今度五拾銭増給、都合八円五拾銭ト積算ス

 一、金五拾四円  教員給料

 但シ女教員一名月給四円三拾銭ノ処、今度一ヶ月弐拾銭増給、都合四円五拾銭ト積算ス

 一、金拾二円雇教員給料

 但シ男雇教員一名月給一円ト積算ス

 一、金拾四円四拾銭 小仕給料

 但シ一名トシ月給九十銭、外ニ使共

 一、金六円    雑務給料

 但シ一ヶ月五拾銭宛ト積算ス

 一、金壱円五拾銭   胡粉棒

 但シ壱ヶ年拾箱、一箱ニ付拾五銭宛ト積算ス

 一、金壱円弐拾六銭  学校敷地受地代

 但シ壱ヶ年分横算ス

 一、金(拾弐円)拾円炭代

 但シ壱ヶ年炭三十俵、一俵二付四拾銭ト積算ス

 一、金三円三拾六銭  油代

 但シ一ヶ月七合宛、一升二付四十銭ト積算ス

 一、金六拾銭     朱

 但シ壱ヶ月五銭宛ノ積算

 一、金八拾銭     筆

 但シ壱ヶ年積算

 一、金(五拾銭)三拾五銭 墨

 但シ壱ヶ年積算

 一、金(弐拾銭)拾銭

 但シ壱ヶ年積算

 一、金三円三十六銭  料紙

 但シ一ヶ月系紙中折共一束宛見図概算

 一、金(五円)三円五十銭 書籍

 但シーヶ年書籍買掲見図概算

 一、金(壱円)五拾銭   畳表替

 但シ壱ヶ年概算

 一、金(拾八円)拾円   学校人夫修繕費

 但シ壱ヶ年分積算

 一、金(弐円)壱円    郡長外臨席費

 但シ壱ヶ年見図入費概算

 一、金(壱円)五拾銭   時計修繕費

 但シ壱ヶ年積算

 一、金壱円五拾銭   生徒験費

 但シ年二度見図概算

 一、金弐円      御補助金返納

 但シ学校費課賦 五十銭図リ

 一、金五円十六銭   御補助金利子

 但シ元金四十三円、利子三月ヨリ一年分

 一、金四円      学校瓦頼母子出金

 但シ年四度、一会ニ付一円宛積算ス

 一、教員増給ハ十六年度一月ヨリ増給ス

 一、雇教員増員ハ十六年度二月ヨリ聘用スルコト

  以上清熙小学校会議録によるが、カッコ内の数字には×印がつけてあり、案を訂正したものと思われる。

  教員の給料はその当時としては非常に高給だったようで、学校教育に、当時の父兄たちが寄せた期待が大変大きかったことがうかがわれる。中に「積照小学校」と書かれたものがあるが積熙小学校が正しい。

 御真影の奉還

  終戦後に生まれた人たちは、御真影についてあまり知らない。

  御真影は天皇陛下と皇后陛下のお写真のことで、当時文部省から全国の学校に下賜された。終戦までの教育の基本は、天皇を中心とした忠君愛国の教育であったからである。

  わが村の御真影は昭和四年に下賜され講堂の正面に御真影奉安室を造って納め、日常は鍵をかけておいたものである。奉安室の扉は三重から四重になっており、扉の中央両わきには菊の御紋葦がつけられ、おごそかなただ

 すまいであった。その上にカーテンを引いて、日常はすべて不敬に当たらないようになされていた。最後の扉は開く時ギーッと音がするようになっていた。

  そのころは、

 四方拝(一月一日)紀元節(二月十一日)天長節(天皇誕生日)明治節(明治天皇崩御の日)

 を四大節といって、全国民の祝い日とされていた。当時の新年拝賀式の通知があるので紹介しておこう。

  拝啓歳末余日なく心あわただしき折柄、愈々御清適奉賀候。陳ば来る大正十六年一月一日午前十時恒例により新年拝賀式擧行致侯条御来臨の栄を得度此段御案内申上候。

  益々御自愛の上、恙なく御越歳の様念じ上侯。

  大正十五年十二月二十四日

      富奥尋常高等小学校長  古川徳吉 印

  佃 安太郎殿

  注 この通知は大正十六年一月一日の新年拝賀式となっているが、通知の出された翌日すなわち大正十五年十二月二十五日午前一時二十五分に天皇陛下は崩御されている。従って大正十六年の年号はなかった。天皇陛下がなくなられた日から年号は昭和に改元されたのである。意義深い当時の通知だといえる。

  右のような通知が公職者全員に出された。そして定刻になると小学校の広い講堂に児童生徒ほもちろん、補習学校生徒、男女青年団員、村長以下公職者全員がぎっしりと整列する。学校では校長先生がモーニングを着用し、壇上の真ん中で最敬礼されて開扉が始まる。御真影奉安所の扉を一つ一つ開けてゆく。生徒を始め全員が最敬礼して扉の開くのを待つ。最後の扉がギーッギーッと誠に壮重な音をたてて、開かれると、天皇、皇后両陛下のお写真が姿を現わす。そのギーッという音がなんともいえぬ神々しいものを感じさせたものである。時間にすれば三分間ぐらいだったろう。

  真白い手袋の校長先生、威儀を整えた男先生とともに並ばれた女先生は、紋付きに紫の袴(はかま)、化粧も入念で誠にきれいであった。そして教頭先生が小さなカードに書いた式次第を読みあげ、校長先生の教育勅語の奉読から始まる。校長先生が壇上にあがり、御真影に一礼。教頭先生が紫のふくさで包んだ教育勅語を黒塗りの盆の上にのせ、うやうやしく高目にささげて校長先生の前に運ぶ。勅語を読まれると生徒を始め参列者は校長先生の奉読が終るまで頭を下げ、セキをこらえて静粛に聞く。

  それが終わると次に教頭先生が、「学校長御真影拝賀」と大きな声で読みあげ、つづいて先生、村長、生徒代表が拝賀。この時、並んでいる生徒の高等科男子の方から一番成績の良い生徒が一人代表して前へ出る。女子の方からも同じく代表が一人前へ出て並んで最敬礼すると全生徒が一緒に最敬礼する。ついで青年団代表、公職者全員が羽織袴姿で中央へ進み出て、助役の音頭で最敬礼する。校長訓話に続いて村長の祝辞がある。閉扉、解散、帰りぎわにきまって紅白の万頭をもらい、家に帰ったものである。

  こうした天皇中心の教育は敗戦という事実によってまっ殺され、御真影はなくなり、マッカーサー元帥の指令によりすべて県へ奉還され、その日から講堂の御真影は姿を消し、わが国の教育は根底からくずれて終戦後の混乱時代を招き、今日の民主教育に一大転換をしていったのである。静かに反省してみたいと思う。

  ついでに大正天皇崩御に関した通知もあるので記してみよう。

 富特第三九二號

  大正十五年十二月二十五日

      富奥村長 谷 市三郎 印

 各字区長殿

   通牒

 聖上陛下 今二十五日午前一時二十五分 御崩御アラセラル臣民一般誠ニ恐懼ニ堪ヘス候

  一、村民一般ニ御謹達ノ上哀悼ノ意ヲ表シ以テ謹慎スヘク様相成度候

  二、国旗ヲ掲クルモノハ上部ニ黒布ヲ附シ竿頭ノ玉ヲ黒布デ包ムコト

  三、明二十六日午前十時本村小学校ニ於テ遥拝式ヲ謹行可致侯間村民一般御参列ノ様御伝達相成度候

  右不敢御通知申上候也

  このような通知が全村民に伝えられたのである。いま一つ次のような通知がある。

   昭和二年三月二十一日

        富奥村長 谷 市三郎 印

  佃 安太郎殿

    奉悼法会謹修ノ件通知

  来ル三月二十四日午後一時ヨリ本村小学校ニ於テ 先帝陛下 ノ奉悼法会謹修可致候聞仝日ハ午后一般休業ノ上擧テ御参詣ノ様御取計相成度而シテ当日講師トシテ本縣社会講師金沢市蛤坂町ノ名寺住職文学士ヲ招聘シ有之候間何卒多数御参詣ノ様併セテ御伝達ノ様相成度此段及通知候也

  追テ

  御参詣后ニ於テ本村電話施設計画ノ件ニ付其ノ筋ヨリ特ニ申越ノ次第モ有之特ト御協議致度候問是非御出席ノ様相成度中添候

  御真影と関係ないが、当時の人たちの真剣な姿がうかがえる。おもしろいことに電話が初めて話題になったことがわかる。

 

 

 

 

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