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==第五節 富奥尋常小学校の沿革==

 

第五節 富奥尋常小学校の沿革

  本校は明治三十五年四月一日に新設された。富奥村には元中林尋常小学校、粟田新保小学校、下林尋常小学校の三校が置かれていたものの、元来、一村に三校を設けるのは学政上いいことではないとして永寛敬信村長が三校合併の議を唱え、案を作って村会にはかった。この結果村会もこれを可として本村中央字中林地内に新築することを決議した。これは明治三十四年九月二十二日のことである。次いで位置の指定を受け、工事委員九名(藤井孫右衛門、山本紋兵衛、中島吉太郎、谷九郎兵衛、藤田佐太郎、北岸安三郎、松本太郎吉、林兵次郎、仏田長松)を選挙し、工事に着手したのは同年十二月十二日で、翌年三十五年三月竣工の見込みをもってその手続きをした。ところが工事が意外におくれ、四月一日に三校の児童をそこに収容することができなくなったので、従来の中林尋常小学校を仮りに富奥尋常小学校と称し、粟田新保、下林の二校を分教場とした。

  同年七月、ようやく校舎が新築落成、全生徒がここに移り校業を始めた。同年七月一日の調査によると本校職員、校長、訓導、准訓導はあわせて五名、児童は男百三名、女百十六名で学齢期の児童数とくらべると九分の一強に当たる。次に本校の沿革を明らかにするため、旧中林、粟田新保、下林三校に係る事歴を付記する。

  中林尋常小学校は元立恢小学校と称し、明治六年十一月、末松地内に新築、開校した。当時の通学区域は末松・清金・中林・福正寺の各村であった。上林村は明治六年八月、上新庄村外四ヵ村と連合し七原小学校を設立したが、通校不便のため協議のうえ各々分離、上林一村が独立して一校を設立した。同十四年十二月、学区制定により立恢小学校の分校となった。同十九年十一月、清金村に尋常科および簡易科小学校が指定され、元立恢小学校の校務を引き継ぎ、同二十年四月一日開校。同二十五年八月に至り福正寺村が分離した。同二十七年六月、清金小学校の位置が中林に変更指定され、元清金小学校の校務を引き継ぎ同年十一月移転、明治三十五年七月新校舎に移った。

  粟田新保小学校は元成曳小学校と称し、明治六年三月、粟田新保地内に開校した。当時の通学村は粟田新保・下新庄・矢作・藤平田・藤平田新・三十刈の各村だったが、同十年二月、藤平田・藤平田新の二村が分離して下林校へ通学した。明治十四年十二月、学区制定により、藤平田村に変更され、三十刈も分離して四十万村校へ通学した。同十九年十一月、粟田新保村に尋常科小学校が指定され、藤平田、乙九両校と福正寺校の校務を引き継ぎ明治二十年四月一日開校。同二十五年四月、額乙丸・大額・額新保三村が本校と分離し、額乙丸に一校を新設した。また、藤平田村も分離して下林校へ通学した。上新庄の一村は安養寺校を分離し、本校へ合併、明治三十五年七月、新校舎に移った。

  下林小学校は元積熙小学校と称した。明治十年二月、下林・三納の二村が野々市小学校から分離し、藤平田・藤平田新二村も成洩小学校から分離して四ヵ村連合で下林地内に新築開校。同十四年十二月学区制定により、位川村が野々市小学校から分離して本校へ合併した。

  また藤平田・藤平田新・三納の三村も本校から分離して藤平田校へ通学した。明治十九年十一月、簡易科小学校に指定され、翌二十年四月一日開校当時の通学村は下林・位川の二村のみ。同二十五年、藤平田一村が粟田校から分離太平寺の一村も野々市校から分離、ともに本校に通学した。明治三十五年七月、中林・粟田新保とともに新校舎に移った。

   明治三十五年七月

    富奥尋常小学校長    山田俊勝撰文

    富奥農業補習学校准訓導  小林栄弘謹書

  付記

  明治三十九年、義務教育が六ヵ年に延長され、同四十三年三月十日、村議会が決議して尋常高等小学校となった。第二代丹羽精吉校長(明治三十七年~同四十四年)と、第四代校長村北栄太郎(大正三年~同十五年)の両氏はともに県下の名校長として徳望高く今に仰慕されている。明治四十四年、時の村長小林栄太郎は村議会にはかり、教員住宅建設に着手、翌年十二月に建坪六十二坪のものを設立し、安んじて教護に専念できるよう利便を図った。これは県下で初めてである。

  これより先、松本太郎吉氏は末松・清金地区に耕地整理事業を起こし、上林・中林と順次村内に普及し、大正七年だいたい完了した。これを磯に四ヵ年にわたり、主要道路の大改修に着工、大正四年三月、おおよそ今日の道路網を完成した。地元の交通、産業の発展はもとより、通学の便に貢献すること大なるものがある。

  昭和十六年から戦争が激烈になり、国民学校と改称、同二十年八月十五日、第二次大戦終了とともに元の尋常高等小学校となった。

  昭和二十二年三月に教育基本法が制定され、いわゆる六・三・三制が実施され、中学校までが義務教育となった。

 同二十三年、校舎が狭くなったので旧校舎を廃棄、新たに木造二階建て校舎の新築に踏み切り、翌二十四年十一月に竣工した。

  昭和二十八年に町村合併促進法が公布され、同三十年四月一日、議論沸騰のうちに富奥村は野々市町に合併した。

  昭和三十二年十月二十三日、わが富奥小学校は創立五十五周年を記念して式典を挙げ、住民、村外在住者各位の賛助を得て、舞台をはじめ諸設備を完成、視聴覚教室も設備した。

  これより先、中学校は野々市中学校に統合、小学校もまた三十六年統合のやむなきに至り、ここに富奥小学校は完全にその歴史をのこして姿を消し、発展的に有終の美を収めることとなった。校舎跡は石川県立農業試験場に譲渡された。視聴覚教室は地元や有志各位の努力と切なる要望により、六十年にわたる思い出もあって現公民館に移し、大ホールとして諸会合ただ一つの場として今日に至っている。時に昭和三十七年十二月のことである。

 

 

 

 

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富奥郷土史