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==第十二節 涙の閉校式==
戦争に出征していた若者達がどっと復員して来たのと、敗戦の混乱から次第に立ち直りつつあったのとで、昭和二十二年頃から二十四年頃にかけていわゆるベビーブームとなった。その子供達が学齢期を迎えた昭和二十七、八年頃をピークとして教室が不足し、単位町村は学校施設の拡充に予算面からも人的面からも忙殺された。
ところがそれが過ぎると今度は逆に児童数が激減して来たのも皮肉な現象であった。その頃、昭和二十八年に町村合併促進法が公布されると同時に、中学校統合が叫ばれるようになった。わが村では昭和二十四年に二階建て、木造のスマートな新校舎が新築されたばかりなのに、野々市町に統合中学校建設が決定し、村民多数の反対もあったがついに昭和三十一年十一月に富奥中学校は統合中学校に移ったのである。
それより先、即ち昭和三十年四月一日、村民挙げての反対にもかかわらず時流に抗するすべもなく、富奥村は野々市町と合併したのである。こうして残された富奥小学校も児童数は減少の一途をたどり、昭和三十六年頃には複式学級寸前となるほどになった。そして小学校も昭和三十四年頃から統合小学校の案が出され、村民をはじめ育友会でもこれが是非の論議となり、アンケートなどを通じて統合か、単独かの二者択一に迫られたのである。
その結果村の大勢は統合小学校賛成に傾く状態になっていった。当時、小学校の育友会長は断腸の思いで教育長・長田衛氏に、せめて新統合小学校の名称だけでも新しい校名にして欲しいと談じ込んだが、入れられなかった。
その後、白山公民館で石川郡育友会連合大会が行われた時、全体会議で特別発言を求めて、これから各町村で行われる小学校統合では、地域住民の感情を十分に汲み取って、強行をしないよう各町村へ要望して欲しいとの意味の提案をしたことを記憶している。石川郡の各町村の統合小学校は、ほとんどその名称を時代にふさわしい新校名を採用している。
そうした経過のうちにも小学校統合は現実のものとなり、野々市町の現在地に統合小学校が建設された。昭和三十六年からは富奥教場と校名が変わり、昭和三十七年七月二十四日、全校児童と村民多数が集まって最後の富奥小学校に別れを告げるべく厳粛なうちに限りない感慨を込めて閉校式を行った。「蛍の光」を合唱する頃は各人の胸に、そしてまぶたに涙があふれるのをどうすることも出来なかった。なつかしい校舎は翌三十八年三月、跡かたもなく取りこわされた。あれから十年余。、昭和四十九年十二月一日に富奥地内、三納、位川にまたがって、新校舎が数億円の総工費で落成した。
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富奥郷土史